日本社会主義運動壹面史


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日本社会主義運動壹面史
          山崎今朝彌
      古田大次郎君刑死秘譚
      ○
 古田君! 噫古田君!! 古田君! これで後の句が続かない。お通夜の猥談、念仏の屁は百も承知しながら、僕は古田君の事となると冗談一つ云へないような気がして困る。中浜哲君の長持が許可になり、江口君の随筆が来たなら、僕は威張つて黙つて居るのだが、布施君の随評とN先生の創作だけでは、デヂケートが聞いて呆れるヂアーナリズムと、又々非難攻撃の的とならふから何か書かねばなるまい。とは云へ休日は今日で終り明日からは裁判もあり校正も出る。偖何を書いたものだらふ。
 処へ文戦飛び込んだ、披いて見ると久さんの追懐で堺君がヨイ例を示して呉れてる。占めた! ヨシ僕も之れで行く、古来古田君の手紙を終り迄読んで損をした者は一人もない。併し手紙は八月号と十月号の解放にも多く載り、又方々の新聞にも出た。ソレに久さんのも、古田君のも、今後必らず多くのアナクサイツクの雑誌に出る。だから其辺も篤と考慮に加へてなるべく簡単にする。しかし之れを終りまで辛抱出来ぬ読者は後でキツト後悔する。僕でも読んでる中に幾度も泣いた。
      ○
 先日は、態々面会に来て下さつて誠に有りがたふ御座いました。その後も相変らず無事でゐますから、御安心下さい。僕のことに関しては、最早弁護の余地もありますまいし、弁護して戴くのも、一寸卑怯の様な気がするのですが、何分僕一人ではなし、外の諸君は、まだまだ望みがあるのだからよろしく御尽力下さい。僕の陳述にも、随分ヘマもありましたが、なれない奴が、飛んだ馬鹿正直をやつた位にお笑ひ下さい。どうせやるなら、大袈裟に賑やかに景気よくやろうではありませんか、又、手紙書きます(一三、一二、一七)
      ○
 先日は有り難ふございました。諸君のお蔭で非常に愉快にここの生活が送る事が出来まして、私は何と諸君に感謝していいのか分りません。元々私は淋しがりやで、その上随分気の弱い男なのですから、一人ポツンとここに置かれたら、どんなに苦しむ事か、想像しただけで恐ろしくなる位です。それを私は諸君によつて救はれました。本統に感謝する言とてない位です。
 私は今、全てに感謝したいと思ひます。私は裁判官や監獄の人達に対して少しの憎悪も覚えません。私は人を憎むだけの資格のある人間ではないのです。人間は全て許さなければならないと思ひます。そこにほんとうの血と涙が湧くのではないかと思ひます。涙で人を許すものもあります。しかし、さうして人を許すと共に、熱い血汐で人を清める事こそ、より人を愛する所以ではないかと思ひます。が、私は自分のした事が、これより以上に正しい事はないものであるとは信じません。私は真理の不変を信じないからです。(一四、四、一八)
      ○
 飛んだ失体をして終ひました。この月の初め、貴下の雑誌へ原稿二枚を書いて、御挨拶と一緒に封筒でお送りしたのですが、僕はそれが届いた事と計りに思つて今日迄御無沙汰してゐたのです。さうしましたら、昨日お役人が見えまして、あの手紙は少々カン心出来ない点がある故、裁判所へお伺ひをたてた所、罷りならぬといふ御詫宣があつたから、遺憾ながら、あれは紙屑籠へ押送するとの事でした。もつと早く聞かせてくれれば好いのに、裁判所もいろいろ忙しいのださうです。そんな訳で今日迄何の御挨拶もせずにゐました。不悪お許し下さい。
 お蔭で身体も相変らずです。近頃、又、ヒゲを蓄えました。今度の公判迄には立派なものとなるだらうと思ひます。夏の監獄は大分面白いですね。蚊帳もハラレ、簾もかけられました。蚤や南京虫の諸君が、晩になると、ゾロゾロ訪問して来ます。朝、よく真赤に赤化した南京虫が、意気揚々と柱を伝はつて自分の巣へ凱旋して行くのを見ます。無邪気な恰好は殺すにも忍びません。
 外へ出ると、クローバーの花が淋しく咲いてゐます。之を見るのが僕の慰さめです。まるで穏者のやうな感じを受けてゐます。又、夏草がスクスクと勢好く延びてゐます。その色、その姿、僕は堪らなく郊外の夏が恋しくなります。
 相変らずボツボツ世迷言を書いてゐます。近頃は、心が少し呆然として、平静といふのか空虚と言ふのか何となく呆然して終つて愚図愚図に日を暮してゐます。
 和田君も丈夫なやうですが、あの法廷で僕に対して述べた言葉が僕には今でも耳に残つてゐて忘れられません。僕も和田君と一緒に死ねたら好いと思ひます。
(一四、七、一六)(第一回公判五月廿一日第二回六月一六日)
      ○
 先日は矢鱈、可成り暑くなりましたね。外の連中は暑い暑いで騒いでゐるが愚な事です。夏は暑いものにきまつてゐますもの。大分菊が大きくなりました。が仲々花はつけますまい。この節、道傍にカタバミの小さな黄色い花が咲いてゐました。可愛いい花です。外に望みはないが、せめてかうした草花を部屋の中に飾るのを許してくれたらと思ひます。
 近頃、僕は妙に人間といふものが厭になりました。人が厭はしくなれば誰でも、自ら自然といふものを愛さずには居られなくなるのですが、その気持が今、僕によく解ります。けれども、この考への独善的な無責任な事を僕は恥ぢます。その上、僕はまだ人間の心に宿つてゐる純真さを信せずにはゐられません。そのために僕は、絶望的なニヒリストにも、頽廃的なニヒリストにも、又隠遁的なニヒリストにもなれないのです。
 今度は、没収されないやうな、それでゐて面白い物を書きませう。
 大阪の連中も変りないやうですね。随分長い間不自由な思ひをさせて本当に気の毒です。僕の幸福は、皆あの人達のお蔭です。それでゐて、僕は随分エゴイスチツクな考へで今生活してゐるのが恥づかしい次第です。人の痛さは三年でも堪えると言ひますが、こんな事を思ふにつけて僕は生きてる事が苦痛でなりません。(一四、七、二三)
      ○
 泥棒には泥棒の道徳がある、と冷笑する人は勝手に冷笑せよ。しかし僕は今、古田君は死ぬまで大阪の人達の事を、大阪の人達は又自分の事より古田君の事を心配して居た事を思出して泣く。(第三回公判六月二十七日、検事論告、布施弁護士弁論)
      ○
 貴下のなさつた弁論について、一寸感想を述べて見たいと思ひます。正直に言へば、ああした弁論は、して貰ひたくなかつたのですが、しかし弁護といふものに重きを置かれた、貴下の心も、僕によく解ります。ですから感謝こそすれ不満は少しも持つてゐませぬ。只僕達の事件に於て、ああした弁論が、どれだけ刑の量定に影響するか、殆んど無いと言つていいでせう。して見れば、無くもがなとも思へます。
 貴下の「僕がここに二、三年もゐたら、仏教信者になるだろう。」と言はれた言葉は、大変僕の胸に響きました。さうお考へになるのは尤もです。参考書を読めば、大体僕の今のああした気持が解るでせう。ああした気持と言ふのは、僕は一般の宗教について殆んど智識を持たぬが、僕の知る範囲での仏教、虚無、寂寥遁世、静寂さうした気分に漲つた仏教、それに対して、ほのかな愛着憧憬、を持つてる事です。これ迄の僕も、意識はしなかつたが、同じさうした憧憬がないではなかつた。今の僕は、たしかにこれ迄より淋しい心を持つてゐます。だから、尚、仏教の静かな落付いた、一面から言へば消極的な所に、あるなつかしみを抱くのです。これが、このまま進んで行つたら、或ひは貴下の言はれる通り仏教信者になるかも知れない。自分では、僕は、既成宗教の全てに慊きたらぬから、信者になるやうな事は薄々ない積りではゐる。又、なつてはならぬと思つてはゐる。しかし弱い心の僕だから如何なるか解らない。貴下が心配されてゐるのも無理ではないのです。
 しかし、僕は思ふ、僕の×××××は一つの宗教であると。僕は、宗教的な信念で、自分の×××××に努力してゐたし、又、今もしてゐる積りです。そして、これ以外に、僕の生きる道はないと信じてる。だが、僕は弱い人間だから、この困難は淋しい道を辿るのは容易でなかつた。いつも、自分を鞭ちながら、からくも進んで来たのです。無理に無理をつづけたから、勢ひ破綻は出来たろう、しかし、僕は、この破綻を利己的な意味で以て恐れて×××××の道を廻避する事はしたくない。僕だつて、いつ迄呉下の旧阿蒙でもゐない、若し、今、僕が社会に出られたら、新しい道は充分開け得る積りです。しかし、僕はそれよりも、このまま死んで終ひたい。その方が、僕の心も安らかだし、最後も全ふされる。とは言へ、今僕が、死を怖れ、寂寥を感じてゐるのは事実である。だから、真実に僕を知り愛してくれる人は、弱い僕に勇気を与へて欲しい。僕は、今が一番好い死に時だと知つてる。その僕を安らかに死なせて欲しい。それが僕に一番うれしい事なのです。若し、親同胞が淋しく思ふのだつたら、僕のこの心をよく説明して納得させて貰ひたい。その方が、生命を助けて貰ふより、如何程うれしいか知れない。捕はれてから僕は、淋しい事もあつたが、うれしい事もある。いつも、いつも悲観して計りゐはしません。どうか、死の名誉と喜びを、親同胞に伝へて欲しい。これが僕の哀心よりのお願ひである。大阪の方はよろしく御頼みします。(一四、八、一九)(第四回公判八月十五日、山崎弁論、九月十日言渡と決定)
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 『N先生』を同封します。『解放』へ載せて下さい。突込んだものを書けば削られよいものを書けば取られ、これより外仕方ありません。許して下さい。此次は少し長いものを書きませう。判決もすぐですね、もう覚悟は出来ました。喜んで死を待つています。(一四、九、二)
 (『N先生』は恐らく古田君唯一の創作ではないだらふか、解放十四年の十二月号に載つてる)
      ○
 死刑の宣告があつた所で別に、これと言つた感想もない。吹くのではないが、大いに喜んでゐる。恐ろしい気持も何もしない。ただ何となく、夢の内にひたつてゐるやうな気がする。
 初めから覚悟してゐた計りでなく、死刑でなかつたら今迄言つた事考へた事がまるで無駄になつて終ふ、又、外の人にも死刑を触れてゐたのが、嘘になつて恥づかしい気をしなくてはならぬ。そんな事もなく、多年の希望が達せられたのはうれしい。
 和田君が一緒に来てくれないのは、残念だが仕方がない。村木君が今日迄ゐたら、如何なに喜んだか、返らぬ事だが、愚痴が出る。
 先づこれで僕の一生の仕事も済んだ。後は安らかな往生を待つ計り。縊られる迄、後幾日か幾十日か知れないが、ユツクリ本も読もうし物も書かう。刑場に引かれる間際迄、この筆を絶つ事をすまい。別れの時には是非一度、内の同志に会はせて貰はうと思つてる。
(九月十日午後二時記、速達)
      ○
 この十八日から愈々本物の死刑囚となりすまし、相も変らず悠々と呑気に生命の洗濯をしてゐます。身体も矢つ張り丈夫。中には随分僕を見くびつて「夜、眠れるかい?」なんて失礼な事を聞くものも-中村弁護士はこの前そんな事を聞いたつけ-あるが、憚り乍ら僕には、もうチト勇気があります。夜なぞ、今迄よりかよく眠れる。暁方迄グツスリ寝込んで終ふ。だが正直なところ、寝覚めの時は可成り淋しい。一日一日とちぢまつてゆく生命が眼の前に見えるやうで、何とも言へぬ淋しさに捉はれる。しかし、その外の時は淋しい事なぞ殆んどない気の弱い男なんだが、環境のお蔭で、これでも随分強くなつたのでせう。まあ、心配しないでゐて下さい。
 写真も十八日に撮りました。和田君とも十分計り話しました。妹達とは会ひません。相変らず下らぬ感想を、執念深くボツボツ書いてゐます。
 それから、貴下にお詫びしておかねばならぬ事がある。あなたが弁護人控訴をしやうとした真意を知らなかつたので、僕は一時、詰らぬ真似をすると思つた事がありました。詳と前以て伺つておけば今迄も、そんな事はなかつたでせうに、何分単純な人間ですから、人の心を洞察する事が出来ず、ついムカツ腹をたてるのです。お許し下さい。
 大阪の人達のお世話をよろしくお願ひしておきます。僕の後始末もよろしくお願ひします。いつやられる生命か解りませぬ故、ここに改めて感謝の言葉を申しておきます。(一四、九、二五)
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 こう長くなる積りはなかつた。大半捨てて大半削る予定であつたが、独りでドレニも感心し、捨てる事も削る事も出来なくなつた。初めは一つ一つ注釈を加へる予定であつたが、スキもない程連絡と緊張とがある手紙であつた。しかし今又此手紙の後半を読むと、更に再び涙を新にする。自分にも其理由は分らない。控訴は本人の意思に任かせろ、無期より死刑がよいに極つてると云ふて、誰も弁護人控訴に賛成する者は無かつたが、僕は、其れは他人の生命を賭けて自分の道楽をやつてる者ではないかと心配した。で、九月十五日面会の節、真言空言ゴチヤ混ぜで、俺に任せろ一任しろとダマして見たが聴かなかつた。嘘だから何を云つた僕は忘れて仕舞つたが、古田君はよく覚へて居つたのだらふ。之れが又僕には涙の種だ。和田君は任せても差支ないような口吻で、結局古田君が控訴するならといふ事になつたが、古田君は一流の理由で頑として応じなかつた。今考へれば或は僕が一ツ被告本人の意思や世間の非難なんかは之れを無視し、独りで弁護人の権利を実行して一刀両断にやるべきだつたかも知れなかつた。しかし僕だつて其れ程の勇気と親切が有る訳でもなし、又控訴が其れ程被告本人に利益と名誉を与へるものでもなし、或は今迄通りが恰度よかつたのかも知れない。何が何だか薩張り判らないが、何だか僕には切なかつた思と、惜かつた悔みとだけが今でも残つてる。
      ○
 昨日、布施さんと会ひました。近い内ださうですね。僕のは。この秋の内に片づけて貰ひたいと始終思つてゐます。十一月頃が一番好い。菊も咲かうし、コスモスも咲かう、七草も盛りたらう。
 斯した沢山の花にかこまれて僕は死にたい。冬になつては余り荒涼としてゐて殺風景過ぎる。如何考へても秋が一番好い。どうやら思ひ通りにその時に死ねさうだ。とまア、独りで喜んでゐるんですが、こんな工合で大変気楽にしてゐますから安心して遠慮しないで、ドシドシ会ひに来て下さい。気の毒だなアなんと思つて、会ひに来てくれないと、返つて僕は怨みます。面白く世間話でもしやうぢやありませんか。その方が面倒がなくていい。それから、いつか見せてやると云つた、貴下の本、生きてる内に一寸拝見させて下さい。今は、なるたけ軽い本が好い。重苦しい固いのは見る気がしない。悪い癖なんだが、どうも仕方がないから困る。
 僕の今の気持でも書いてお見せしやうかと思つたんだが、それも億劫だ、かう云ふと、矢張り気が滅入つてるんぢやないかとでも疑はれるかも知れないが、それは。何と云つたつて、外の人種とは気持が違ふ。しかし、悲観したり、煩悶したりするやうな事は少しもない故、御心配無用。やつておきたい仕事もどうやら片づいたし、何時、お迎へが来ても心残りはありません。この前、一寸その下稽古をしましたね。一度稽古をしておくと、本当の時大変楽なやうな気がします。お蔭で大分いい経験になりました。
 大阪の方は如何してゐるか。久さんはどこで何をしてゐるか。もういつ迄もいつ迄も会へないのかと思ふと淋しい。しかし、かうなるのが僕達の運命だらう。大阪の方の裁判、ここの控訴、二つともよろしくお願ひします。死んだ後の始末もよろしく頼みます。(一四、一〇、八)
      ○
 遺言書を除いては之れが僕の受取つた最後のものである。古田君は僕の最初の-さうして恐らく最後の-死刑囚である。九月十日の判決言渡には僕も立会ふたが、其時は僕も古田君の首を締める一人であるように慄へた。其後は悲観極端意気消沈、もう弁護も諦める。僕は其事を古田君に書いて尚気の毒で怖ろしくて面会に行きにくいと附け加へた。僕が此の呼出状で岩佐作太郎君と駆付けたは十一日の日曜日であつたが、時間に後れて会へなかつた。十二日に都合があつて十三日に近藤憲二君と一所に面会した。古田君が殺られた夢を見たと云ふて飛んで来た加藤一夫君か面会して居た。大阪の死刑囚諸君からも古田君が殺られないか、夢見が悪いと其二三日前に云ふて来た。布施君も前日ソンな話をして居た。其他内の倉地君も古田君の殺られた夢を初めて見たと歎いた。古田君独りが呑気千萬、人の事の様の話振りだつた。が手紙の通り十一月を期待して居たやうだつた。二三日中では困る様な話もあつた。僕も何んとなく切迫の気勢を知つては居たが、まだまだと力づけて置いた。別れを惜しみ話が長くなり、皆に面会に来てくれるようにとの伝言はあつたが、死を怖れ生命を惜む様子はなかつた。僕が『地震憲兵火事巡査』を差入れた時所長に、若し古田君一生の願と云ふ此本を見せなければ、古田君はキツト化けて出ると手紙を書いた、と話したら、古田君は大笑化けて出る様な事も云はなかつた。古田君からは細々と遺稿出版、墓地葬式(僕も公然葬式でも出来る様な話をした)及び死ぬ稽古をした時の話などあつて、かれこれ二時間もかかつた。恐らく之れが古田君と人間との最後の会談であつたらう。(一四、一一、一)
      ○
 校正中に江口君から、古田君を目の当り見る様な原稿を送つてくれたから、僕の書いた『判決の頒布禁止と福田大将』とは組置にする。古田君等の判決は全文が法律新聞に載たのだが、すぐ禁止となつた。
 面会に行く誰でもが古田君から、死ぬに好いのは十月か十一月ですね、と相談しかけられて返答に困つた。
 愈々古田君が化けて出ないと極まれば僕は刑務所長宛で差入た本の取戻訴訟を起す。死ぬ人が一生の願といふのに見せないなんて。(十一月十日校了)
<以上は、本文部分は山崎今朝弥氏、手紙部分は古田大次郎氏(1925年没)が著作者である。>
<旧仮名遣いはそのままとし、踊り字は修正した。旧漢字は適宜新漢字に直した。>
<底本は、『解放』(解放社)第4巻3号96頁(大正14年(1925年)12月1日発行)>
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