3.08・平澤計七君を憶ひて


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平澤計七君を憶ひて
 僕と平澤君との交際は余り長くはない。平澤君が亀戸警察で殺されたは、確か地震九月の三日真夜中で、僕の平澤君を知つたは、その前年十一月の三日真昼間であつた。僅かに一年ソコソコ確かに長くはないが、その間平澤君は、一人で僕の『労働週報』を編輯し、家族と共に僕の家庭に同居し、僕と共に色々の陰謀も企て、僕の看板で『労働者法律相談所』もやつた位だから、短い割合には深い間柄だとも云へる。之れが即ち此序文を書く資格を取つた所以であらう。
 本の序文には一体どんな事を書くものであるか、素人の僕には商売の呼吸がサツパリわからない。のみならず、僕は一体誰に頼まれて、どんな本に序文を書くのだかも知らず、ただ平澤君記念の本にチヨツトした序文を書くのだといふ命令を受けただけだ。
 チヨツト忘れたが、何とかいふ諺があつた。実際僕は、今平澤君が生きてゐてくれたらばと思ふ事が度々ある。僕の『社会運動日報』『月報』『年鑑』の計画は一度も成立した事がない。そして僕はその都度平澤君を憶ふ。僕が一昨年十一月『労働週報』を創めた時、その道の玄人、大家は皆一人で週刊の編輯が出来つこがないと保証してくれた。しかし平澤君はその上事務から発送迄皆一人でやり遂げた。しかも廃刊になつてからの評判では、労働新聞としては『週報』前に『週報』なく『週報』後に『週報』なしといふ事であつた。
 最近、労働組合総連合の前触れだともいふ労働組合法律部連盟の『労働組合法律相談所』が各組合に出来た。それに付けても偲ばるるは平澤君である。平澤君は『週報』の人事相談部長として、又『労働者法律相談所』主任として、熱と力と気と押と根と理と頑と柔とで、大山公、二條公、古河、川崎、和田、大倉、浅野、大橋等大資本家、大会社に対する数多の労働法律事件を見事上手に解決し、死後今に至る迄未知の労働者から感謝と憤激と血と涙の礼状を貰つて居る。
 友愛会時代の総同盟にも平澤君時代があり、機会連合会創立早々にも平澤君の時代があつたさうだ。そして平澤君自身の語る『僕ほど大きなストライキに多く関係し、僕ほどストライキ運のよかつた者はない。』といふ事は萬更ウソでもなかつたといふ事だ。此の得意が即ち身を亡ぼしたのだといふ事は今明かになつたが、それでも僕は東京の労働組合界に何か変動が起り、問題がある毎に、何時でも平澤君のあの煽動家らしい、あの演説、あの顔と声、あの時々誤解を招いたあの策動活躍を思ひ出す。殊に隣りの機会連合会で有給専任者を物色したり、経費捻出の相談をしたりするを見ると、ツイ隣家の誼か、平澤君の事を考へ出す。平澤君は実に貧乏世帯の、穏健組合の、労働団体主事に持つて来いの人であつたと思ふ。
 平澤君にも時々厭の処があつた。先が見えた時、之れに応じて屢々大中小の芝居を打つ事が特に厭だつた。此の芝居を敵方に打つ時はマダ何でもないが、味方友達同志仲間に打つた時、時々評判を悪くし、誤解を大きくしたらしい。しかし、友愛会時代に何の事かで弾劾排斥を受けた事は、アレは全く一派の誤解若くは陰謀で、少しも平澤君に過失、失策、悪い点は無かつたのだとは、当時平澤君と東京毎日新聞に居た現総同盟主事の加藤勘十君から当時聞いたし、又当時弾劾排斥の急先鋒の第一人者であつた高田和逸君も現にさう言つてる。
 キツト此の序文では一番書かなくてはならない事は、平澤君の文学芸術に就いてであらうが、その点なら乍憚、僕は一向に知らない。しかしコンナ面白い話がある。
 僕の『労働週報』は一ケ月五百円位かかつた。何か考へ出さなくては到底やりきれぬとなつた。ソコデ僕の考へ出したは人事法律相談部と先づ貴衆両議員から一年分三円宛の前金を取る事であつたが、平澤君の考案したのは、『週報』主催労働劇及び労働講談の興行と女優、俳優、文学者、芸術家及び鉄工所より一年分の前金購読料を集める事であつた。成程、考へて見ると平澤君は元鍛冶屋で、七等俳優で、講談もやり、芝居もやり、文学者もやつた人であつた。
 コンナ事を書いてると只ニコニコ可笑しいだけで何でもないが、殺された事を考へ出すと実際腹が立ち、全く別人になる。しかし朝鮮人やその他色々の事を思ふと、あの場合仕方がない、運が悪かつたのだ、気が狂つたのだ、血迷つたのだと諦められない事もないが、間違つた、悪かつたと今では百も二百も承知しながら、尚飽くまでその非を遂げようとする彼等を見る時は、何と云つても八幡承知出来ない気がする。といつて恨むべく、咀ふべきは国家でなく、寧ろ多少でも関係した責任ある個人であり、その子々孫々であると云はねばならないとは思へまい。でも平澤君は可なり仕事もして生甲斐のあつた人間であり、その最後も華々しく言伝へられて死甲斐のあつた亡者であるから、実は今では左程にも思はない。しかし為すべき多くの仕事を持つたまま、同じ運命に陥つた南葛労働会の若い諸君及びその氏名も知れずに終つた多くの人々の事を思ひ出す時には、イクラ僕でも独り粛然として只恨涙限りなく流るるのみで、もうジヨウダン一つ書くことが出来ない。(那須噴火口上下小松温泉旅館にて、雨降り涙澪るる大正十三年五月二十一日。)
<山崎今朝弥著、山崎伯爵創作集に収録>
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