続愛児命名録
○ 山崎今朝彌
意地の悪い姑が嫁に「オ前達イクラ子供を生むでも一向構はないが、附ける名が無くなつたらば困る」と嘆息したと云ふ話がある。何十人生まうが名に困らない名を附けようと苦心した私は漸くの事で、男に長男次男三男、女は長女次女三女で行く事を考へた。処が、長男は三歳にして逝き、長女は三日にして去り、其後は反つて名を付ける元気が無くなつた。暫くして次男が生れた時は意地も張りも無くなり、毎日呼び易く間違ひ難き名をと撰んで、カキクケコの音を取つて堅吉と命名したが、コレモ他人には健吉賢吉と書かれ滅多にホントの名は書かれなかつた。其後十有余年老いて益々漸く震災を紀念して孫のような次女を弘前の弘前病院に挙げた時は、既に予め男なら弘二、女なら弘子と定まつて居た。長女の死灰をドコでドウして紛失したか今だに行衛不明で忘れて居る。コノ親にも子のためならコレ位の苦心談はある。
<以上は、山崎今朝弥氏が著作者である。>
<旧仮名遣いはそのままとし、踊り字は修正し、旧漢字は適宜新漢字に修正した。>
<底本は、中央公論社『婦人公論』第11巻5号109頁、大正15年(1926年)5月号>
最終更新:2009年10月25日 22:56