片山君の思ひ出


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片山君の思ひ出
          山崎今朝彌
 平澤君が何か書け書けといふが商売違ひで迚も商売にならないから総て遠慮して居た、処が今度は一二段原稿が不足するから是非にといふ。といふて商売人のように直ぐ書ける訳にも行かぬ。幸ひ者共「進め」の北原君に頼まれて片山君の思ひ出を考へた事があるから其筋書によつて之れを書く事にした。北原君からの抗議乃至差止命令若しくは平澤君からの余り長過ぎるとか又は週報は社会主義新聞でないとかの理屈で「御断り」のあるまでは何回も続くかも知れぬ。僕は人を呼捨てするが嫌いで蔭でも日向でも口でも筆でも、君とか君とかを省いたことは滅多にない。まして況や老人とか先輩とか云ふ段になると矢鱈に「さん」を付けなかつた事はない。で、大杉君などが堺が山川がなどと云つたり書いたりしてるのを見ると、何だか厭な気持がして不愉快になる。片山君はもう六十にも七十にもなり丁度僕は孫位の年輩だから片山君在日中僕は屹度片山さん片山さんで通したに相違ない。然るに今はどうも「片山さん」が呼びにくくて困るが何の訳だらうか。
 堺君は初め確に堺さんであつたがコレコソ何時か知らぬ間に堺君になつた、余り懇意になつて了つたせいだらう。大庭君も終ひには大庭君で別れた。鈴木文治君小川未明君などアレで僕より少し若いときいたまでは鈴木さんであり小川さんであつた。(僕は此頃どういふ訳か年の事が急に苦になり出したようだ。)
 幸徳一人は例外で、幸徳堺といふ位だから堺君位の年輩であらうに、僕は初めから精々幸徳君位が関の山であつたように記憶する。其理由はこうだ。僕の友人に[甲野太郎]といふ桑港切つての評判の悪い憎まれ者があつた、かるが故に自然僕が肩を持つ様になつた。先生実際好かない厭の人間だ遂々桑港を追はれてシヤトルへ逃げた。ソコへ幸徳が松村介石の紹介で日本から[甲野]の処へ来たらしい幸徳が桑港へくるとき[甲野]から僕に紹介状を書いた。流石嫌はれ者[太郎]の紹介状だけあつて、文句は忘れたが、此男可愛い男だから面倒を見てやつて呉れと丸で幸徳を小僧扱ひした意味の手紙であつた。よく覚へはないが、僕も当時初めて幸徳秋水と云ふ名を聞いたのであつたかも知れなかつたので、自然幸徳を小僧視して居つたのかも知れない。ソレに英語では誰も均一にミスター幸徳だし、日本に帰ると間もなく僕は甲信を詢ふる為め田舎に逃亡し、幸徳はエンマを征伐するため絞首台に上り逆賊幸徳か又は○○でなければ通用しなくなつた、僕もつい幸徳さんと呼ぶ機会が無くなつたのらしい。
 幸徳堺で片山君の方を忘れて居たが、片山君も之れと似たか寄つたかであると思ふ。今でこそ諸君が片山君を人間の仲間のように云ふが、今迄は誰も片山君とも云つてくれた者はなかつた。片山さんがなどと云ふて話した者は恐らく片山君直系の藤田君鈴木君とお隣の岡君位のものであつたらう。亡命して彼れ是れ十年、此間ガタガタ山、時偶片山君が関の山で僕も何時しか硬化し今では片山さんとは書きづらくなつた。
<[ ]内は仮名>
<以上は、山崎今朝弥氏が著作者である。>
<旧仮名遣いはそのままとし、旧漢字は適宜新漢字に修正した。踊り字は修正した。>
<底本は『復刻版労働週報』(不二出版、1998年)195頁。底本の親本は『労働週報』(労働週報社)第39号1頁(大正12年(1923年)3月13日号)。>
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