義妹を離縁した宮地嘉六君と媒酌人堺利彦君へ送る公開状

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義妹を離縁した宮地嘉六君と媒酌人堺利彦君へ送る公開状」(2009/10/25 (日) 22:57:02) の最新版変更点

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義妹を離縁した宮地嘉六君と媒酌人堺利彦君へ送る公開状       弁護士 山崎今朝弥       ■  宮地君夫婦の離婚問題で、一番貧乏鬮をひいたのは媒酌人たる堺君である。由来媒酌人は貧乏鬮をひくものと昔から大体極まつてゐるらしいが、堺君は此事件で当事者たる宮地君夫婦からよりも、世間一般から、より多く誤解されてゐるらしい。これが即ち僕が特に堺君が貧乏鬮をひいたといふ所以である。この誤解を解くのは僕の義務であり、また僕の外には誰も出来ぬことであるから、この機会を利用して聊か陳弁してみたいと思ふ。  離婚問題の発表された当時、僕は誤報を怖れて新聞記者や雑誌記者に対しては一切口を緘して語らなかつた。それかあらぬか鉾先は堺君の方へ向いて行つた。そして、同氏が媒酌人としてあまりに冷淡で無責任であるといふことを批難をした。  この批難の一半の責は確かに堺君自身が負ふべきものであると僕は推定する-といふのは逸早く読売新聞紙上にあらはれた堺君の談話は、他人が見た場合どうしても無責任と感ぜられても仕方のないやうなものであつたからである。そして、あれは大同小異を以て堺君がほんとに記者に話したらしい所があるからである。しかし、実際のところ、この離婚問題に就ては、僕と堺君が終局まで談じ合ひ、なほ念のため岩佐作太郎君をも相談役に頼み、三人協議の上ですべてを処理したのである。  然らばなぜ堺君があんな話を読売新聞に出したかといふに、僕の考では、僕が消極的にこの問題から新聞記者を避けたやうに、堺君も僕さへ了解してゐて呉れれば世間は何うでも構はぬといふ了簡で、堺君を背景として問題を大きくしやうと企んでゐる記者連の焦点を外らすために、自分は離婚問題に対して別段の関係なぞの無いやうな顔をせられたのであらう。  堺君にはなほ仲間(堺君や僕や宮地君に共通の友人仲間)からの批難がある-この外にも、宮地夫人側からの批難も僕の耳へ入るが、これは宮地君からの批難と同様、普通媒酌人の蒙る損害であるから僕は取りあげて問題としない-その批難といふのは堺君が宮地の性質をよく呑込んでゐながら全部打明けてゐないから悪いといふのである。  堺君は最初から僕に宮地君をエクセントリツクの人だと紹介した。但し僕の妻には、「神経質で少少変つてゐるが極めて正直な人である」と紹介した。愈愈離婚と極まつた時、堺君は頭を掻きながら、「宮地のエクセントリシチイもあれほどとは思はなかつた。坊主になつてお詫びすべき所だが、禿頭で勘弁してくれ給へ」と申訳をした。冗談も交つてゐるが僕と堺君の間ではこれ以上あやまる訳にもゆくまい。僕も気の毒であつたから、「宮地の人物試験は僕の妻がしたのだ、君はその点に就て全然責任はないさ」と答へたのである。  それでは、堺君には媒酌人として少しも落度がなかつたか、これは後の人のためにもなる事だから、少しいつてみたい。  まだ誰にも話した事はないが、堺君は僕に「実は俺も少少仲人口を利き過ぎた、宮地の事をありのまま話してしまへば到底まとまる縁談ではないと思つたから少し隠した訳だ。俺の考へでは双方贅沢をいふ年配でもなし、少しくらゐ厭でも無理でも、押付けてしまへばそれで納まることと思つた。だから結婚前の交際にも会見にも反対した訳さ」といふ話をした。  堺君は僕に宮地君のことを隠してゐたに過ぎないが、先方へは宮地夫人のことを少少吹いたり、掛値したりはしなかつたらうかと思ふ。  宮地君に就て貧乏とエクセントリシチイを打明けたからには他に何も隠したことはあるまいと思ふのに、なほ隠した、仲人口を利き過ぎたといふからには、エクセントリツクの程度を隠したといふことだと僕は思ふ。また前後の事情から考へてもさうらしい。即ち僕も僕の妻も結婚前に交際させることを主張したが、堺君は前の理由で反対し、所謂見合すら之を拒んだ。  斯ういつたからとて僕は決して堺君を批難するものではない。僕が堺君だつたとする。して堺君ほど熱心で深切だつたとする。(よし少しぐらゐ物好きが混つても)、早く嫁きたいに早く貰ひたいである、なあに俺がチヤンと心得てゐる。押付ければ丸く納まるに極つてるといふ腹で、大した嘘でない限り吹いたり隠したりくらゐは必ずするに極まつてゐる。このことは世の道学者的の人からは多少の批難を受けないといふ訳にはいくまいが、堺君と僕となら二人承知の上で喜んでやりさうなことである。       ■  夫婦の一方が厭になれば離れるより外にない。離婚なら早い方がよい。厭になるに理由は要らない。無茶をいふ者が結局勝つ。条件といつたところが結局金の問題だ。金の問題なら無い方が勝つ。すべて本人に任せるより外はない。子供が死んだら何も問題は残らぬ-斯ういつた考へ方に於て、堺君も僕も全然一致してゐる。ただ一つ違つてゐたのは、前にも述べた通り結婚前に二人に交際させるかさせぬかといふ点に於てである。  僕の考へでは、あの時二人に暫時交際をさせて置いたら、結婚前にどつちかで厭になり、離婚せずに済んだらうと思ふ。尤も男女の関係はまた別のもので、二人は交際してゐたが結婚するまでは厭気が出ず、結婚すると厭になつたといふやうなことになつて、同一の結果に到達したかも知れぬから、これが強ち堺君の失敗と断言する訳にもいかぬ。  堺君と僕とは見合も交際もさせないつもりでゐたのであるが、当事者たる本人同志はチヤンと見合を済ましてゐた。この見合のあつたことは宮地君の小説「群像」を読んで始めて知つたのである。僕は最近このことを知つて妻によく訊いてみると、宮地君は是非にとせがむ、妻も見て貰ひたいで僕の留守中、三人内密で僕の宅に集つて見合をしたと白状した。       ■  すべての結婚に満足はない。あるのはただ諦めだけである。好けば好いたで、厭なら厭で猶更無理をいつてみたいは男である。女の強みは子が生れてから、辛抱は子を産むまでである。しかし、これも子を愛し得ない男に会つては勝算はない。宮地夫人は遂に宮地君が子を愛し得るまで辛抱が出来なかつた。そして逃げて来てからも周囲の者はまた駄目を押した。しかし、子は死んだ。その時、問題は既に解決してゐるのである。       ■  宮地君が夫人を嫌ひになつたのは、夫人そのものを好かないからでもあるが、僕に対しての反感も多少の因をなしてゐるらしい。  僕と宮地君とは全然正反対の性質を持ってゐる。僕は宮地君を尊敬することはできても、好きにはなれない。宮地君には結婚前両三回会つてゐるだらうが、僕は少しも親しめなかつた、親類になつてから約一年間、会うたことは三四回、話したことはあるまい。それに僕は生来行儀が悪く、人に話す時は大抵寝転びながら話す、このことは非常に几帳面で礼儀に厚く、人一倍神経質で、エクセントリツクな宮地君に反感を持たせずにはゐなかつたのであらう。  しかしながら、この反感は宮地君がよく僕を了解してくれなかつたから起ることで、僕は宮地君に対してはこれでも充分好意を持つてゐたのである。  僕は生れて以来とまではいはぬが、元来小説を読んだことがない。小説には結論がない、あつても容易に来ない、それで小説は嫌ひである。それが宮地君と親類になるに及んでから堺君に勧められて君の小説を贔負に読む決心をした。決心のみならず何かの雑誌に君が発表した何かを捨てたとか拾うたとかの男の話といつたやうな小説を読んだことがある。そして可なりダメエジを感じたことを覚えてゐる。  僕の家では絶対に酒を用ゐない、従つて酒の道具が一つもない。酒で有名な僕の父は瓢箪持参で来て茶碗だけの借用を申込んだ。妻の父は青森から訪ねて来て、晩酌を外でやつてゐた。然るに、僕はこの憲法を破つて宮地徳利を買求めようといふ妻の発議にイヤな顔をしなかつた。  これらの異例の外、僕は妻の命により、宮地君夫婦のため何時でも堺君の名で御用に応ずべく堺君まで申出て置いたくらゐで、僕の好意はよほど買つて貰つていい訳である。  此の如く僕は寧ろ宮地君に好意を持つてゐたのだが、僕の生来の性質と態度とが宮地君の反感を挑発してしまつたのは誠に止むを得ない次第である。  宮地君夫婦が結婚したのは昨年の二月で、四月始めまでは可なり仲がよかつたやうに思はれる、其頃の宮地君からの手紙にはよく我我夫婦は極調子よく仲よくやつてゐますとの文句があつた。割引しても相当仲はよかつたらしい。四月二十一日に腰越から来た手紙には、私共は喧嘩をしながら仲よく暮して居りますとあるから此頃からチヨイチヨイ始めたものとみえる。  この二人のまづくなつた関係を最後の爆発に導いたものは宮地君の僕に対する反感である。  具体的な最もまざまざとした反感を宮地君が僕に対して懐いたのは僕が不知不識の間に(僕は決して意識的にやつたのではない)口を極めて(宮地君に拠る)加藤一夫君、江口喚君、高畠素之君を褒めた時からであるらしい。  僕に記憶はないが、三人なら或るひは褒めたかと思ふ。宮地夫人に依れば、僕等夫妻がこの月旦をして宮地君の家を辞去すると宮地君は激怒して、「山崎はわざわざ俺の気を苛苛させに来たのだ。高畠の悪党なることと、俺との関係は山崎がよく知つてる筈だ、加藤なんかのことは俺が今にウンと書いてみせる。江口なんかは今に逃避する」といつたさうである。文学の文の字も知らない山崎、何を糞ツ、生意気なと、グツと癪に障つたものらしい。  宮地君は随分偏狂で、結婚後間もなく夫人の時計が一日に一分違ふといつて苦にした。そしてこの時計の購入の世話をした橋浦時雄君に幾回も修繕をさせて皆を呆れさせた。  望月桂君も宮地君に対して憤慨してゐた。それは望月君の妹だか義妹だかを宮地君自身が直接貰ひたいと申込んで置きながら、事実を反対にして小説に書いたといふ原因であつたと思ふ。  そして宮地君は何時でも結婚がこわれると、それを小説にして、その女を悪く書く病があると望月君は附加へた。  宮地君が分らぬ理窟をいふ人だとは堺君がいひ、望月君が話した外、堀清俊君も守田有秋君も話した。  予定内容の半分も書けないがもう下らなくなつて仕様がないから止める。 <以上は、山崎今朝弥氏が著作者である。> <旧仮名遣いはそのままとし、旧漢字は適宜新漢字に直した。> <底本は、『婦人世界』(婦人世界社)第17巻9号45頁。大正11年(1922年)9月号>

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