私はどうして米国伯爵になったか-「真相鋏厄史」余録-


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私はどうして米国伯爵になったか-「真相鋏厄史」余録-
          故 山崎今朝彌
      編集部へ先づ一発
 あえて当世流行の人格権をふりまわして文句をつけるのでは決してないが、前回の大助虎の門の巻で、私の筆名を削ったのは、今までの日本人や日本政府と同じく人民の諸君も脳底のどこかに旧習旧慣どうけいの気持がコビリついて中々頭のきりかえがつかなく、勿体ないないで却って勿体なくもむだんですて去ったのか。
 元来米国伯爵のもつ幽玄妙諦のウイット、ユーモーア、ヒニク、フーシと日本民主々義革命に及ぼすその効能と影響力とはウイット、ユーモアでは本家本元の米国人なら了解するだろう。
 半分米国、半分日本で育ち、小学は米国で中学は日本で漸く卒業できた私の知ってる第二世の通訳があるが、この男それをコッチえマワシテ下さいという処を舌の短い口調で、それこちらへ運搬して下さいといい、時々便りをする時には妻君の通信を見覚えてか、終りはいつもあらあらかしこと結んである。これでは皮肉フーシの理解など思いもよるまい。
      世間は口がうるさい
 私が名刺にのせて米国から輸入したものは伯爵のほか法学博士、医学博士、哲学博士、その他色々と財産合計百万弗があった。千万弗は額に多少相違はあっても自分が百万弗長者となり、食に困らなくなった頃から何時とはなしに、忘れて使用しなくなった。
 博士号は人が色々博士とか、その他色々とか、いったりかいたりする間は面白かったが、事件の依頼人から法学博士様の手紙がきたり知人が「山崎博士」を広告や看板に使用するようになってからは、多少コワクなり厭きがさした処へ、辛苦廿年漸く米国学位を苦闘学取した朝日の米田切水君や、郷愁病まで煩って真面目の勉学労学を続け、ついにマスター・オブ・ローを獲得帰国した堀江専一郎君等が、愈々日本の博士となってからは、益々私の色々博士を非難するときいて、成程むりもない事だと同情し、以来ピタリと濫用を慎んだ。
 残る一つは古賀廉造、川村着治の両警保局長時代に召されて、貴族院あたりの頑固なわからず屋から、たとえ米国には爵がないからとて、余り伯爵を濫用するのは、結局爵位制度を嘲笑軽蔑するもので、これを取締らない当局は職務怠慢であると非難があって困るから止めてくれぬか、当方も何とか考えねばならぬとの相談警告があったが、惜しくて割愛できず、マサカ御心配の通りですともいえぬから、決してそういういみで使ってるのでなく、米国以来お笑草までにそれで通ってきているのですから、失礼させて下さい。何かドコカ法律に触れる処あったら知らせて下さい、イツでも止めますと断って引下がり、永く愛用してきたが、新憲法ともなり元華族と同格では、こん度はコッチが不足で物足らず、又民主々義の御時世に古くさい系図をふり廻すのもよい気持ではないが、今後族出するであろう元何々、元何々に先べんをつけ、今後は元の一字に新味を持たせ舶来物の数段の品質を覗かせ態とらしくない自然発生的の元米国伯爵を筆名に愛用することとし只の伯爵や米国伯爵とは永久に手を切ったが、人は何と呼ぶだろうか、従来とて軽称にせよ、愛称にせよ、カンタンに伯爵とよび、長たらしく米国伯爵とよんだ者はない。私の願いは私と協調して口からは永久に伯爵と手を切ってもらいたいことだ。これから伯爵とよばれると何だか日本華族出と誤解されそうで軽蔑を感ずる。
      日本人の脳底には封建思想がコビリついている
 一例にコンナのがある。大正七年中何か私の疳に障った事があったとみえ、私は当時ドクトル平民病院長加藤次郎の主宰していた社会政策実行団の名に総裁か何かの土方久元伯を、私の平民法律所顧問に推せんし、私と連名で私の平民法律六月号に広告を出した。処が十三日社会政策実行団幹事の一人、中村太八郎君が来て大に私を叱り、続いて幹事の寄合から評議員の召集となり、会では、土方伯に対する不敬だとして、幹事か評議員だかの私を、除名論もあったが結局諭言退役とした。
 そこで今度はゆし退官の通知と正式の広告記事取消請求の遣外大使として堺利彦君が、十五日の朝きてその案文を渡し、私はこれを七月号の平民法律に後記の如く掲載した。堺君の玄関番中曽根源和君に編集させてくれた山崎伯爵疳作弁護士大安売九六頁以下にのってるから聊かウソはないが、今堺君から渡された条文を読むと、堺君がドコまでマジメの大使代理人であったかは疑われるが、土方伯は当時加藤ドクトルの守本尊、堺君の加藤院長とは切っても切れぬ仲、中村君は院長の仕事、コ問格で私の高等フアン、松田源治大臣を通じて私を西園寺公に紹介してくれた人、堺君は私を信用重用利用指導広告してくれた友人、先輩、恩師で私を院長に紹介した人であってみれば、並大抵の騒ぎではなかったらしい。
      広告記事取消請求書
 拝啓 貴殿御発行の「平民法律」第七年六月号欄外に御掲載有之候、平民法律所広告記事中に顧問日本伯爵土方久元と記載有之候へ共、当団に於ては未だ伯爵閣下に顧問を御願致したる事無之のみならず、或一派の人より多少危険人物視せらる米国伯爵と名を列せられ、世に誤解を招く様の事有之候ては、当団として誠に伯爵に対し面目なき次第に付以後篤と御注意相成度又私としては顧問となったる事絶対に無之、名を推せんし顧問の意に有之候なら、堅く御じ退申上度候、
 右様の次第に付此の全文御掲載の上至急前記広告記事全部取消相成度此段新聞紙法により及請求候也
 大正七年六月十六日
          日本伯爵 土方久元
          社会政策実行団
          右二名代理人 堺利彦
米国伯爵 山崎今朝彌 殿
 私があの広告を無断で無料掲載したのは、何も悪意あった訳でなく、同爵同志の間柄であってみれば日本伯から、そう大した問題も起るまいとテンからバカにしてかかったのが悪かった。しかるにコウ諸君からマジメに掛合われては、誠に一言の申訳をする勇気もなくひたすら恐縮して退却するの外ありません。よってここに恭しく前記広告全部を取けし敢て謹慎の意を表します。併し左の広告はゼヒ御一読を乞う。
 平民大学令第八条により左記を本学名誉学員に推センす
          元帥、議長、公爵 山縣有朋
          学長、米国伯爵 山崎今朝弥
          元宮内大臣元伯爵 渡辺千秋
          実業家男爵 大倉喜八郎
          教授、法学博士 上杉慎吉
  大正七年七月    平民大学
 ペラペラの平民法律第七年第七月号には右に続いて「右の記事法律講義」としてこの問題で全誌を埋めてるが、冗々しいから略す。なお平民大学令第八条には、本学及び国家に功労ある者は本学名誉員に推センすとあり、私は本学に功労あったのであろう。
      噂はやっかいな代物
 八幡の藪から出て、米国伯爵の由来についても一言かく必要がある。私の「地震憲兵火事巡査」には法律新聞から集録したものにこうかいてある。
 問題の人山崎弁護士が何故に米国伯爵と自称するか、又は他称されるか其理由を知る者がない。又伯爵自身もその説明をした事がない。謹げんの三宅雪嶺博士が何故に公爵とならず、伯爵というかと山崎氏に質問した。同氏が、私が僅か五六年米国にいて只大統領と別懇あったというだけで、別格の功労もないのに一躍公爵になったら、世間ではこれを信用せず、ウソ冗談だと嘲笑する事と思います。という返事が来たそうだ。どこまで人を喰ってるか。(了)
 これでも米国伯爵の由来は判らない。記憶のよい日本アナキスト連盟全国委員長の岩佐作太郎君は米国伯シャクは山崎君が帰国する時、セン別にオレが刷ってやった名だといった事があるが、作者としても狂言としても、岩佐君には不向きなイタズラだから、岩佐君は名刺を刷ってくれただけで作者は私だろう。もうかれこれ半世紀前の事で判然とは思いだせないが当時日本の私立法律学校を卒業して渡米すれば、直にバチエラー・オブ・ロー、専攻科、又は高等研究科ならマスター・オブ・ローと英訳し、マスター・オブ・ローは帰朝すれば、すぐ法律博士と日本訳した事と、私が在米中東部でパーカー一家に暫く世話になっていた時、英作勉強のため殆んど全文をミセス・パーカーに作ってもらい、一寸名を思い出せぬが、当時第一流の評論雑誌(主筆は有名のアボットという人だったと思う)に、一日本人伯爵として投書し、それ以来カウント山崎としてパーカー一家から紹介されたり、呼唱されたりした事とおぼえており、帰朝直後の自伝の一節に、「傍ら経世の学を明治大学に修め、大に得る処あり(中略)久しく海外に遊びベースメント・ユニバーシチーを出で欧米各国色々博士に任じ、特に米国伯爵を授けらるる」とあるから、恐らくその辺に天プラやコンペイ糖の種はあったのだろう。
 ツイ長くなって読者には誠にすまなかった。社には悪いが原稿料で筆名抹殺の敵討をされたと諦めてもらおう。
<以上は、山崎今朝弥氏が著作者である。>
<旧仮名遣いはそのままとし、旧漢字は適宜新漢字に直した。>
<底本は、『雑誌真相復刻版(第6巻)』(三一書房、1981年)、底本の親本は、『真相』(真相社)第74号(1954年12月)49頁>
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