堺利彦論


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堺利彦論
          山崎今朝彌
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 大宅社長?主幹?主筆?の注文は十五六枚で明後日までに枯川堺利彦君の評伝を「評論」に書けといふのであるが、葬式の際荒畑寒村君の読んだ極簡単の略歴でも二三十枚はあり、明かに僕では其任にあらずではあるが、堺君の著書目録を挙げて其の内容を瞥見し、之れと堺君の思想と闘争と仕事と環境と六十年に渡る各時代表裏の社会状勢とを牽連錯綜せしめ、尚上部建築から土台下まで台所から奥庭まで覗いて「国宝」堺利彦を論評伝記するなら、到底一冊や二冊の本には纏められない。ソコを腕と筆とで上手にコンサイスなりコンデンスなりして、物にしろといふ注文であるなら、コレは又職業的文筆家でも以て難しとするところであらう。
 で、僕は今尚僕の脳底にコビリ付いてる堺君の複雑なる性格のホンの一端一面を観察描写して、最後に僕でなければ誰も言ひ得ぬ事を一つ二つ書いて、「明後日まで」の責任を解消する。
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 真柄さんは「サンデー毎日」に、私の父堺利彦は「日本社会主義運動の元老」で、「日本一のユーモリスト」で、文章翻訳演説が平易明快巧妙で、年寄りのくせに茶目で彌次ツ気があつて、老熟円滑の一方、正直で小胆で、運のよい、監獄へ何遍入れられても改心しない、誠に複雑多方面な人間だといふのが定評だらうと思ひます、と書いた。僕は多少重複にもならうが是非コレに、堺君は一通りならぬ強情ツ張りであつたが、何事にも理解のある、世話好きで、物解りの早い、安直でよく小豆に働く、融通の利いて才智の勝れた、親切な好い爺父で、主義と金銭にかけては因業な程潔癖の御大であつた、といふのが定評であつたと付け加へたい。
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 堺君といへば、僕はすぐ幸徳君と片山潜君とを連想する。日本から来た新聞記者の幸徳君にはアメリカで初めて会ひ、僕がまだ社会主義の風ぼうをも知らず、只面白い痛快なものだと思つてる最中に殺されて終ひ、従つて幸徳の何者であつたかを知らずに別れたのだから、其の偉らさを其後に知つた今でも尚僕は幸徳を友人位にしか思ひ出されないが、新帰朝米国伯爵、色々博士の僕を将来有為の人物として明治四十年頃の平民新聞社、即ち当時の社会主義者間に大いに紹介してくれたのは幸徳であつた。堺君を初めて識つたは何時であつたかドウしても想ひ出せぬが多分其の時であつたらうと思ふ。兎に角堺君は、京橋鍋町辺の売文社時代、堺、大杉対立時代、山勘横町解散時代、平民大学全盛時代に、度々僕に向つて「君がコンナに役立つ人になる人だとは予期しなかつた」と、決して冷かすでもオダてるでもなく、本心真面目に述懐した頃までは、僕などは堺君の眼中になかつたものだつた。でも若し幸徳が長く生きて堺君と対立して居たら、大杉君、山川君、石川君を初め他の多くの学者の理論家の一党一派の旗頭の人々は、ソレコソ一度間違なく幸徳と共に堅く小さく固まつて本塁を守つて居たに相違ないが、僕はキツト多くの労働者、色々事情のある人、抛つて置けば落伍の他なき足の弱い歩みのノロイ人達と一緒に、よく面倒を見て呉れ、何もかもよく理解の早い堺君にクツ付いて居たに相違ない。最も事実は、堺君が最後まで山川君を立て通した以上に幸徳を立て通したに相違ない。そして其の女房役となつてコツコツと蔭で働き、幸徳に対する逃避ダラ幹、お大名等々の非難攻撃に対しては、極力、病弱だよ体質だよと弁護を為し、それでも弁護がし切れず幸徳は遂に没落したか又没落する前幸に病死し、矢張り堺君一人の時代になつて居たに相違ない。
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 片山君は日本に居た間最右翼を承はり、僕ですら僕の方がズツト左翼だと思つてゐたくらゐであつた。留め役太ツ腹の堺君でさへも片山君を軽蔑して居たことは勿論である。でも物に拘泥らない堺君は片山君亡命の時、発企の一人になつてせん別を集めた。片山君が喜んだは勿論である。後年ロシアから義理堅い片山君が其時を追憶して礼言を伝言して来た時、今度は堺君が相好を崩して小心の好々爺本性を発揮し、片山君は友誼に厚いとか何んとか云つて無邪気に喜んだものである。之れを見てまた何んの訳もなく無暗に嬉しがつた者は、凡そ僕一人ばかりではなかつたらう。
 片山君は堺君よりも先輩の僕の大先輩であり、年も僕より約二十も先輩であるが、僕の方がより左翼リンケンに居り、より社会人であり、友入もより多かつた関係で、僕は堺君から色々と推挽指導を受けたやうに、片山君からはお蔭をそれほど蒙らなかつた。其代はり片山君からは堺君以上遙かに信頼を受け、恩義を感ぜられ、期待をかけられたらしかつた。でも若し日本で片山派と堺派とが今迄対立抗争して居たとしたら、イクラ不偏不党大同中立、主義主張よりも義理と人情、理論政見よりも意地と情実の僕でも、遠の昔に、テキパキ理解の早い、円満無碍、拘泥のない堺君に与みして居たであらう。片山君も堺君の有つた、主義者の全てのよい資格を具へて居たが、物に拘泥らず、早く話しのわかる、察しのよい、才智の勝れた点では、片山君は其の輝ける世界的闘争閲歴を以て漸く平均を取り返せたに過ぎなかつた。僕は曽て、もし片山君が日本に居て、堺君の地位に在つたら、西川光次郎君や木下尚江君の如く、聖人になる才のない片山君は、今頃は老社会主義者として巷間で名誉の窮死を遂げて居たかも知れない、と云つたことがある。
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 堺君は口先ばかりでなく真実殺されて死にたかつたらしかつた。公会の席でもよく其れを公言したが、僕等によく、細いものにも突かれ(死んだ宅で××に錐で刺された)太いものでも殴られ(社会主義同盟の大会で壮漢達に棒で襲撃された)て見たが思つた程痛くも苦しくもなかつた、人は望む時死ねるものでない、あんな時に死にたかつたと云つた。度々の襲撃で度胸が据つて居たのだらう。
 僕は堺君から、僕にもし変なところが見えたら注意してくれ給へ、覚悟があるといふ意味の話しをきかされて悲壮の感に打たれたことがある。病気で倒れない前に、主義のために何かで死にたいといふ決心が見へたからである。
 福田狂二君の例の執拗な「討閥運動」には堺君もホトホト弱つて居た。僕が潮時を見て仲裁に立つたが堺君はドウしても応じなかつた。実は福田にはウルサクて困り抜いてるし、福田と喧嘩して得にならぬことは知つてるが、だからといつて福田と和睦したところが、和睦が和睦になるものでもないから、損でも和睦しない、どうか手を引いてくれといふ言分であつた。この時僕は至極最もの強情と明察の二人を堺君に見出した。しかし福田君は今は、それは皆水に流して忘れて終つたから、今後堺君を日刊「社会運動通信」の名誉社長にして、少し許りの月給も出したい、相談に乗つてくれ廿五日に上京する、といふ手紙を一月廿日頃に大阪からヨコし、上京したらもう堺君は亡しだつた。双方のために惜しかつた。
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 何時であつたか「警視総監」の橋浦時雄君が服部君に手紙をヨコして、服部君が雑誌「労農」の邪魔をするけしからん、福田か芝(僕の事)の煽動だらうと書いてあつた。二人で堺君の処へ行つて何の事だらう心当りもないと相談した。堺君は其時手紙を一読して、橋浦は聞かないで見て言ふだけだ。君等が吉川と心易くするのを見て何もきかずに邪推したのだらう。余り吉川と心安くせぬがよい。「労農」は吉川の出資で橋浦の経営だから橋浦が脅威を感ずるのだと、注意してくれた。この時も僕は堺君の明快、洞察、成程と感心した。
 誰でも公然と知つてゐる事で、決して家庭の秘密でもあるまい。堺君が婿の高瀬清君にあきたらないのは事実だ。僕は或時堺君に、家庭雑誌の、女性中心主義の君に似合はん、要するに何の訳かときいた、堺君は一寸考へ一寸笑つて、要するに高瀬が余り男振りがよいからだ、も少し男振りが悪ければよいがと答へた。僕はこれで成程とわかつた。
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 売文社解散当時僕が中々持てた時代があつた。高畠素之君と遠藤友四郎君とやつてきて、取つて付けたように、堺君ではダメだから僕に大将になつてくれとのことであつた。しかし二人の腹は見え透いて居て、気持が悪かつた。山川君と堺君とやつてきた。堺君は極めて自然に頻りに喜んで、コレから僕等も山崎君を大将にして何かやるんだねと、熱心に山川君の賛成を促した。山川君は中々相槌を打たなかつたが、それは、却つて其れが人をバカにすることになるからだといふ風にとれた。僕はこの時ほどよく堺君の天真爛漫と無邪無悪との実物を手に取つて見たことはない。
 堺君は僕の族籍、学位、大学、教職等に就ては熱心の支持賛成者で、又其の存在理由や社会的根拠に、充分の理解を持つて居たにも拘はらず、僕の日本社会党には反対だつたやうに見受けた。この日本社会党は大逆事件のすぐ直後、為に聊か感ずるところあつて、僕一人で創立したものである。片山君は新聞を見てかすぐ来て党員になりたいと申込んだが、悪戯だからと云つて断つた。堺君は一生この日本社会党を筆と口にしなかつた。
 蓋し社会党や社会主義を滑稽化し遊戯化しては太だ其の神聖を冒涜するといふ建前からきたものであつた。しかし、公然と道楽社会主義者と名乗ることには異議なかつた。公然だからであらう。
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 白柳君はよく、堺君は労働者を重んじた、それで労働者が集まつたといつたが、之れはどんなものか、僕は其反対だつたと思ふ。岩佐作太郎君は又、大杉は俺れが貧乏でもバカにもしなかつたが、堺は貧乏故に俺をバカにする、といつたような事をいふ。しかし之れも其の反対で、堺君は寧ろ労働者貧乏人に少々媚びた点はあつたがバカにするなどの点は少しもなかつた。之れがホントの貧乏人の辟見ではなからうか、大杉君、高畠君の処には比較的多くの労働者やナラズ者が集まり、堺君、山川君の処に其れが寄り付かないのは、それは柄だ、人柄だ。
 堺君得意時代の御機嫌よい時はよく、彼れは社会主義者だから折紙を出そうなど云つたものだ。河上肇博士に対して、ナア山川君河上にはモウ折紙をつけてよいネーと云つた声がまだ耳に残つてる。御機嫌の悪い時はすぐ、彼れは只の人道主義者で、僕は時々、君は公平病患者だと折紙をつけられた。
 何んと云つても僕は堺君の影響も多分に受けた。新聞雑誌の質問に対する二人の回答を比較する毎に、其の文章、言廻し方、答への内容、が殆んど一致して居て、時々ゾツとすることがあつた。
 堺君は腹の底からの帝国主義戦争××××主義者であつた。堺君がこの世に於ける大衆への最後の叫びが、病床よりの「僕は諸君の帝国主義戦争××××の声の中で今死ぬ事を光栄とする」のメツセージであつたことは誰でも知つてる。
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 堺君の病気は大正十四五年頃からキザしたものであらうか、其理由はこうだ。
 其頃は僕がまだ本気に『解放』を出してゐる時であるから、(今の「解放」は僕個人の悪戯雑誌に過ぎない)一会を催したり一席を設けたりするは当り前のことであるのに、堺君は酔ふとすぐ、君は此頃よく人を集める、何か野心があるのだらう、アンナ人はもう圏外の人ではないか、などと随分難題を持ち出し僕を手古摺らせた。或時は守田有秋君や白柳秀湖君を前に並べて、何だかは忘れたが、随分くだをまき両君に当て付けるようなことも云つた。僕にからんだ事は勿論である。両君から各抗議か忠告かを受けたと見え、二三日してから「今守田君から葉書が来たので先夜の事を思ひだした。此の前白柳君との時は、僕がクダをまいて好々爺振りを発揮したと白柳君があとで云つたが、今度は僕の頑冥振を発揮したわけだ」といふ葉書をよこした事もあつた。三・一五で捕はれたお蔭で四・一六にならず、ために幸ひ無期を免れた徳田球一君と三人で一会を持つた時など、三里四方に鳴り響く徳田君の地声に秘密もコツソリもあらばこそ、堺君も負けず大声でブルブル、テーブルを叩いて激論之れを久ふし、吃驚した僕をハラハラさせたものだ。僕は其都度、どうも堺君とは丸ツ切り人が違ふ、可怪いなと思つた。
 矢張り其頃国民新聞に、堺君又は堺君一派に行為を持たない記事が出たらしい、大庭柯公君のことか討閥運動の事かであつたらう。堺君は其の種が僕の処から出たものと邪推したらしく、其れらしい葉書をよこした。僕には後で其れは吉川守国君の処から出た話を記者が脚色したものだと解かつた。服部浜次君だか岩佐君だかに其の事を話したら、あの記事なら困るやうな記事ではなかつたし、第一吉川か橋浦か福田でなければ知つてる事ではない。それを伯爵だと思ふのは堺君此節どうかしてると云つた。ソコで僕は堺君に其事を書いてやつたら、堺君からも「山川も出て来るから何日何時頃日比谷で一緒に飯でも食べよう、迷惑をかけて済まなかつた」といふ意味の返事が来た。ソレを其れからドノ位過ぎてからか、『解放』が何かの題で例の往復葉書の問合せを堺君に出したら、堺君から返答がきた。しかし其の答へは編集の山内房吉君には何のことだか薩張り意味が解からなかつたが、僕にはすぐそれが、前の国民新聞の問題の蒸し返しであることが解かつた。堺君は前に一旦よく諒解して済んで了つたことを全然忘れてゐたのである。僕はこの時コレがホントの堺君かな、変だなと思つた。これが僕の大正十四五年説の根拠だ。
 むろん其後と雖も堺君は常に本来の堺君で、ただ時々到底堺君とは思へないことがホンの往々あつたといふに過ぎなかつたのだ。こうなると尚注釈を要する。堺君の病気は動脈硬化症で、脳の故障は少しもなかつたのだ。
 この原因に付ても僕はこう見てる。弾圧迫害にはビクともせぬ堺君ではあるが、例の第二次共産党事件(三・一五を第三次、暁民共産党を第一次として)の終り頃から同志の間に起つた、仲間割れや醜いけんかには困り切つた。弱り目に祟り目で福田君の討閥運動が派生した。心身を労し過ぎた。それに山川君は病気、荒畑君は内外に洋行、親身の相談相手はなくなる。こんな事で一人クヨクヨ余りに神経を費ひ過ぎた処へ、父親が倒れたといふ同じ脳溢血が、拍車をかけて付け込んできたのだ。
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 堺君が死んでも日本の無産階級解放運動には、もう少しも影響はあるまい。が、しかし労農派には相当影響しないだらうか、勿論指導理論、運動方針の確立などには、後継者雲の如く山の如くと云はんよりも寧ろ初めから問題はなかつたと思へるが、重石として、看板として、紛擾解決係としての堺君が亡くなつたことは、今後統制上大に困るのではなからうか。文芸戦線とか労農芸術家連盟とかが割れて駄目になつたのも、纏め役の堺君が病気で役に立たなくなつたからだ、といふ僕の遠目は間違つてゐるにしても、今後吉川財閥と密接の関係を保つていくには、堺君が居らぬと困るだらうとの想像は、余り遠くは的を外れまいと思ふ。昔し遠藤君が本まで書いて堺君を悪口し、堺君が不当に利益してゐる点を五六だか七八だか数へ挙げた、何と何であつたか残らず忘れたが自分の事一つだけ覚えて居る、其れは「君は山崎今朝彌といふ変つた弁護士を味方にして之れを何時でも利用することが出来るから得だ」と云ふ意味のことであつた。其時堺君派の諸君は、勿論僕も加はつて、其れまで一々数へ挙げるのに何故吉川君の金銭的援助を真ツ先に挙げないんだらうと大笑をしたことがある。其れ程吉川君の援助は昔から大したものであつた。が、吉川君も中々一癖ある男で、時々ツムジを曲げる、其冠を直し得るものは絶対信頼の堺君一人ツ切りであつたが、今やその堺君亡し嗚呼といふところかどうか知らぬが、兎に角、堺君死は労農派(今は前進派とでも言つてるか?)には随分打撃だらうと思ふ。
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 堺君の葬式は堺君に相応はしい葬式であつた。最初僕は在りし昔の堺君の心を汲んだ積りで社会葬を提議したが、側近者の決意が既に友人葬にあることを察知したので、満場一致の決議を得るため会議の席では友人葬を提言した。友人葬と社会葬との差異は、僕一人の考へでは、実質的には葬儀を無産団体代表の葬儀委員で行ふか又は友人中よりの委員で行ふか、形式的には委員長を社会大衆党々首の安部さんにするか、又は切つても切れない友人の山川均君にするかであつた。社会葬であつたら必らず会葬者の二千や三千を動員することと、赤旗林立弔電満場をより多くすることは出来たであらうが、友人葬程香奠は集らず、示威行進検束スクラム、中止解散は勿論の事、最後最愛の遺言帝国主義戦争×××対の絶叫はなかつたであらう。ヤルだけヤリ、するだけして、革命歌で中止、唱ひ尽して解散終り、それでおまけに議会の問題は、弾圧迫害で一生を通じ、人命を尽して天命を待つた、老社会主義者堺利彦君の最後を飾るものでなくて何んであつたらう。其時、僕は堺君が嬉しくて堪らず、突然起つて例の「社会主義萬歳」を大唱した姿を見た。友人葬でホントによかつた。安部委員長の社会葬では到底出来ぬ芸当だつた。
 集まつたとか集るとかの香奠が二千とか三千、電話と本を売払つたら千や千五百はあらうが、中央公論社の好意で全集が出るとか、すると印税少くも千円、借金はあつても返すに及ぶ借金ではあるまい、で遺産茲に約五千。堺一家にとつては真に之れ空前絶後の大金故心配症の僕は又しても、貧者罪なし金を見て罪ありの譬へに洩れず、コレを周つて内紛争議が起きはしないかと取越苦労をする。だがしかし、コレは考へて見ればどうでもよい。為子さんと真柄さんで僅か五千円の金で喧嘩が起きたら、コレも亦プロレタリア堺の死後に相応はしくて誠に面白い。又生さぬ中の二人が、夢にも見た事のない大金を前にして、問題も起さず無事平穏にすんだとしたら、コレも亦常識円満世故人情通、紛議聴役解決係の老堺君の家庭そのままで誠に麗はしい大問題だ。心配はもうヤーメタツト!といふところで僕も擱筆する。
<以上は、山崎今朝弥氏が著作者である。>
<旧仮名遣いはそのままとし、踊り字は修正した。旧漢字は適宜新漢字に直した。>
<底本は、『復刻版人物評論』(不二出版、1996年)、底本の親本は、『人物評論』(人物評論社)第1年1 号(昭和8年(1933年)3月号)34頁>
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