虎ノ門(難波大助)事件の真相その二

虎ノ門(難波大助)事件の真相その二
-実説大逆事件三代記(第三回)-
          山崎今朝彌
 前号でわかるとおり、難波大助が大正十二年十二月廿七日虎の門でステツキ銃を以て皇太子を狙げきし充分死刑に値する大逆罪を犯した事実は明瞭で、いつでも判決を下せるわけだが実際はそうかんたんにいかない。刑事事件としても、背後関係共犯のうむ、犯罪の遠因近因動機、素性経歴、健康精神状態、思想関係等を調べねばならず、調べるには予しん判事、裁判長、裁判官、弁護人等をきめねばならず、又虎の門事件真相記としては右の他少くとも事件が社会運動に及ぼしたえいきよう、政界に与えた波紋、事件に対する当時の世論風評、サテワ公判模様から又種々雑多の後日談まで、しかし私は今統制されて毎号一回二十五枚のワク内に立つてる。筆綱怪々疎にして細大もらすは当然である。で私はどうせかき落しさうな事柄から逐次思いだし心付くままに、ごくかんたんになるべく多くにわたつてかいてみる。なんぞ事の軽重をとはんやだ。
      共犯は全然なかつた
 むりにかいてもくさいのは梅田与一とゆう友人ぐらいのもので、これも悪く解釈してステツキ銃ほしさではるばる東京まで大助の跡を追つたにすぎない。善意に解釈すればこれ位友人の身の上を心配する例は世間にザラにある。第六号にかいた、私の処へよこしたハガキや手紙は月日や拘禁期間の関係で、どうも梅田君の出したものでない。(なお第六号には、そのハガキの差出人がナンバ大助となつているがこれも大助は小助の誤植だ、小助とあつたから私はイタヅラと思い相手にしなかつたのだ)当局でもコレはと思う処は全力をあげて叩いてみたが埃り一つ出なかつた。
      国体論責任論
 背後とか共犯とかの関係がなかつたセイか、震災だん圧継続中の故か又は左よく運動の地下潜入期中だつたのか、幸徳事件直後のような社会運動圧迫はなかつたが、口は禍の門で身からでたサビとは云え国体論にしばられ山本内閣は総辞職で崩かいした。震災のドサクサであれほど無辜無告の大衆を虐殺しても恬として誰も責任をとる者がなかつたのに、何たる一人のでん下が仮令けがはなかつたとはいえ、内閣が総じ職総監署長等が懲戒免官とならざるをえなかつた処に日本の国体が存する。吉田内閣と雖もイカにインフレを興し際限なく物価を上げ一部ヤミもうけインフレ太りを除く国民大衆を極度のキガ圏内に追ひ込みガシさせようと、たとえ又ゼネストが実現し国家機能と産業遂行が停止しようと、範を前例にとり金輪際総じ職などしないであろう、但し天地がてん倒し陛下がび行民情視察で殺人電車にのり、仮令けがなかつたとしても、苦しかつたとかこわかつたとか一言のミコトノリでもあればこれは別勘定となる。コレが日本のお国柄だ。
      事件に関する若干のメモ
 兇行が大正十二年十二月廿七日午前十時四十分で即日起訴、予審判事は沼義雄、予審終結が翌大正十三年八月中、第一回の公判開廷が同年十一月一日、裁判長は大審院長横田秀雄公判立会検事は検事総長小山松吉、弁ゴ人は今村力三郎、花井卓造、岩田宙三、松谷与二郎の官選の四弁護士、しかし横田博士は刑事事件は不慣れの理由、花井博士は何かの都合で一切を今村氏に任かせきりと記憶する。又松谷君は後に私選を買つて出て裁判所を手古づらせ官選で妥協したもの、公判は勿論ぼう聴禁止で一回で了り検事はむろん死刑を求めた。判決言渡しが十一月十三日(判決言渡の公判は傍聴禁止する事はできない)でもとより死刑、翌十四日には死刑執行命令があり、その翌十五日午前九時に執行十三分で絶命、その死体は翌々十七日午后五時南綾瀬共同墓地すなわち当時の東京府南足立郡綾瀬村綾瀬彌五郎新田の共同墓地に文字通り密葬された。
      死刑スピード執行の理由
 調べにも取扱いも評判のよかつた横田裁判長は、大助の境遇に同情し何とか悔悟転向の恰好をつけて、大助を死刑より減一等の特赦恩赦に浴せしめようと工作し、村松介石を派遣したり今村弁ご士や松谷弁ご士を頼んだりして説得大いに努めた。そのかいあつてか大助は公判廷で共産主義を捨てるわけにはいかないが、主義正面の敵でもない皇室に対して大逆不敬を敢てしたのは悪かつた事を認める。その点で国民にも謝罪する。当の皇太子にもおわびするとでた。で判決にもこれを援用して、
 ひ告人は公判の最後に於て自己の行いはその抱かいする主義のためにはなお正当なりと思考するも、皇室は無産者に対し直接に圧迫をなすものに非れは独だん一時たりとも又たんに手段のためなりとも皇室を敵としたるは軽卒たるを免れず。共産主義者は必ずしも暴力革命を実現せんとする者に非ず、只権力階級の挑戦に因り已むを得ず、暴力に訴うるものにすぎず、故に皇室は共産主義正面の敵に非ず、若夫権力階級にして皇室を私し之を無産者の圧迫に利用するが如きことあらんか、共産主義者は皇室を敵となすに至るべきも畢竟共産主義者の欲する所は彼の英国に学ばんとするにありて、決してロ国に倣はんとするものに非ずと陳述したり、是ひ告人の犯罪動機に関する信念につき若干の反省を伝え稍悔愧の情を示すものなりというべし。
とかかげ、司法省でもこれを
 自分は独断を以てけい卒にも皇太子でん下に危害を加うるに至りたるはちう心いかんにたえず、又自分の親を始め兄弟姉妹及び友人等に対し今日の如く大なる迷わくを及ぼすべきことを事前に察知したらんには、本件の如き暴挙を敢行することをさけたるべし、茲に自分の行為のため直接間接に迷わくを被りたる天下一切の人々に誠心誠意謝罪の意を表す。
と文飾して天下に公表し、一意特赦減刑の態勢を調えていた。
      革命萬歳を三唱す
 ところが判決言渡日に判決文朗読が了つてから、半時間もかかつた言渡を神妙に静聴していた大助は例の無表情の顔をくるりと傍聴席に向け両手を高く挙げて大声で、日本無産労働者日本共産党萬歳、ロシア社会主義ソビエツト共和国萬歳、共産党インターナシヨナル萬歳、と萬歳を三唱した。この萬歳三唱は松谷弁ご士のように、薄々知つて減刑を予期していた大助が素人の悲しさで死刑の宣告後、特赦で一等を減じ無き懲役、それから有期にも仮出獄にもなるのだという事を知らず、助命をあきらめ本音を掲げたと解すべきか又は今村弁ご士と同じく、大助は官憲の無産者階級に対する横ぼう暴虐に憤激し死を以てその報復を決心しその死を華々しく飾るために最も人目を引き宣伝効果百パーセントの皇室を最高責任者として狙つたものだが、父兄に対する世人の以外の圧迫に驚き煩もんの結果、その迫害をかん和するため共産主義と皇室とは両立せざるものにあらず、従つて皇室は無産者を圧迫する側に立たざる限り共産主義正面の敵にあらずとの理論をあみだし、故に皇室に対して危害を加える不敬行為を敢てしたるは自分の過ちなり、之れを皇室及天下に謝すと公判廷で陳述し、三唱の萬歳は言渡日の翌十四日大助が私(今村弁ご士)に弁護した如く最初より捨てなかつた主義の事で皇室や天下に謝罪した事とは矛盾するものでも両立せざるものでもない。加之私(大助)は明日の法廷で罪を天下に謝すと一言しなお傍聴人にも一言したかつたので看守長さんに相談したら、最早弁論が終結したのだから判決言渡後には何も言はぬがよいと申されたので止めたのですとの談話より察すると、皇室に対する罪に対しては大助に悔悟反省の気分意思十分ありたりと説明すべきかは別として、人の生命を的にコンナ奴殺して了えと軽々に官僚判断を下すべきでない事は勿論である。しかしこれを伝えきいた時の司法大臣は短気軽卒ガムシヤラ横紙破りの横田千之助、前に出した宣伝ビラの手前もありエー面倒と誰に相談するでも何を確かめるでもなく、気走つたまま一方には萬歳三唱の新聞差止め一方には即時の死刑執行命令書となつたものである。
      大助、摂政殺意の動機
 犯罪の動機は大切であるが私は前々回第六号でほぼその大略を尽くし、今回も亦所所にその片りんをみせているからこれを略し、その素性経歴家庭人物及びその思想の変遷等を慨述したいと思う。それは刑事記録を参考にかいた松谷弁ご士の世界犯罪そう書第一巻思想犯罪編の難波大助大逆事件に詳記されてるが、同じ記録からできた大審院特別刑事部(大審院には常に刑事部が四、五あつて三審として上告事件を扱つてるが、大逆事件は一審で終審として特別に部を作り、審理判決することになつてる)の当の判決はよりよくかんたんに要領よくココ向きにできてるから多少の加除訂正をしてここに引用する。
      大助の生ひ立ち
 ひ告人大助は本年廿六才歴史上由緒ある難波家に生れ嘗て県会議員衆議員たりし難波作之進の四男にして祖先なんば伝兵衛は秀吉の有名なる高松城水攻めの時毛利方へ城将清水七左衛門と共に水中に切腹し果てたる清水家家老七人組の一人、曾祖父覃庵は維新の際国事に尽したるの故を以て特に明治天皇陛下に拝謁を賜はり歿后正五位を贈与され、ひ告人の父作之進も亦皇室尊崇の念篤くひ告人はげん格なる父とじ愛深きトク子とのくんとうをうけて人となり、よく父母に任え難波の伝とう的精神を体し皇室中心主義を奉じその中学時代たる大正六七年頃は書を雑誌武侠世界によせ乃木将軍死后我国の上下ふか軽調に流れ世界無比の皇室をほうたいする我帝国はきたいにひんするものとして大に之れをこうがいし、大元帥陛下のとうすいし玉う軍隊に入営するを以て臣民の光栄とし、徴兵きひ者を不忠なりと論じたることあり、又当時大阪朝日新聞が皇室のそんげんぼうとくに関する記事を掲載したるさい同新聞を攻げきし、父と共にその不読不買を知人間に奔走かんゆうしたることありて臣民の大義を守り過る所なかりしが、ひ告人はさきに大正六年二月慈母を失いその境遇に変化を来したるため苦学自ら立たんことを決意し、東京に走りたる以来東西各地に転学流寓し再三上京して、あるいは中学検定試験に志し、あるいは高等学校入学試験に応じたのも終にその志をえず大正十年に及べり、しかしてその間父より支給せらるる学資頗る薄く常に父より倹素を旨とすべきことを命ぜられ、やむなく自炊をなし又は新聞配達に従事して自給を計りきう乏を忍び具さに辛苦をなめたる為、大正八年偶々四谷区谷町のろうあいなる一室に起居して通学をなすに当り親しく附近の貧民窟を目げきし、これを自己のひ境に比して生活のかんなんを覚るに従い漸次思想の変化を来したり。
      共産主義に共鳴す
 悠も世界大戦の後をうけロ独の帝政ほうかいしソビエツト政府の組織せらるるあり又欧米民主々義の風潮、我国にびまんしたためにひ告人の精神に多大のしげきを与え、ここに我国建国の歴史に疑念をはさみ皇室に対するひ告人の信念に動ようを生ずるに至れり、大正九年第四十二議会の開会せらるるや当時ひ告人は衆議院の傍聴席にありてその混乱せる議場の醜体をみ議員に対する尊敬の念を失い又普通選挙反対の演説をきき我国の政治家が頑迷にして民衆の利害に意を用いざるものとして大に之れを憤がいし、痛く議会政策の非なるを感じ同年五月帰省したるに時偶々総選挙にあたり確固たる主義政見を有せざる父作之進が単に家名のため候補に立ち、巨額の冗費をなす事を吝まざるをみて、自分に対する父の節倹の訓戒はもとこれ一片の虚言にすぎずとなし、父に対して大なる反感をいだきこえて大正十年に至り雑誌改造解放、社会主義に関する著書ロ国の小説等をたん読し又社会主義的傾向を有する朋友に交はるに及び、社会主義思想が漸くひ告人の脳裡に浸潤するに至れり、当時ひ告人は極僅少なる月給をうけ勉学の傍再び新聞配達を業とし父の代議士たる地位と自己の労働者たる境遇とを対比し又兄の正太郎義人が皆最高教育を受けたるに反し(一人の兄は夭死す)自己のみ普通義務教育のみにて打切らんとしたる父の措置に想到し益々反感の度を高め、私有財産制度及び家族制度を呪詛し、又大正十年発禁となりたる雑誌改造の四月号に掲載されたる断片と題する河上肇博士の文章をよみてロ国のテロリストに同情しテロリストの行動痛烈にしてロ国の革命は此等の徒に負う所大なりとして大にこれに共鳴し、次ぐ同年四月中幸徳事件の判決を掲載したる当時の新聞をよみ、その罰を残忍なりとし、深く幸徳一派の心事を憐むと共に彼等と主義を同うする者の何等なす処なきを卑怯なりとして憤慨し、決死の覚悟を以て自ら暴力即時遂行者たらんとするの意を決するに至れり、その後幾千となく社会主義の講演会に赴き警さつ官が弁士に片言隻句を発せしめず即時解散を命じたるを見て直接行動の他なしと思惟し、又自ら実施せる労働生活に考えて多数窮民救済のため速に社会の状態を変革するの要ありとなし学生生活を止め専心社会運動に従事せんとしたるに父兄より痛切なる訓戒を受け、陽にこれに服して大正十一年四月以来早稲田高等学院に入学したるも、平常学課を怠り好んで社会問題の講演会に出席し傍ら暴力社会主義者及び無政府主義者の著作をたん読し益々社会変革は暴力によるの外なしとの信念を固め、その思想愈々悪化するに及びひ告人は断然学生々活を廃し労働者となつて自ら労働者解放運動の一兵卒となり主義のため死すの意を決し大正十二年二月退学して深川区富川町所在の木賃宿に移り下層労働に従事したるに労働の牢苦生活の困憊深く心肝にてつし、有産者に対する忿憤反抗の情を増進激越ならしめたり、同年五月病を得て帰省し父兄の言に服して兄を生家に駐めたるもひ告人の思想却て一そうの険悪を加え、無自覚なる労働者を指導して多数の団結を組織し政権をかく得して無産者独裁の制をとるの要ありとなし、遂に共産主義に共鳴し更にマルクスの共産主義宣言を熟読して益々その信念を強うするに至れり。
      殺意を決す
 その間屢々東京に往復し大正十二年九月の大震災に際し官憲のとれる措置を快とせず速に徹底せる行動に出ずるに如かずと思惟し暴力遂行の計画を決然敢行せんとし畏くも皇室と共産思想とは両立せずと妄断し言論によるもその効果少しとなし皇族に対し危害を加えて共産主義者の決意を示し因て以て一面においては現時我国において主義宣伝に関し言論の自由を許さず労働組合をも公認せず銃剣を以て自由思想に対する権力階級者と戦い、権力階級者及び資本家が皇室を奉ようし、労働者及び社会運動家に加うるに圧迫を除去して無産者の危急を防救すべく、他面においては大震災に当りむこの労働者社会主義者を殺りくしたる軍隊官憲並に反動団体の暴状に対し、その反省を促し、なお進んでは現に我国の無産者間にほうはいたる皇室中心主義の信念を放きせしめんことを目的とし、同志に図ることなく独りその事に当るを萬全の策なりとし、その機を窺いいたる処同年十一月中父作之進はひ告の心気を転ぜしめんがため銃猟を許すやひ告人は家に杖銃のあるを憶いこれを使用して不逞の意思をとげんと欲し(下略)
 まるで取締当局に対する裁判所の抗議警告文で裁判官としては又特に当時としては随分思いきつた判決文だというところに価値がある。大助は父が恰度議会開会で上京中留守にこの杖銃と妹安喜子(当時十八才末妹彌代子十四才)をおどして得た卅円の路金とを持て十二月二十二日上京の途につき柳井津で梅田与一京都で岡陽造等親友と別れを惜しみ数日を費しこの間に友人へ身元証明的の絶交状数通と新聞社及び信頼するに足ると認めた記者等に七通の敢行理由書類似の公開状を認め、二十七日早朝新橋駅着そこで前記の書面を投函し遣い残した三十何銭かの身軽になり単身虎門に入つたが遂に皇子をえず、前述詳記の如く正邪判明悪は亡び善は栄えて目出たし目出たしの大団円で大尾-。
<以上は、山崎今朝弥氏が著作者である。>
<旧仮名遣いはそのままとし、踊り字は修正した。旧漢字は適宜新漢字に直した。>
<底本は、『雑誌真相復刻版(第1巻)』(三一書房、1980年)、底本の親本は、『真相』(人民社)第9号(1947年5月)13頁>
最終更新:2009年10月26日 00:49
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