難波大助(虎ノ門)事件の真相その一

難波大助(虎ノ門)事件の真相その一
-実説大逆事件三代記(第二回)-
          山崎今朝彌
      大正十二年十二月廿七日
 -の夜はなんとなくねぐるしい夜であつた。それはすぐ目の前にきた恒例平民大てつや放談除夜会のおぜん立を考えたり、今日がロシアに十二月党の暴動が起きた日だなと思つたりして漸く丑みつ頃に床に入つたセイもあつたろうが、後から考えればねむられぬも道理、現に血肉をひいたわが皇太子殿下はアト十時間で危き一ぱつのきけんに直面していたのだもの。(因に私は清和天皇第百何代とかの後えいで能澤天皇氏とも遠縁に当ると言伝えられてる)あけ方ようやくトロトロ、起きたのが十時頃、朝めしを了えた十一時頃(正確には十時四十分とか)突如として銃声一発、こわいものみたさの物ずきと特徴のスロモーとでとび出し人波を追つて虎の門の方向今入町までいくと、もう大きな人波が口々に、兇かんが殺された助けられた、でん下が助かつたけがした、立つたすわった、と叫びながら虎の門からおし返してきた。例の物臭で人にきくも面倒と宅に帰つたが、号外もまちきれず日比谷公園を横ぎつて裁判所の弁護士控室にかけこんだ。私はその頃の宅、芝新桜田町からは虎の門え一丁、裁判所へ二丁位。
      その時でん下はどうしたか
 控室では今兇行現場を目げきしてきた松澤九郎弁護士を取り囲みけんけんごうごうの真盛中、松澤君(年れいの故で幸徳事件の筆頭弁ご人だつた四光太夫事磯部四郎博士の女婿かえん者で、仏語通の今は十年も前に亡くなつたが、当時は快活明朗の青年弁護士)の語る所によると、同君が虎の門の曲り角で皇太子でん下の議会開院式代行を奉迎し、御召車が将に真正面という時だし抜けに巡査と小学生との中から棒が出た、と思う間もなく銃声がひびき渡つた。鉄砲だ!あぶないと思うすきも与えず間髪も入れず殿下は車中に立ち上つた。びつくりなされたに相いないが兇きは連発銃らしく犯人は狂人らしく萬歳を唱えなおも狙を定めて後を追つてるのに立つてはいけない、あぶない、瞬間そう思つた。しかし一時速力を落したお召車はすぐ速力をまして議会に向い少しもおけがはなかつたようだつた。犯人は群衆に取り囲まれリンチされると思つたが警官憲兵に取り戻された、との事であつた。そのうちに別口の情勢も入る号外も出るで、犯人は衆議院議員難波作之進の子大助であること、でん下は無事生還のことが判明した。そのご私は郷里の先輩で昨年亡くなつた貴族院議員の今井五介翁から左の開院式当日の感泣だんをきいた。でん下がぎ会へお着になつてから式場えお出ましになるまでに議員は皆兇行も御ぶじも知つていたが、でん下が平常に変らず議場に御みえになるとみんな感泣した、玉音朗々と態度悠々と勅語を賜つた時は、陛下御病気の時の事も思い出されたのか全員が一人残らず嬉し泣きした。
 私が虎の門事件の実説真相を直接きいたのはあとにも先にもこの二人きりで、他は弁護人の今村力三郎、松谷与二郎両弁護士の著述を読み、又弁ごきろくを通し、又は弁ご人面会で大助からききとつた事を間接にきいただけであるが、前の二人と後の二人の話しの違いは、大助が一発ぶつ放した時でん下は吃驚してとび立つたかどうか、開院式に出た議員はでん下が帰つて了つてから、初めて事件のぼつ発を知つたのかどうかである。が私はなる程今村弁護士が「或時余は大助に摂政官は君の狙撃にあっても少しも驚き給はず神色自若として開院式にのぞませ給ひ平常の通り極めて沈着に勅語を御朗読遊ばされたので便殿へ入らせらるるまで山本総理大臣始め一人も事変のあつたことを知らなかつたと云うがドウダお偉いだろう」と語りしに対し大助も「ああ云う人は物に驚いた経験がありませんからなあ」と肯答してはいるが、問の事実が本当ならと大助が一つの解釈を与えたまでで、どうも松澤君のめでみた事実や当時即席の立つた立つたの人波の口々が確からしい。又語原はイザ知らず便殿とは便所の殿堂でなく仮りの休息所と思はれ、新聞にもよく開院式に臨む前に便でんに入る事がかいてあるから勅語朗読前に全員がこの前古無比の一重大事件を知つたという今井翁の話の方が事実らしい。(看護婦が看病人又は看護人になる如く弁護士という自由職業者が刑事の弁護人になるので弁護士と弁護人とは違うことは私達には自明の事故、前回の第六号でも私は原稿に間違なくこれを区別してかいたと思うが、今六号をよんでみるとこの二つが混せんこん乱してるからここにその誤植を訂正する)
 ひ害者側兇行当時の取調べは一応これですませ、以下先づ加害者証人直接兇行に就ての申立、被害模様、実地取調べ等も今村弁護士の「芻言」からウンザリしない程度に抜書合作してみる。
      大助は何といつてるか
 大助は、皇太子の自動車が私の真正面から五間位赤坂方面え寄つたいちえきた時に私は前に立つていた小供をつきのけ、左にけい官右にけん兵のおる間を通り、皇太子の自動車の硝子窓から筒先が三寸か五寸位の距りまで接近し皇太子のかおと銃が一ちしたとき引金を引き、それがためたまが確かに硝子まどに当り大きなきれつが入り穴があいたことをみ届けた、私はすぐ自動車のあとを追い革命萬才を大声で連呼して五六間走つて行つた・・・そこえけい官やけん兵や群衆がきてとりかこまれて了つた。狙つたところは勿論皇太子のかおです。首から上の方ですと答えておる。
      侍従長入江為守の予審証言
問 御召自動車が芝区琴平町一地先道路に差かかられたさい一不敬かんがでん下の御召自動車に向つて発砲したもように付て。
答 大正十二年十二月廿七日午前十時廿五分御出門卅五分乃至四十分近くに虎の門を御通過になりましたさい私はでん下に向つて御陪乗しておりました。不けいかんの現はれた処は左のうしろに当ると思います。従つて少しも心付きませんでした、皇太子でん下も勿論です。突然砲せいをききまして私は砲せいの方へかおを向けました。その時に私のがん面えバラバラと何か掛る様なきがしました。でん下の御よう子を拝した処が一向変りのないもようでしたから安心いたしました。自動車の私の左の方の硝子をみると一つの孔があいておりました。右の方えタマがぬけたかと思つて右の方を見ましたが何ら変りがありません。タマが自動車の上方の何れかに止つたものかと思いました。その時自動車の方向が少し右廻りしたようでしたが、すぐ前方に向つて速度を速めて前進しました。どういう事柄であつたか何者が出たのであつたか少しも判りませんでした。只自動車が前進の時に後方に多ぜいの者が兇かんを取押へておるのをべつ見しました。尚そのさいに私の手袋に血が滴るのを認めハンカチを取出してがん面を拭うた処ハンカチに血が付いたのを認めました。それでがん面にふ傷したことが判りました。それが弾丸の破片か硝子の破片かは不明でありました。そのうち間もなく自動車はぎ院につきました。
問 でん下には何らおけがはなかつたか。
答 何のおけがもありませんでした。
問 証人は如何なるけがを負うたか。
答 小さい傷で丁度十五許りあつたそうです。多分硝子の破片でできたもので、極めて小さく痛も感じませんでした。
      検証調書
 煩雑面倒臭いと思う者は抜かして読まぬがよい。何か研究参考にと思う人は注意して熟読するがよい。
 被告人難波大助に対する刑法第七十三条の罪の被告事件に付大正十二年十二月卅日大審特別権限に属するひ告事件よしん判事沼義雄は、才判所書記官稲垣正二立会の上検証すること左の如し。此検証は大審院検事事務取扱東京地方裁判所けんじ正南谷知悌同けんじ岩松玄十宮内省書き官二荒芳徳及宮内抜手隅元一郎立会す。
 検証の結果は
一、右でん下お召自どう車は英国デムラ会社せいに係るスペシヤル号貴ひん車第十一号にして宮内省主馬寮車馬か自どう車係第一車庫に安ちしあり同車の長さ約二間半幅約五尺高さ約七尺、車台は暗赤色にしてルームの上の方は黒色を呈す。
一、ルームの御ざ席の左右には何れも高さ約一尺九寸幅約二尺八寸の硝子窓あり又左右のルームのドアーには何れも約一尺九寸平方の硝子まどあり又後方には高さ九寸一分幅約二尺八寸の硝子まどあり前方運てん手台との境にはすべて硝子のせつびありて其各硝子の厚さ何れも一分八厘なり。
一、御ざ席の右側がらす戸には前方より約四寸三分後方より約二尺二寸下方より約一尺一寸五分上方より約六寸地上より約六尺のか所にだん丸貫通して生じたるタテ約一寸四分横約一寸八分の不正円形をなせる一この孔あり又其孔より四方に生じたる無数のきれつ存す孔の内がわは其周囲約七八分の間のガラス著しく剥落せり。
一、尚がらすまどの前方下たんに接したる車台の外部にはステツキ銃の当りたるため生じたるものと認めうべき長さ約二寸三分幅約三分乃至四分の一このきそんか所あり其きそんか所中前たんは最初銃口によりて生じたるものと認めうべき銃口形のきもんあり。
一、尚右きそんか所より後方に当りルームドアーとの境より約九寸五分の個所より斜後下方に亘り銃口が接触したるまま自どう車の進行したるため生じたるものと認めうべき長さ約七寸四分幅約一分の一条のすりきずあり。
一、次にルーム内を検するにおざ席は後方に設びされ幅約一尺六寸高さ約一尺五寸天井より約三尺三寸左右両側まどの下たんより約一尺存す、おざ席の中央の前方には侍従長のざ席あり。
一、天井其他周いを検するに天井の左後隅附近に五カ所の示指頭大の弾痕ありてだん丸は天井を貫かず。
一、ルーム内の各がらすまどの下縁框化粧箱御ざ席附近ルーム内一面にがらすの破片がらすの粉末並にだん片散在せり殊に後方がらす窓の下縁框上にはがらすの粉末一面に推積せり。
一、以上の事実を綜合するときはだん丸が右がらす戸に中り右の如き孔を生じがらすが剥落すると共に其だん丸及粉末がルーム内に渦巻き散乱したることを推知しうべく皇太子でん下が当時如何に御きけんの状態にあたせられたるかを拝察するに余あり。
一、此検証は午前十一時十分に着手し午后二時四十分終了す。
 銃口が自動車のがらす戸に接触し舷々相摩す状態でそげきしたとは危かつた事限りなく、その夜私の眠れなかつたのも、血は水よりもこいの例えで虫が知らせたというやつであろう。
<以上は、山崎今朝弥氏が著作者である。>
<旧仮名遣いはそのままとし、踊り字は修正した。旧漢字は適宜新漢字に直した。>
<底本は、『雑誌真相復刻版(第1巻)』(三一書房、1980年)、底本の親本は、『真相』(人民社)第8号(1947年4月)10頁>
最終更新:2009年10月26日 00:48
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