3.07・外二名及大杉君の思出


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外二名及大杉君の思出
      (一)
 この表題で一度原稿を書き終つたは十月七日の夜であつた。其原稿では先づ大杉家の系図を掲げ、栄と栄の妻伊藤野枝と、栄の末妹あやめの一子宗一(七歳)とが、大正十二年九月十六日夜、麹町区大手町一丁目一番地で死んだこと、栄等兄弟と陸軍中将山田保永とは三親等の姻族、陸軍中将現京都師団長前憲兵司令官山田良之輔とは四親等の血族であること、幼児宗一は米国人でもあること、其他色々のことを明かにし、以て其筋があくまでも秘くさんとした処を意地悪くバラさんと試みた。
 然るに九月一日の激震は事咄嗟に起り其の震動極めて峻烈にして家屋の潰倒、男女の惨死幾萬なるを知らず、剰へ火災四方に起りて災焔天に冲り京浜其の他の市邑一夜にして焦土と化したが、十月八日の解禁は事止むなきに出で、其の範囲極めて案外にして、折角の苦心屁の足しにもならず、剰へ公判の結果は疑実四方に起りて新聞天下に普く、系図其他の逸話一朝にして陳腐に属した。で、復た茲に表題を鶏助する外稿を更めるの止むなきに至つた。
 が、大杉君には詳しく詳しい自叙伝もある。長い長い間、其日々々の生活は新聞雑誌の種になつたり、又は生活の種にしたりして居た。特に最近の最後では、問屋と雖もその倉庫を空にさせられた傾きがある。で、ウマ味カラ味は到底及びもないが、でも永い間の間柄であつたを楯に、なるべく珍味の処を盛れるだけ沢山盛つてみる。言ひ後れたが僕の受けた注文は、大杉君の逸話又は思出を十枚許りと云ふにあつた。
      (二)
 大杉君等は確かに殺されたに相違ない。が、イクラ考へて見てもホントに死んだとは思へない。大杉君の柔道の先生で、坂本何とか云ふ宮内省の御役人が、大杉の腕前ならイクラ欺し討でも手を縛られたでない限り、三人や四人では到底ノドを締めきれるものでない、と杉浦翁に話したときいてからは、一層益々、あの男のことだから人騒せに、今に又々ヒヨツクリ生きて出るかもしれない。などと考へて見たが、今に出て来ない。
 大杉君は倨傲狷介縦論横議といふが通り相場だつた。又その点はその通りに相違なかつたが、現に目をツブつて静かに往事を思出すと、出て来るものは何時も、野枝さんとマコと揃うて、軽い悪口を叩きながら、紅茶を啜つて上手に世間話をする、洋服姿のニコニコ顔で、どうしても、目を瞋らし、腕を振り、声を張り、不意に飛び付く大小幾十の猛獣を相手に縦横無尽に荒れ狂ひ、血を吐く如く泣き叫ぶ女子供を庇ふ、妖怪でもなければ、衣類は剥がれ、宝物は取られ、血身泥になつて奥底深く井戸の中より現はれ出でたる、足のない化物でもない。又吃々として、優も美も血も涙もない、全く鬼畜に均しい残虐無道の行為、歴然として栄達利慾を念とし、判然として思慮信念を欠く無智陋劣の行為、とうとうバレル迄逃げ通し、かくし通したその上で、尚責任を上下左右に転嫁し、道連まで拵へる卑怯未練の行為、入智恵にせよ一旦引受けながら、惜しくなり、怖くなり、只もう軽くなりたいばかりに、一層大きな泥を塗り、恥をかき、男を下げる行為を、怨めしや、怖めしやと、責め、詰り、かき口説く幽霊でもない。
 更に再び目をツブれば、今度は保子さんと二人りで金借に来て、苦労性の世話女房にのみ物言はせ、自分はニードの広告よろしくのドス黒い、ズルさうな顔で黙つて目を光らしてゐる和服姿が出て来た。
      (三)
 大杉君と最後に別れたのは八月末、機械連合の大会が協調会にあつた際であつた。その時は珍らしく一人で来て、二人で飯を食うて、大勢で柔和しく帰つた。別に覚えてる程の話はなかつた。で、ホントの最後の会合は、仏国を追放されて帰ると間もなく、例の三人でやつて来た時である。妻の居る間は、仏蘭西の話、浮世の話、子供の話で、菓子を平げながら時間を殺したが、妻が下へ降りると、洋行の用向、秘くして行つたわけ、旅費調達の苦心、今後の運動方法などを語り出した。その間マコと堅公(僕の独り子で、もし僕と共に之れを殺しでもする者があれば、少しでも之れに関係あるその者の九族は、その老幼たると男女たるとを問はず、立ち所に必ず之れを亡ぼし尽して見せるといふ程僕が可愛がつてる九歳の子)とは歌つたり、踊つたり、泣いたり、笑つたり、喧嘩したり、バカにハシヤギ廻つてゐた。
 三角問題では服部浜次君が野枝党、宮島資夫君が神近党の旗頭で、僕は保子派と目されて居た。でも僕は何時頃からか、とうの昔に神近さんとも野枝さんとも気持よい仲になつてゐた。僕の妻は保子さんへの義理立許りでなく、どうも野枝さんと相許す間柄と云ふ程にはならなかつた。大杉君も野枝さんも素振りで之れを知つてる。で、野枝さんは僕からみると気の毒な程、僕の妻に下た手に出てゐた。此日も野枝さんは来るなり堅公にマコを謝罪らせうとした。去年僕と妻とで堅公を連れて鎌倉へ行つたとき、帰りを送つて来たマコと堅公とが停車場で大喧嘩をし、双方の両親と尾行とが総出で漸く引分けた。その後二人は久しく正義を主張して相譲らなかつたが、今年の初め頃からマコが悪かつたから堅チヤンにあやまりに行くと、言つてると云ふ野枝さんの話であつた。マコは今日初めてその機会を得た訳なんだが、野枝さんが色々の心尽しもその効なくマコはどうしてもあやまらなかつた。
      (四)
 大杉君にも多少因縁話がある。先日『朝日』で志賀重昻翁が、恰度百年前の九月十六日に、モルモン宗の始祖モルモンが、同じく『軍人に親子三人で殺された。その為めモルモン教は大成した。後世日本に無政府主義がハビコつたら、それは無智なる軍人の功績である。』と暗に、或は明かに甘粕某を悪罵したと記憶する。大杉君はコンナ事は知らなかつたらうが、何の因縁かモルモン宗やその宗祖の話をよくした。軍隊に殺されることと憲兵に殺されることも既に多少の縁があるのに、三人で殺されるとは一層縁が深い。マコと宗一君、男と女の相違はあつても七歳の幼児たることは同じだつた。
 曽つて大杉君が警視庁に狙はれ、検挙に継ぐの検挙で、続いて七回も検事局に送られたが、イツカなヒツかからず、何れも不起訴で一つも物にならなかつた。ソコで警視庁では二三年前に余所で捨ててあつた屁のやうな事件を新に千葉から拾つてきて、とうとう物にした。この悪辣執拗の行為に忽ち義憤を発し、敢然起つて大杉君のために、その人格の高潔とその識見の非凡とを極力高調弁護した塚崎直義君が、今や遙かに幽明境を異にし、却つて天職と営業とのため、その人格と識見とを云為せざるを得ざることも、又塚崎君努力と信仰との結果が、調書及公判に表はれざる、共犯範囲と命令範囲とを薄々世間に明確ならしめ、明かに犯人甘粕の不誠、不純、不男、不士、不道、不人と、寄つて集かつての打合せが不充分であつたこととを暴露し、以て塚崎君の所謂人格高潔識見非凡なる大杉君をして聊か瞑するに足る処あらしめたのも何かの因縁であらう。
 大杉君の裁判官が、大杉君の妹の亭主の兄の妻の妹の夫の祖父の従兄弟の養家先の兄の孫であることも、(コレは決して串談ではない、甘粕の弁護人が身命を賭しての大発見だ。)多少の因縁がないとは云へまい。その又裁判官が仲間割れの結果変はれば尚更因縁といふものだ。
 序に僕にも因縁がある。宗一君の母のあやめさんが未成年の時、父少佐の遺族扶助料を取るためだつたか、又は遺産相続放棄のためだつたか、大杉君はあやめさんの後見人、堺君と保子さんと誰かは親族会員、僕はその後見監督人であつた。
 僕が茅ケ崎で地震憲兵火事巡査の厄災を免れ、焼跡見物に帰京して事務所の丸残りを知り、腰も抜けんばかりに驚いたが、何もかも一切天佑と諦め、早速、『人無事家安全、知人の消息早く知りたし』の新聞広告を出したら、イの一番に和田久太郎君から労運社の消息と共に大杉一家無事安全の報告があつたが、その手紙の日付が九月十六日午後八時で、着いたのが大杉君と野枝さんと子供一人が、確かに一昨夜憲兵隊内で将校多数立会の上惨殺されたと報告してくれに新聞記者が来た時と同時であつた事も何かの因縁か。
      (五)
 あと僅かで制限に達するから今から駆足だ。大杉君があの最中殺されるすぐ前、荒畑君と吉川守邦君との留守宅を見舞ふたを、虫が知らせたのだと云ふ者もあるが、大杉君でも堺君でも公私は決して混淆しなかつた。犬猿啻ならぬ両君の間でも、運動上の事や天変地異の挨拶にはよく往来をした。大杉君のチブスの見舞には僕と堺君とがセントルカへ行つた。堺君の盲腸炎の時には僕と大杉君とで森ケ崎へ行つた。共産党事件がなく、外に居つたら今度も堺君が真ツ先に奔走してくれたらう。が、双方何れも申分は御尤ながら、兎に角あの間柄で永遠に仲直りの出来なかつたのは双方の為に何より惜しい事であつた。
 大杉君にもアレで中々人間らしい-と云へば人聞が悪いが-シホらしい処がある。あの当時はアレで保子さんを避けて歩行いてゐた。一度売文社で保子さんに遭遇して退ツ引ならなかつた時、隠してくれ隠してくれとばかりに人の後に隠れた事がある。貧乏で花の咲いた当時、飯は今食つてきたなどウソをいうて遠慮した事もある。僕にかくして-野枝さんにかくしたか否かは知らぬ-その後保子さんに金を送つて居たたらしい形跡がある。(保子さんと大杉君との間は馬場孤蝶さんや堺君が手を引いた後、僕が解決係となり、済んだその後も総て僕を通して交渉談判する事になつてゐた。)返す積りの気でもあつたのか、月賦にしてくれの、待つてくれの、と初めの中は屢々借金の言訳をした事もある。余り只の客が多く行くので布施弁護士と奥山医師には気の毒でたまらないなどいふた事もある。(そのくせ夫子自分はどの組だつたらう。)
 大杉君が尾行の遺族から死亡の通知を受けた話、余り賞揚られて塚崎君の弁護を忌避した話、スパイを放つてスパイを押へた話などは、何れ自叙伝に出るか出たかだらう。遊里へ足を入れても決して身を入れなかつた話は、その発見者たる和田久さんでも書くだらう。
 手紙判断演説判断、サテは又被告つ振り、交際つ振り、喧嘩つ振り、十八番話に御免話、強情我慢意地つ張り、自慢高慢稚気自惚、失意時代の逸話や得意時代の失敗談、ズルイ話、図々しい話、負け嫌ひで食はず嫌の話等は到底今日の埒には明かない。(大正十二年十月十三日)
<山崎今朝弥著、山崎伯爵創作集に収録>
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