堺君を語る


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堺君を語る
          弁護士 山崎今朝彌
 私が堺君を知つたのは明治四十年には相違ないが、何時何処で初めて会つたかは覚えがない。堺君は一体奇人変人偉人の類でなく、只の凡人常人才人の型であると思ふ。だが堺君とロシアの片山潜君とを取り変へたら、片山君は今頃或は日本で改宗者となり又は窮死者となつて居たかも知れないが、堺君はロシアでモツト有名になり国賓になりモツト羽振を利かせて居るに相違ない。穏忍自重、臨機応変、堺君の識才は並大抵のものではない。黙つて歯を喰縛つて、堺君の強情は一通りや二通りのものではない。
 早く死んだ幸徳秋水が今生きて居たとして、人気人望が元通り何時までも堺君以上で会つたかは疑問だ。仮令文章がヨリ上手で学問がヨリ以上であつたとしても、病弱のために人の面倒どころか人並以上の贅沢と養生とを必要とした故幸徳は『僅か一握りの』コセコセした主義者の間にあつて既に何回も、ダラ幹となり裏切者となり社会民主々義者となり、清算され没落され揚棄されて居たかも知れない。大過なき社会運動の巨頭として元老として光輝ある禿頭を、今も尚床柱の前に据えることを許される堺君の今日あるは、皆偏へに身体が健康で小まめに働き、生活が簡素で人間が安値平民的で、根気よく人の面倒を見てやることの賜である。
 山川均君などには身体の健康や自分の性格などを考へ、意識的に親分子分の関係を作るまいと努める形跡が見へるが、堺君はさうでもないらしい。然るに横死し夭死した大杉君や高畠君には却つて俗称所謂子分なる者があるのに、堺君にこれがないのは何の故だらうかといぶかる者がある。高畠君には国家社会主義の旗があり、大杉君には無政府主義の旗があつたが、堺君には何もないからだと説明した者があつたが、私にはこれが腑に落ちない。高畠君の国家社会主義は兎も角、無政府主義の旗を大杉君一人の処へ持つて行く理由も分らなければ、社会主義の旗を堺君の処へ担いで行けぬことも分らない。堺君の余り皮肉打算的を算へる者もあり、新者好きの移り気過多を数へる者もあるが、皮肉は大杉君決して堺君に譲らず、厭味打算は高畠君が反へつて専売の位だつた。新者移り気は思想家の通癖で、現に雑誌などは、誰にも分らない難解の論文が一つ二つなければ売れないと云ふ位だ。思ふに大杉君高畠君に子分があり、堺君に親分肌が無かつたのでなく、大杉君高畠君は現に尚面倒を見て貰ひたい人達の面倒を見てやつてる最中に死んだまでのことで、堺君も同じ時に同じく死んで了へば同じことである。
 私は堺君より七ツだか年若の筈だ。それでもトウの昔から既に歯マラ目で、身体は利かず物忘れはして困つてる。私の家は代々何事も「締めろ」「若い物に限る」「年寄は出娑張るな」が家伝で、其代り一族代々八十歳から百二十歳の長命をして居る。老いて益々壮んな堺君此頃の活躍を見て私は、バカだな今に死んで了ふだらうと心配して見た。
 先頃堺君の処で堺君は、細いものにも突かれ太いものでも殴られ、牢屋にも入れられ、演壇でも倒れて見たが、皆思つた程恐しく苦しくなかつた。それで死ねたら尚楽だつたらう。しかし人を見るに付け、年を取るとばかになる。もし僕に変な処が見えたら、諸君から注意してくれ、何時でも諸君の意に従ふ覚悟をして居る。と暗にボケない間に主義の為に殺されるか壇上で死ぬかしたいと云ふやうな悲壮の話をした。私は其時、成程堺君は吾々と違ひ却々強情で一徹で主義に忠実の真面目なる野心家で、しかも細心のよい覚悟を持つてる人だと思つた。が私はボケてもよいから矢鱈に堺君を殺したくない。ボケない間に早く一度代議士にして見たいと思つてる。従つて又堺君近頃の側近者諸君が余りに特別高等の階級的で堺君を殺して仕舞はんより、寧ろ堺君本来の下品に、堺君本位で何もかもやられんことを望んで居る。(五・二・三)
<以上は、山崎今朝弥氏が著作者である。>
<旧仮名遣いはそのままとし、踊り字は修正し、旧漢字は適宜新漢字に改めた。>
<底本は、『堺利彦を語る』(秀文閣書房、1930年2月18日発行)を用いた。>
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