ツンボ哲学


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ツンボ哲学
 僕のツンボを信ぜぬ者が多い、法廷で間違を出さぬではないかと云ふけれども裁判所が討論会でない以上裁判に耳の必要はない、人の説を聞く必要がない。言はなければならなぬ事を全部言い、為すべき事を全部為せば其れで充分であると思ふ。
 明治年間私が電話を初めて架設した時、無暗矢鱈に御呼出相成度候、と広告した事がある。其時代に私は常に、電話で話しが判つたり、芝居が聞へるものなら、嘸便利で面白あからふ、と思ふた、今考へると其時分から私の耳はツンボであつた。
 一体君の耳はドツチがツンボだと友人が問く、聞えたり聞えなんだりするのは僕一人だから、ドツチもコツチも無いと答へるのが常の私が此間、右の耳穴を塞げば世界が忽ち静閑になる、左耳の穴に其指を移せば天下復た騒然たり。依て私は初めて右耳が少し聞えるのみだと発明した。
 内で言い度事があつても近所の手前もあるからと云ふて我慢もならず、仕方が無いから運動に野原や郊外に連れ出し、広場の中でウント油を取つてやる、のが山崎の妻君の秘訣だそうだ、と社会党の堺利彦君が、八月一日夜永代橋際都川の与太会(与太文士の会合)で披露した。僕にも初耳だつたが、成程去年からソンナらしかつた。
 私は決して器械を使用せぬ。あれを使用すると片輪の様で何となく情なさを感ずる。
<山崎今朝弥著、弁護士大安売に収録>
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