実説大逆事件三代記

実説大逆事件三代記
          元米国伯爵 山崎今朝弥

      はしがき
 大逆事件といふのは刑法第七十三条「天皇、太皇太后(天皇の祖母)皇太后(天皇の母)皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」の犯罪で、要するにこれは皇室に対する上は爆弾、銃剣による殺傷から下は投石、鉄拳制裁の暴行乃至その既遂未遂は勿論予備陰謀、相談、協議等いやしくも網にかかるもの人の想像に浮ぶものは一律一体すべてこれに死刑を言渡すといふ真に古今に照して侮いず中外に施して恥じない広大無慈悲の犯罪をいふのである。
 現行刑法は明治四十年頃制定されたものだが、明治十三年頃制定された旧刑法にもこの皇室危害罪の規定があつて、その制定委員中には、皇国で皇室に危害を加へる者の出ることは到底想像できない。この規定を設けることはかへつて皇国の体面を損ずるといふ理由でその存置に反対した者があつたが、杞憂には相違ないが皇族に対する危害罪、神宮に対する不敬罪はどうしても設けねばならず、これを設けるとなれば法律の体裁からも皇室危害罪は存置すべきだといふ論が勝つて、ついに設置することになつたとの事である。とにかくその後三朝一系大逆連綿として短期間に続出三つに及んだ事は、その当時の委員連は勿論何人といへども当時夢にも予期しなかつたところであらう。

      三つの大逆事件とは
幸徳事件
 明治四十三年七月検挙開始、翌年一月十九日判決、同月二十四日(幸徳以下十二名)及び二十五日(管野スガ)死刑執行の幸徳秋水等二十六名(二名は有期懲役十一名は特赦で無期)に係る、明治及び大正天皇に対する第一次大逆予備陰謀罪。
朴烈事件
 大正十一年中相談開始、同十二年九月大震災検束中に拾ひ上げ、同十五年三月二十五日死刑宣告の大正及び昭和天皇に対する朴烈及び金子文子の第二次大逆陰謀相談罪。世人稍もすると朝鮮独立運動社金社変の二重橋爆弾事件(私は偶然この事件の弁護人でもあつた)とこの朴烈事件をゴツチヤにしてゐるが、この二つは全く別々で何の関係もない、只金君は死にたい主義者でないばかりに、日本の反省を促すために二重橋に爆弾を叩き付けようとしたのだ、と言抜けて大逆罪にならなかつたのである。
虎の門事件
 大正十二年十二月二十七日の虎の門事件で通用する。同日現行犯逮捕、翌大正十三年十一月一日公判、同月十三日判決、翌々十五日急遽死刑執行の難波大助に係る昭和天皇に対する大逆狙撃罪である。
 私はこの三つの大逆事件の真相を書くに当つて、全然無駄の事ではないと思ふから、先づ私と大逆事件との因縁関係を書いてみる。

      私と大逆事件との因縁
第一次との因縁
 私は明治三十八、九年頃米国桑港で初めて幸徳を知つたのであるが、懇意になつたのは二人相前後して帰国後の明治四十年からであつた。比較的短期間の交際であつたにかかわらず、幸徳から手紙端書が沢山来てゐること、まだ日の浅いの単純の交友関係に過ぎないのにヨク平民新聞などに私の事を書いたこと、身から出たサビとはいへ、私が遂に米国伯爵を通称しなければならなかつた程米国伯爵の名声を籍甚ならしめてくれたこと、等から考へると、堺利彦君がさうであつたやうに、幸徳もまた元来の世話好きの他に、同志への獲得目的があつたのかも知れない。私の処女出版であり初原稿料稼ぎであつた「粗食養生論」の小著も、幸徳が当時白柳秀湖君、安成貞雄君等の居つた本屋(多分今の星島商相が後に社長になつたことのある隆文館と思ふ)に紹介してくれたのである。(この小著時節柄見たいと思ふが多年絶版で手元に一冊もない。誰か御所持の方に譲渡又は借覧を願ひたい。尚賀川豊彦君が余り面白い本だから無断一萬部を印刷して方々へ配つたと私に語られたが、この分でも結構)ズツト後の事ではあるが、平民社の遺産分けをした時、堺君が「平民社で幸徳秋水が愛用し大算盤也」と箱書してそれを贈られた程に私と幸徳の間柄はなつてゐた。
 私のメリケン友達の一人に「嗚呼わが祖国」の秘密出版一書を置土産に日本を脱走米国に出奔した厳穴赤羽一といふ新聞記者があり、この人も幸徳と前後して帰国した。思想的には当時の所謂直接行動派テロ傾向のアナキストで、往来する交友関係は自然幸徳派の者が多かつたが、失敗ばかりしてゐて余り貧乏だつたのか、幸徳が病身で営養静休を必要とし、又相当の友人が多くてその静休営養が出来た事が諒解出来なかつたのか、或は性格的であつたのか、幸徳とは合はず幸徳の生活を贅沢だと不平をツブヤキ続け余り寄り付かなかつた。赤羽は後に「農民の福音」を秘密出版し、出版法違反で捉へられ公判廷では日本革命萬歳三唱の皮切りをして入獄牢死したが、生きてる間は貧乏のし通しで、私の「疳作集弁護士大安売」の自伝中にある「明治四十年二月勢ひに乗じて錦衣帰朝、一躍直に天下の平弁護士となる・・・・・・即ち業を東京に興し」て赤坂に法律事務所を設けた時も「忽ち田舎に逃亡し」して生地信州諏訪に事務所を持った時も、永い間私の事務所にゴロゴロしてゐた。
 新村忠雄が紀州大石誠之助の処からの帰りに、私の諏訪の事務所に二三泊して明科に帰つたのは、赤羽が諏訪の事務所にゴロゴロしてゐる時だつた。赤羽も新村も信州の人である。この時の新村、赤羽は諏訪境村の小池青陽といふ小百姓の主義者を呼び寄せ何かと相談した。この小池はその後間もなく秋水等の大逆事件検挙直後、「信州共産党秘密結社」で検挙され出獄後北海道に入植中百姓となり二三年前に死んだとのことだが、日本で共産党結社の走りだと云はれる近藤栄蔵君、高津正道君等大正十一年の暁民共産党より十二三年前の走りであつた。
 却説新村が帰つた後の赤羽の口裏やその時の新村の話し振りから判断想像すると当時新村の逆謀はすでに成り新村は赤羽の参加を勧誘に来たが、赤羽はその企図には反対しないが参加は厭だと拒絶し、新村は仕方なく明科へ帰り宮下太吉と爆弾製造に取掛かつたものの如くであつた。幸徳事件直後に書いた前記私の自伝に「明治十年逆賊西郷隆盛の兵を西南に挙ぐるや君之れに応じて直ちに信州諏訪に生る明科を距る僅かに八里」と木に竹を接いだように逆賊や明科が飛出たのも亦所以ある哉だ。
 私は当時甲府市遊郭大門前化物屋敷に事務所があつて明治四十三年中に甲州人の宮下太吉は二度私を訪問したが二度共生憎留守で私は幸ひ会へなかつた。
 私が「転戦三年甲信を徇へ各地を荒し再び東京に凱旋し爾来頻りに振はず」になつたのはその年すなはち明治四十三年の秋頃、東京銀座大通りの真ん中の裏小路に小さい巣を構へたが、引越し前すでに隣家へ私の交番所が出来てゐたには聊か驚かされる。甲信中も警察の警戒は非常識に厳重だつたし、甲府検事局での信州共産党、新村忠雄、赤羽一、宮下太吉等との関係の取調べも随分執拗だつたが、懲りたことのない私には少しも響かずかへつて物足らぬ位のものであつた。しかし専属交番は近所の手前もあり不便のこともあり少し大袈裟すぎて余り気持ちよいものではなかつた。でも初めの中は大逆者少くとも幸徳と新村の弁護は進んでヤル積りヤルべきだと思つてゐたが、若しも新村が間違つた申立でもしたら?刑法七十三条は幸徳事件の判決文にもある通り「逆謀を告げらるるに会ふも敢て之れを拒まなかつた」と認定されれば成立することに想到する。官僚裁判の危険を絶対全面的に信用する私だけに、杞憂を生み大逆事件の世論評判と共に益々拡大強化したので、私は遂に来て頼む者も咎める者もないのと、天下第一最高峰の花井、今村両弁護士が弁護するのを好い事にして元気なく弁護する事を止め、何かとオヂケて傍聴にも行かなかつた。そして予期した死刑の判決をきいた時は左程でもなかつたが、死刑執行の号外を見た時はゾツとして、思はず知らずイツか掌が首に廻つてゐた。後日私が危険を犯して幸徳秋水全集六巻を私の解放社から無届出版したのは私の卑怯に対する聊かの罪亡しでもあつた。

第二次との因縁
 大逆陰謀で死刑を宣告され、特赦で無期懲役となり昨秋マ司令部の指令で秋田刑務所から釈放された朴烈君から、本年一月二十五日「拝啓、厳多の候益々御清祥の段慶賀仕り候、却説過去二十四年前法廷闘争に於て誠意御尽力下され候、今尚感銘致し居候、就ては来る廿六日午後四時左記場所に於てお挨拶申上可く御招待申上候御多忙中甚だ御迷惑に御座候へ共萬障御繰合せの上何卒御来駕下され度く御願申上候、場所東京杉並区高円寺一ノ一富士料亭」との速達が届いた。明日では到底間に合ひ兼ねるので私は折返し「イカンフサン キンガシンセイトウジト フミコサントヲシノビ カンムリヨウ ダンコケントウイノル」と至急電した。
 朴烈君はその昔、弁護面会の時、二三度訪問して私を知つてるといつたが私は不逞社「太い鮮人」の他朴君個人に就ては記憶がなかつた。で朴君とは弁護したので初めて関係ができたのだといへる。その弁護も妻君の金子文子さんを弁護する序でに弁護するようになつたのだ。文子さんは本郷追分町の堀新印刷所でも麹町有楽町の、おでん岩崎でも私を識つてゐると云つたが、私はおでん岩崎での他は記憶してゐない。
 おでんの岩崎善右衛門君が文子さんの弁護を頼みに来た時は、荒井要太郎君と田坂貞雄君が既に官選弁護士に選任されて居り、私が兄弟の如くしてゐる親交の田坂君から、共犯二人は虚無主義者で、死刑を免がれたり弁護士を付けたりする事は望んで居らぬ、と聞いてゐたのだが、本人の希望であるから是非にと岩崎がいふので、本人の意思を確めるため兎に角と三四度面会に行きその都度朴烈君にも会ひ、協議の結果二人の弁護をする事になつたのだ。その時私の希望で、も一人弁護士を附けることにして、私は私の近くの若くて元気がよく、腰の軽い刑事々件得意の上村進君を相棒に推し官選と共に四人で弁護した。これは大正十四年末頃か十五年の正月頃のことであるが、上村君は大正十二年七月八日の高尾平兵衛社会葬に事務所を借りて以来其筋から当時の所謂赤弁護士、左傾弁護士に編入されてゐたのである。
 社会葬に上村君の事務所を借りたのは、私の芝新桜田の事務所と上村君の麹町内幸町の事務所とはドブ一つの距離であるが、私の方は芝署上村君の方は丸の内署の管轄であつたから、日本最初の社会葬に対する警察の不法弾圧に備へ私方を秘密事務所、まだ注意人物でない上村君方を公表事務所として置く戦術を採つたのだ。で上村君には私の事務所は平民大学と自由法曹団と機械労働組合(総連合の前身)と対露非干渉同盟の事務所になって居り(当時日本社会主義同盟は大正十年五月二十七日付で禁止解散となり、日本フエビアン協会「大正十三年二月十七日創立」はマダ創立されず、その機関誌『社会主義研究』も『解放』もマダ発行されてゐなかつた。山川均主筆岩佐作太郎主幹平民大学発行の『社会主義研究』社会主義同盟機関誌『社会主義』は当時既に廃刊、狭くて困るから集会だけさせてくれと、ホントウのことは言はずに頼んだ。
 社会主義同盟や社会葬の事を出したのは、朴烈君も文子さんも大正十年五月九日神田青年会館の社会主義同盟全国大会にも同十二年七月八日青山斎場の高尾社会葬にも参加し、大会ではいたく当局の横暴弾圧に憤慨し社会葬では非常に死に対する感激を深くし、特に文子さんは以前より高尾を識り之れに敬服してゐたとの因縁からであるが、この高尾君及び吉田一君と組み戦線同盟を代表して大正十二年六月十六日早暁、私の友人赤化防止団長米村弁護士を襲撃し目的を達したはよいが、帰途高尾を打たれ死骸を残してそのまま二人で私方へ駆け込み、相談の結果は隠れて秘かに決死の覚悟で、社会葬の準備とその日を大成功させた。長山直厚中尉だつたか、又は平岩巌君だつたか忘れた(実は平岩君と思ひ込んだ。書き終つて後訂正したので此項一貫して変んなところがある)が、その後戦線同盟の平岩君が何かで検挙されて予審中面会に行つた私に、係りの立松判事の面前で立松判事が特別に良くしてくれると感謝して語つたのに、出獄後立松判事の撮影した朴烈君文子君の写真を手にいれ(地方裁判所に於ける朴烈君等の係予審判事も立松君)内閣倒壊運動の政争用具に供したは何の因縁か。
 立松君は責を負ふて辞職弁護士開業後、平岩君の事業顧問をして儲けさせて貰つとると語つたが、朴烈君は出て来て今は働きも出来ず大に貧乏してるらしい。平岩君のことだ、もし元通りの景気なら、あの写真でアラレもないデマまで飛びだした罪亡しに何か罪亡しがあるだらう。
 文子さんは大正十五年七月二十六日暁方二十三歳を一期として、「私が生きて居れば朴烈にこの世に未練が残り思想に動揺を来たすから特赦を拒否して自殺する」との遺書を残し、宇都宮刑務所栃木支所で自ら縊れたとのことである。

第三次との因縁
 私が昭和四年頃から数年間毎年私の解放社から発行してきた「年鑑日記」には、難波大助の虎の門事件を第二次、朴烈事件を第三次大逆事件としてあるが、これは判決又は世間公知となつた日の前後からで事柄からすれば、朴烈文子事件は大正十一年十月頃からゆへ大正十二年十二月の虎の門が第三次となる。
 却説私と虎の門とは難波の友人に難波の弁護を頼まれそれを松谷与二郎弁護士に復頼みしたといふ極く稀薄の関係にすぎないが、大助大逆の動機を掘下げて見ると相当因縁の深いものがある。
 月日は判然しないが大正十三年の春か夏の頃難波大助の署名で大助の弁護を相談してきた鉛筆の端書が届いた。テツキリ其筋の悪戯乃至挑発と信じた私は歯牙にもかけず屑籠に投入した。一ケ月とは経たぬ中無署名の手紙がきて、葉書より短文で私は難波大助の縁故者だが近い中に御伺するから弁護のことに就て御義侠を御願したいとの意味が書いてあつた。半信半疑の私は取りあへずその手紙を破つて屑籠に入れた。数日後に若い男が難波の友人と名乗つて来て新に大助の弁護を依頼し、尚大助は先生を知つてゐるから先生の弁護を希望してるだらうと附け加へた。結局考へて置くで別れたが、双方、私は態と、前の手紙、彼れの居所、大助との関係などには触れなかつた。
 私の彼れに対する不安はまだ消へなかつたが、幸徳事件の卑怯を自己批判自己後悔してる際ではあり、難波とこそ微塵の関係もなくその点は大胆に安心だつたから、仮令彼が何者であらふと危惧することなく大逆者の弁護をしてやらうと秘かに決心した。で恰度その頃来訪した堺利彦君と橋浦時雄君に相談すると、二人は当時例の第一次共産党事件で謹慎中であつたせいか又は幸徳事件後の主義者弾圧を慮つてか、共産党事件と関係ある私が共産主義者の大逆事件を弁護する事を好まず「我々の運動と全然関係のない弁護士に弁護して貰つたらどうか」と提案した。その時は暑くて障子を明放して話したことを記憶してるから夏であつたであらう。又五色温泉の第一次共産党の検挙開始は大正十二年六月五日だつたから二人の来訪は翌十三年の保釈中だつたらう。然るに幸徳、難波両事件の弁護士だつた今村力三郎氏の写本著述「芻言」には同氏が大助の弁護士に官選されたは大正十三年二月廿二日とあり、松谷君の著述には同君が私から頼まれて難波の弁護をする事を大審院に届出てあるにかかわらず、大審院は松谷君には何の知らせもなく不意に今村、花井、岩田(前法相)の三氏のみを官選し公表したから即時大審院長に抗議したとある。夏だといふのは私の記憶違ひか或は又二月官選の公表が夏になつたのか、私が「月日は判然しない」といつたのはコレだ。
 却説、社会運動に関係なくて大逆事件の弁護を喜んで引受けてくれそうな弁護士は、当時自由法曹団の松谷君か上村君の他には見当らなかつた。自由法曹団は大正十年八月十一日神戸三菱の大争議で警官に惨殺された争議団員常山俊一の団葬の際、無抵抗示威行列の指導者賀川豊彦君等数百名が検挙され、東京の弁護士数十名がその調査応援に赴いた時、海員ホームで私と故鈴木文治君と宮崎龍介君とが社会運動犠牲者救援の弁護士団を作らうと相談し、帰京後調査応援に行つた弁護士その他に呼びかけ、其月二十日、日比谷公園の松本楼に約百名が集合して喧々怒号の末、牧野充安君、宮崎龍介君の自由法曹団と命名説が勝つて誕生したものだが、当時はマダ一般帝国臣民の人権擁護が専門で労働者の味方、社会運動の支持団体には頗る遠いものであつた。
 この自由法曹団の上村君とは大正初年の東京法律事務所以来別懇の間柄であつて、私として松谷君よりも頼み易いのだが、上村君は前述の通り高尾社会葬以来少くともその筋では注意弁護士になつてゐたので、堺君等の意思に副ふべく当時の小山検事総長横田大審院長及び弁護士界の大御所原嘉道博士等と特別の関係ある松谷与二郎君を頼んだ。尤も松谷君は弁護士界切つての押し切り屋であるかわりに又有名無類のヤカマシ屋であつたから、私は松谷君に『難波の友人が大助の弁護を是非松谷弁護士に頼んでくれと云つて来た、それは私にも何も聴いてくれるな、松谷弁護士にもさう頼んでくれと云つて帰つた』と話し松谷君は早速快諾してくれた。もし私の記憶に誤りがないなら私が「花井、今村、岩田の三氏が弁護士に定まり、大審院の肚は他に弁護士を附けたくないのだから、君の弁護を妨害せずに認めるかは甚だ疑問だ」とアヂリ、松谷君が必らず成功してみせると軽く引受けたのは矢張り此の時だつたと思ふ。今考へてみても、あの時あの場合、種々諸々の困難を克服して強引に弁護士となれたのは松谷君なればこそで、誰にも真似の出来る芸当ではなかつた。
 難波に面会したり記録を調べたりした後の事、松谷君は「大助はおれや君を知つてるし、おれの演説を聞いた事もあるし、君の事務所も知つてるといつたが、多分自由法曹団の演説会だらう、君の事務所を知つてるのは、当日新橋駅から裏伝いに虎の門へ行つた時見たのだらう。」と語つた。しかし私はそれは違ふと思ふ。
 私の判断では、難波の思想が左傾して社会主義的になつたのが大正九年九月四谷鮫ケ橋貧民館に間借生活した頃から、テロリストの出てくるを当然と考へたのが大正十年三月「改造」の河上博士断片を読んでから、自分が大逆者たらんと決心したのが大正十年四月幸徳等大逆事件の判決文を読んでから、となつて居り大正九年五月総選挙の父の立候補に憤慨して上京、大正十二年九月大震災直後まで東京市内で苦学苦労し、その間唯一可能の趣味娯楽は遠近を問はず政談演説会、思想講演会その他の集会をテクリ廻る事で、当時社会主義同盟は大正九年初夏から平民大学事払の事務所を根城に発企され党員獲得解散予防の戦術上イツでも創立準備会で進む事とし、(ところが、所謂大衆の要望に押され、結社の即時解散を承知の上で同年十二月十日創立大会を神田基督教青年会館に持たねばならなくなつた。その創立大会も開会前に集会解散になるは必定の形勢だつたので岩佐作太郎君の機智で、前夜九日の大会準備相談会を緊急創立大会として創立し同時に翌十日の大会を創立報告大会とする決議をし、その会もその決議と共に中止解散となつた。十日の大会が前夜から会場へ潜入工作してゐた高津正道君の大赤旗翩飜と開会宣言と中止、解散とが三位一体同刻同時であつたは勿論だつた。検束者は大杉栄、赤松克麿、岩佐、近藤君等数十名で、残つた十数名が監房で暴れ、警視庁破壊罪で処罰されたはこの時である。大学を開放して連日座談、討論、講演、演説等の会合を持ち、誰でもが自由に出入が出来(この会合が常に解散されたことは勿論だが)又平民大学は大正十年から十二月卅一日に「恒例平民大学徹夜放談除夜会」を開始し、入り替り毎年数百の人が元旦まで自由に出入でき(時の人今の徳田球一君も元労働農民党書記長細迫兼光君もイツからイツまでか判然覚へて居ないが当時私の事務所にゐて、徳田君はひととせこの放談会を司会してアヂリ、何かの雑誌へ、次年の運動傾向はこの放談会で予測できると書いた事を覚へてる。)だから、難波は興味を持つてこれらの会合に出席自然私の事務所を知つたものだらう。
 問題の葉書と手紙及び自称友人は今以て私の疑問だが、松谷君はその自称友人は梅田与一で手紙は与一の書いたものだと判断した。梅田は難波の性格と思想を熟知する唯一の親友、彼れが杖銃を携へて上京するのを見て当事を予知危惧し難波の後を追つて兇行の翌日新橋到着、新聞で犯罪詳細を読んで驚愕所在を晦まし遂に共犯嫌疑で一時留置取調を受けた者、もし自称友人も手紙の書き主も梅田なら私にも梅田を共犯と疑へる説が沢山ある。葉書と手紙には大助の弁護を私に頼むとはハツキリ書いてなかつたから、私は投蔵して置いた屑籠から拾ひ出してこれを松谷君に渡したのである。
      大杉栄虐殺のこと
 難波の大逆動機には色々あるが、社会主義同盟に対する圧迫、幸徳一派の大逆判決の過酷、大震災ドサクサ紛れの労働者、主義者、朝鮮人に対する支配階級の残忍極まる大量虐殺が重なる動機の一つであり、大助は之れに激憤蹶起その復讐と意久地なき主義者達を覚醒するためと、反省なき支配階級最上乗の見せしめとして国際検事団に魁けして(圏点は筆者の註<「国際検事団に魁けして」に傍点>)最高責任者を狙つたのだと壮言豪語してゐる。この三つは何れも私と相当深い因縁関係があり前の二つは既にその概要を或は長過ぎるほど書いたから、私は最後の一つのドサクサ大虐殺に就て少し書いてみる。
 難波は大正十二年九月一日大震災当時のドサクサ虐殺の例として平澤計七君、河合義虎君等八名の所謂亀井戸事件、甘粕正彦大尉、森慶次郎伍長、鴨志田利一上等兵等憲兵隊本部の大杉栄外二名虐殺の所謂憲兵隊古井戸事件、軍隊警察及びその指導保護下にあった暴力団の朝鮮人に対する日本人的暴虐即ち朝鮮人大虐殺事件を挙げてゐる。
 亀井戸事件は一日の地震を待ってゐたかの如くその日より警視庁は社会運動者、主義者、朝鮮人達一切無差別至極公平に検束し東京ではその数何萬、一時は生屍室に充ち頭の上に立たせて漸く収容したと云はれたものだつた。亀井戸署には約千とかで平澤君は二日かに夜警当番中を河合君は三日かに老母看病中を検束され、四日、戒厳中の軍隊によつて暴動を起すの虞れがあつたとの口実で虐殺されたが、銃殺か刺殺か砲殺かは未だ不明だ。先死者の高尾社会葬に後れて大正十三年二月十七日漸く労働組合葬が青山斎場で挙行された。憲兵隊事件の大杉君も妻の伊藤野枝さんと大杉君の妹の橘あやめサンの子米国生れの米国人宗一(当時七歳)と三人で自警昼警中を、一寸来て下さいでダマされ、憲兵隊本部に連行され、九月十六日夜、大杉、伊藤の二人共不意に後ろから甘粕に首を締められ、宗一は伍長上等兵二人掛りで首を締められ、屍体は三人一緒に隊内平親王ゆかりの古井戸奥深く埋められた。これが十九日にバレて三人共軍事裁判に付せられたが、甘粕は酌情の余地なき三人残虐謀殺で十年、大杉、伊藤二人殺しの共犯部下森は、三年の懲役、二人がかりの宗一地蔵殺しは上官の命令なればとて無罪でケリ、大杉君の葬式はその年十二月は覚へてるが日に記憶はない。しかし骨を盗まれたはその日の朝だつた。
 朝鮮人の虐殺されたのは社会主義者と共謀して大震災を起したのだといふ流言から、井戸に投毒した、火を放けた、暴動を起した、朝鮮軍が東京近く押寄せた、の蜚語まで飛んだため、日本人古来の酔風美俗が曝露されたものであるが、その数に至つては今以て私には不明だ。当時の朝鮮総督は確実の処合計二人、司法当局は取あへず、南葛を除いてザツト千人と発表し、南葛は千人とも二千人ともいはれた。慰霊祭に鄭然圭君は弔文で三千人と読み戒厳令下鮮人取締に来た習志野から帰隊した人は優に五千と告げ、生命からがら上海に逃げ帰つた人は確かに萬を越へてると云つたさうだ。兎に角当時を追想すると、血の気の多い情熱の純真な若者だつたら、難波大助君たらずとも誰でもが卑怯者でない限り正気の沙汰で狂気の行動に出でないのが不思議の位であつた。現に五十近くの老境に達し、血も熱も失せた上人一倍卑怯であつた私ですら、痛憤止み難く、当時の情勢上随分遠慮はしたが、色々の策動をしたり新聞雑誌の注文や問合せに対して雑多の小論を文したり葉書返答を出したりした。その小文が大正十三年九月十日発行の「地震憲兵火事巡査」(サブタイトル又は鉢巻タイトルは「甘粕は三人殺して仮出獄?久さん未遂で無期の懲役」)の小著に集録されてるから、私は之れをところどころ引抄してこの項の因縁記に代へる。
朝鮮人事件 地震流言火事暴徒
 (前略)今度の地震は朝鮮人と主義者とが組んだ陰謀だといふ風説はこの頃地震博士等が漸く震源地は却て他にあり大島と相州との間、海底陥落の地辺ならんと発表して以来全くその跡を絶つた形跡がある。併し火事に付ては尚諸説紛々で流言蜚語が盛んにとんでる。しかし、全国の内鮮人が地震を合図に一斉蜂起し、火を放ち毒を投じ人を殺し財を掠め日本を乗取らんと企んだのだ、主義者は予め図て之を煽動したのだ、といふ点は一致してゐる。この流言蜚語当然の結果(中略)戒厳令は布かれる軍隊は出る銃丸はとぶ伝令は走る演説はやる掲示は貼る内訓は出る公報も出る自警団もできれば義勇団もできる。在郷軍人も青年団員も兇徒も暴徒も皆一斉に武器を執つた。そこで朝鮮人の大虐殺となり中国人の中虐殺となり半米人(二重国籍者宗一幼年)の小虐殺となり主義者運動者のタダの虐殺となつた。(中略)到る処巡査兵卒仲間同志の手柄話を立聴くがよい。今でも血に飢へた彼等は憚る処なく当時の猛烈なる武勇とその役得とを自慢するではないか。(中略)実に当時の戒厳令は火に油を注いだものであつた。(中略)全く軍隊や警察が、人夫、車掌、配達夫の萬分の一でも役に立つてくれたなら、騒ぎも起らず秩序も紊れず市民はどんなにか幸福であつたら、然るに(中略)輿論が頻りに戒厳令を賛美渇仰し功績を独り軍隊にのみ帰せんとするは抑も何故であるか。(中略)中には長い物には巻かれ、なく子と地頭には勝たれなかつた者も頗る多かつた。故に間もなく正気の沙汰となり軍閥に対し一斉射撃を開始する日も遠くはあるまい。(中略)僕のこの憤慨は無理だらうか、間違つてるだらうか、僕が動揺常なき確乎不動の感情に拠る正直の凡人であるから、そう思ふは当然だといふなら、朝鮮人問題に対する日本及日本人の態度をみた世界の人々が全部僕のような考へになるのも当然である。(中略)今度こそ愈々愛想もこそ尽き果て低能でバカで意久地のない日本人と主義者と国士と朝鮮人と大和魂とが、手に糞のはいた程厭になり嫌ひになつた。(中略)鮮人問題解決唯一の方法は早く個人には充分損害を払ひ、民族には直に自治なり独立なりを許し、以て誠心誠意低頭平心慰謝謝罪の意を表する以外はない。(大正一二・一二・一四日)
      朝鮮問題問答集
 (三)過般の震火災に際し行はれた鮮人に関する流言蜚語に就ては、実に日本人と云ふ人種はドコの成下りか知らないが、実にバカで臆病で人でなしで爪のアカほどの大和魂もない呆れた奴だと思ひました。その後の事は切歯痛憤身震ひがします。(中略)小供が鮮人ゴツコをする度に死ぬ程ヒツパタイてやります。小供がこの次には朝鮮人になつて日本人を鏖殺しにしますからと泣いて陳謝れば許してやります。
 (五)(イ)朝鮮人の殺された到る処に鮮人塚を建て、永久に悔悟と謝罪の意を表し、即時独立を許すこと、然らざれば日鮮親和は到底見込なし、(ロ)憲兵隊司令官本部平親王井戸辺に宗一地蔵を建立し、幼児の冥福を祈ると共に軍部の無智無謀と残虐とを記念すること、外国の悪感情は総て之れに基因すればなり。(ハ)毎年その日にセツテンデー若くは亀井戸労働祭を挙行記念し、亀戸警察で軍隊の手に殺された多くの労働者の魂を猛烈に祭ること、噴火口を密閉したのみで安泰だと思つてるはバカの骨頂だ、イツか奮然として爆発するは当然で思ひ知ること近きにあるべし。(大正一三・八・一〇)後略。

亀戸事件
      平沼司法大臣への公開状
 (前略)此書は眇たる天下の一小問題亀戸虐殺事件に司法権の発動を求むるに過ぎません。が、其延て波及し影響する処は断じて軽視すべきでなく、貴下としては後日自責遂に自決消失せざるを得ざるかも知れず、私としては人間と性質と信念が激変するかも知れません。(中略)私が急に思立つたは一昨十五日文壇関係諸氏の平澤計七君追悼会で其思ひ出を新にした処へ、昨夜は筆にするに忍びない残虐を極めた平澤君等の惨殺死体、首と胴との実物写真を届けてくれた特志家があり、今日は又全く期待に反した貴下の横山勝太郎君の質問に対する答弁を読まされたからです。(実は私から其の写真を提供して横山君に質問して貰つたのだ)(中略)吾々自由法曹団の調書の一部として検事正に提出した私の始末書中の「此調書を読んで泣かない者は日本人でない人間でない・・・・・・国賊である悪党である」との一節は今も尚之を維持します。(中略)彼等犠牲者は皆別別に、就床中夜警中を抜刀士足の正服私服の憲兵巡査に襲はれたのです。(中略)殊に親思ひ兄弟思ひの川合君は、麻布より飛んで家に戻る帰途倒壊家屋中から瀕死の二幼女を救ひ出し、老母の身を案じつつ一昼夜之れを看護し漸く其幼女を隣家に渡して帰宅、一日老病母を看護したる処を急襲されたのです。(中略)亀戸署が急に遺骨発掘を拒んだは実は死体何個の実数曝露を感付いたからです。私共が全部の遺骨を受取つてもよいと申出たは、実は死体が何千あつたか、其人種別の割合、生焼半焼全焼けの比率、鉄砲か大砲か刀剣か、首があるかないか其割合は、を知りたかつたからです。(中略)然るに一昨日の新聞警察種は遺族が引取らぬから警察で埋葬すると報導し、飽くまで其の非を遂げんとします。(後略)(一二・一二・一八)
      平澤計七君を憶ひて
 平澤君が殺されたのは九月四日の真夜中、僕の同君を知つたは前年同月同日の真昼間、変んな因縁だ。僅か一年だが其間平澤君一家は僕の家に同居し平澤君は一家で僕の労働週報を編集し僕と共に種々の陰謀も企て、僕の看板で、「労働者法律相談所」もやつたから、短い割合には深い間柄だとも云へる。(中略)僕が労働週報を創みた時その道の玄人は皆一家で週刊の編集ができつこないと保証してくれた。しかし平澤君は編集から事務発送まで一人でヤリ遂げた。しかも後の評判では労働新聞としては週報前に週報なく週報後に週報なしとの事であつた。(中略)平澤君は熱と力と気と押と、根と理と柔とで大山公、二條公、古河、川崎、和田、大倉、浅野、大橋等大資本家大会社に対する数多の労働法律事件を見事上手に解決し死後今に至るまで未知の労働者からさへ感謝感憤の礼状を貰つてる。(中略)平澤君がこれ等大中小の芝居を味方友達仲間同志に打つことが評判を悪くし誤解を招いたらしい。しかし友愛会時代に弾劾排斥された事は全く一派の誤解若しくは陰謀で平澤君に過失はなかつたとは現総同盟主事の加藤勘十君と当時の弾劾の急先鋒高田和逸君とが僕に語つた処である。(中略)平澤君は元鍛冶屋で七等俳優で、講談もやり芝居もやり文学者もやつた人である。(中略)でも平澤君は可なり仕事もして生甲斐のあつた仲間であり其の最後も華々しく言伝へられ死甲斐もあつたから諦らめも出来ようが、なすべき多くの仕事を持つたまま同じ運命に落ちた南葛労働会の若い諸君及その氏名も知れずに終つた多くの人々の事を思ひ出すと、イクラ僕でも独り粛然として恨骨髄に徹し只血涙限りなく流るるのみで、もう冗談一つ書けなくなつた。(大正一三・五・二一日)
 (これは菊池寛君、下中彌三郎君の尽力で刊行された平澤君の遺署序文だ。平澤君の遺妻よしサンは私の紹介で野中誠之君と結婚、遺女和嘉子サンも私の媒酌で元警視庁の新潟県人佐藤君(入籍手続困難で和嘉子サン家に入り松本姓)と結婚一男二女を儲けた。佐藤君出征後野中松本両家終戦直前大森を疎開、佐藤君は終戦直後復員其処へ落ち着く、両家の疎開先又は現在地知りたし、私は長野県諏訪郡川岸村蛇ノ洞)
      ○
憲兵隊事件
      外二名及大杉君の思出
 大杉君の逸話又は思出を十枚計りといふ注文に、この表題で一度原稿を書き終つたは十月七日の夜であつた。その原稿では先づ大杉君の系図を掲げ、当局があくまでかくさんとする外二名は野枝さんと半米人の幼児橘宗一であること及び陸軍が触れられては困る、大杉君が山田保永中将とは三親等前憲兵司令官現京都師団長山田良之輔中将とは四親等の血族であることを曝露せんと試みた。・・・・・・が大杉君には詳細の自叙伝もあり、長い間その日その日の生活は新聞雑誌の種になり又は大杉君の飯の足しにもなつた・・・・・・で永年深い間柄であつたのを楯に珍味新鮮の処を盛沢山に・・・・・・大杉君は確かに殺されたに相違ないがイクラ考へても本当に死んだとは思へない、宮内省の坂本といふ大杉君の柔道の先生は、大杉の腕ならイクラ欺し討でも手を縛られて居らない限り、三人や四人では到底首を締めきれるものでないと、杉浦重剛翁に話したさうだ・・・・・・大杉君と最後に別れたのは八月末・・・・・・例の三人でやつて来た時である・・・・・・妻が下へ降りると洋行の用向、秘くして行つたわけ、旅費調達の苦心、今後の運動方法などを語り出した。その間マコと堅公とは歌つたり踊つたり泣いたり笑つたり喧嘩したりバカにハシヤギ廻つてゐた。堅公は僕の独り子でもし僕と共に之れを殺しでもした者があれば僕はキツトその下手人は申すに及ばずの少しでもの関係者(殊にその上の方の関係者)は本人は勿論その九族までを皆殺しにして復讐してみせる。・・・・・・先日朝日で志賀重昻翁が、恰度百年前の九月十六日に、モルモン宗の始祖が同じく軍人に親子三人で殺された。そのためモルモン教は大成した。後世日本に赤化思想が蔓延したら、それは無智なる軍人の功績である。と諷刺したが、百年前、九月十六日、軍人に三人で・・・・・・何の因縁か・・・・・・(大正一二・一〇・一三日)
      ○
 一つにつき公平に二つ宛とし、も一つは甘粕事件軍法会議の判決批評も抜書する積りだつたが、これは難波の大逆動機とアヤカリも因縁付けも余りに縁遠いから止める。難波は朝鮮人および亀戸署の虐殺には大憤慨をしてるが、憲兵隊事件には余り憤慨しなかつたようで、私の書いたものも亦それに似てるが、それは当時堺君等多数の者が共産党事件で留守中、その他の同志も多数が震災で散逸中の人手不足ではじめは、私が近藤憲二君と、あやめサン相手に自由法曹団にうつたへたりして事件暴露に専念していそがしく、後には村木、和田、古田君等の復讐事件弁護の必要上、自身あまり復讐主義強調はつつしまねばならなかつたからで、大杉とは格別親しく、あやめサンの愁歎場と大杉等三人の発掘惨殺屍体とを現実にみた私としては、朝鮮人や南葛労働者虐殺と同様に、大杉等の虐殺を憤慨したのは当然である。
 難波君は又幸徳や大杉の一派同士が復讐をしないことを意久地なしとして憤死したが、大杉の同志に関する限り之れは当らなかつた。村木源次郎は君よりも一層生ツ粋のテロリスト、久さん事件和田久太郎君は害悪に対しては乞食にでも生命を捧げタンクにでもタンをヒン投げるといふ徹底した君よりも純真な感激家、果して二人は君の憤慨し初めた頃から復讐を計画してゐた。一周年忌には少し早かつたが十三年八月十四日には未遂ながら当時の最高責任者福田大将一家の爆殺を謀り、記念の九月一日には大将を狙撃した。村木は松岡洋右に先例を残し、幸徳の命日を期し大正十四年一月二十四日巣鴨監獄を出て無罪で病死した。久さんは大正十四年九月十日無期懲役、特赦で有期となり秋田へ移されてから同志との約束に反し、好んで獄死した。久さんで今でも私の気にかかることは、久さんがイツモのニコニコで無雑作に、甘粕の最高責任者は誰かとの問にウツカリ、時の司令官福田大将と答へたこと、「獄窓から」の久太漫評に岩佐作太郎君の書いた、大杉の葬式を終へた直後某氏方に立ち寄ると、某氏は頗る緊張して「大杉のかたきを誰が打つだらう、かたきを取るものがないやうでは、アナキストもへちまもあるものか」と、僕を詰るやうに言つた。僕もこれには少なからず面喰つた。とある。某氏とは誰の事か、私か服部かと迷ふことである。
      ○
 猫の尻尾で何の役にも立たなかつたかも知れないが、私が九月震災ドサクサ虐殺を、よくもこう長々と山鳥の尾式にかいたのは、要するに、相当思慮ある注意深い慎重居士五十男の私も、血気盛んで感激感受性多い、気違ひじみた二十五男の難波も、それに就ての気分心持は怖しいほど同じで、私が難波と共謀して書いたか、難波が私と相談して裁判陳述をしたかと疑はれるくらゐであり、全然無縁の衆生ではない、といふ事を云ひたかつたのだ。
      大逆罪と天皇制
 前にも書き後にも書くであらう如く、三つの大逆事件には一つの共通したものがある。それは卑俗低級無哲理のものではあらうが、復讐しなければならない。どうせ死ぬのだから、一ばん華々しい人の目に著き口の端に上る最高責任者を狙へといふ至極簡単明瞭の無鉄砲である。幸徳事件が赤旗事件の復讐である事は天下に隠れのない事実、虎の門事件又前来長過ぎる記述通り、朴烈文子事件は死滅と最高責任者強調に忙しくて、復讐の理由は軽く述べてゐるだけだが、もし九月の震災ドサクサを見た後だつたら、全く難波と同じで或は朝鮮人虐殺に付ては其れ以上であつたに相違ない。
 私はなんでも民主々義第一の今日、今更圧制専制弾圧とその結果の恐怖などに就て説く愚を敢へてしないが、最後に天皇制に就て一言してみたいと思ふ。
      ○
 大逆罪が最高責任者を狙ふものである限り天皇制を廃止すれば大逆罪は直になくなるが、政治上の最高地位を天皇とする天皇制の存する限り如何に刑法を改正しても、如何に憲法を粉飾しても大逆罪の発起は免れない。しかし私は老年者共通の保守消極温健同情平穏を愛好し、今急に茲で此際天皇制を廃止することは、却て混乱無秩序を来たし、何もかも制度の悪い昔の事で今は忘れて何の恨みもなく、自分に関係なく他人がヤツてくれるにしても面倒臭く、有るものを捨てるやうで惜しくもあり、天皇に気の毒のやうにも感じ、すべて私の好みに反するから賛成できない、のみならず私は故郷へ帰れば墓参りをし線香を立て茶を啜つて茶話をするため、生家に立寄るを楽しむやうに、東京へ出たら一寸寄つて会つたり拝んだり、花や庭をみたり散歩したり、を楽しみに宮城や皇室を保存したいとさへ思つてる。
 こうするには天皇が最高にも最低にも責任者であつてはダメだ。それは実質上は勿論だが形式上にも責任者であつてはならない。多数バカ者の中には形式をみて実質と誤解する者多数ないとは保証できない。怖しい事だ。で真に天皇制の存続と皇室の安泰とを希ふ者こそ、天皇と政治干与とを切離し、改正憲法の所謂天皇の儀礼的大権をも極度に縮小し、使用文字で誤解を招かぬやうよく注意し、未来永劫大逆罪の原因除去を望むべきである。象徴認証ですらどうかと思へるに、これを元首裁可に変へるなど寧ろ発起奨励で、危険千萬とんでもないことである。
<以上は、山崎今朝弥氏が著作者である。>
<旧仮名遣いはそのままとし、踊り字は修正した。旧漢字は適宜新漢字に直した。>
<底本は、『雑誌真相復刻版(第1巻)』(三一書房、1980年)、底本の親本は、『真相』(人民社)第6号(1946年11月)3頁>
最終更新:2009年10月26日 00:48
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