裁判制度の理想化

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裁判制度の理想化           山崎今朝彌    一、廃止か改善か  裁判制度の起原沿革や他国との比較研究、其他物識りに関する事に就ては他にイクラも適当の人があり、又僕のガラでもないから、僕は貧乏弁護士の一人として貧乏人の立場から、自ら経験体得した裁判制度に対する観察を書いて見る。『法廷より観たる裁判制度』『貧乏弁護士の観たる裁判制度』などが適当の表題であらうか。  戦争は平和の為である。武術は逃げる為の用意である。法律は法律を無用にする為である。然らば裁判は裁判を廃止する為であらねばならぬ。裁判を廃止するには裁判の原因である争の根本を廃止せねばならぬ。我が物、人の物の区別を廃して詐欺泥棒の類を根絶しなくてはならぬ。自分の為め他人の為めの区別を取払ふて、横取り抜け駆けを禁止せねばならぬ。併しソレでは人生に余り曲がない、アヤが無さ過ぎる、マー気永にチヨビリチヨビリそう云ふ事に致さうとあつて茲に改善問題が起る。    二、裁判の社会化民衆化  法律、裁判の社会化、民衆化を口にしない人は今日一人もない。此問題は平たく云へば裁判所がいま少し人民の便利を計れと云ふ事だ。裁判関係者の一番不平不服は蓋し  時間 であらう。裁判所も検事局も書記も判事も検事も、ソレが被告であらうが証人であらうが、原告だらうが被告だらうが、素人だらうが玄人だらうが、時間に就ては更に人の事を考へては呉れて居らぬらしい。呼出しは何でも九時、順序には規律がない、朝から晩まで待つて、明日又来いで、格別の御叱りなきはまだよい方である。コンな事は其局に当る者が少し智恵を出し、気を働かせれば、ナンの雑作はない事である。然るに永年世の非難を受けながらドウしても之れが改められぬは何の為であるか。ソレは即ち官尊民卑の弊たる  官吏の威厳 のハキ違いであらう。兎角今時の官吏は矢鱈に威張りたがつて困る。裁判関係の役人も深く自ら社会の公僕たる地位を自覚し、時間にキチンと出勤し、来た人の順に、又同順位の人多数あるときは迷惑の度合の多少により先後を定めて、ズンズン職務を執行し、延期にでもなりそうなら、早く注意するがよい。優しく出られたり、下た手に出られたりすれば、不平など起るものではない。言葉違ひとて其通り、何も官吏だからとて尊大横柄の言葉を用ひねば其威厳が保てぬ道理がない 座席問題も同一で、僕は検事のみならず判事も書記も、便利の為を除いての外は、刑事々件でも民事事件でも皆、原告証人弁護人等と卓を丸く囲んで、談笑の間に事実の真相を発見すべきものと思ふ。厳しい姿や堂々たる仕掛で裁判を受ける人を威圧するでなければ、裁判の威厳は保てぬもの、被告や裁判に敗けた者はドウしても裁判に心服するものでない、と極めるのは自分の徳の足りない事を棚に上げる者である。    三、裁判官  僕も今年でもう四十何歳と云ふ老人になつたせいか、法廷へ出て、ズラリと向ふへ並んだ判事が余り若輩だと、コンナ若僧にホントの裁判が出来るかしらと云ふ不安の感が湧いて来る。ソウかと思へば又来年か再来年は愈々定年法で退職だと云ふ、大きな声を出せば転びそうな判事にブツカルと、尚一層の情けない不安を感ずる。流石は東京地方裁判所の名判官、テキパキしたものだと感心する中から、其イライラした態度ビクビクした神経過敏を見ると、田舎裁判所の田舎判事に対する様な、ノンビリした尊敬の念が起らぬ、と云ふて時々東京の事件で、地方の裁判所に証拠調の為め出張する事があると、頭の違ふ計りでなく、土地の異ふ為め取扱慣れぬ事件の為めに、其解からぬ事夥しいのに驚ろく事がある、昨日も弁護士会館での大笑ひだつたが、此節は漸く裁判所も人間味が出て、朝憲紊乱事件も公開する、秩序紊乱事件を、公開禁止した例はな□不敬事件も責付を許す、仮出獄を許す世の中に、コレは又ドウシタ事か、田舎と云ふても横浜とあれば都会地だのに、其地方裁判所では数日前に、行政処分の秩序紊乱出版物頒布事件を、何を驚いてか公開禁止で裁判し、剰へ全国画一的に東京初め各地で皆廿日の拘留に処した事件を、何を間違つてか四ケ月の禁錮に処したとの風説がある。由是観之判事にも検事にも上マセの定年法が必要であると同時に、下マセの定年法も必要だ。又コレカラの判検事は悉く相当経験ある弁護士から採用すべきだ。一人前の弁護士になるには二三年の見習を必要とするがよい。裁判所には老年、少年、商事、破産、労働、思想等の外其他色々の特別係を置くべきである。一人が事件を少し宛受持つ為に又調べを完全にする為めに判検事の数を多くする。経費の都合もあるから三級審を廃止して二級審にする。唾八封の様な裁判を三度するより、当になる一度の裁判の方がましだ。一審は凡て判事は一人とする。面倒の事件に限り二人でも三人でも主任判事の好みに任せるがよい。    四、裁判  事実認定 弁護士はよく、裁判に勝つては笑ひ敗けては笑ひ、と云ふ。コレは事実認定の誤り多い事を笑ふ言葉である。判事の方では当人が満足するか否か、事実の真相に触れてるか否か、と云ふ事には余り重きを置かず、只判決が立派に理屈付いてるか、上官や人に見られて非難を受けぬかどうか等にのみ気を取られているらしい。併し之れは大なる間違ひである。今時の裁判はドウせ虚言の展覧会だ、ドツチの虚言がホントの虚言かと云ふ事を見定めるのが裁判官の役目である。然るに間違つた事実認定をすれば、外の事と達ひ事実の事だから、イクラ素人にも間違は間違ひとわかり、ツイ裁判官を馬鹿にし度くなるは人情だ。依て僕は判事にはウント高給を払ふてモツト悧巧の裁判官を集め、一方弁護士等は全然廃するか又は全部官吏(生活を保証すること)にして、民事も刑事も均しく事実の真相を究むるを専一とする事とし、セメテ裁判だけは世の信用を得る様にしたいと思ふ。  証人と宣誓 事実の真相を究むるには証人が偽りを言はぬ様にするが第一だ。処が証人は中々事実を語らぬ、之れには場後れがして事実を巨細に述べ得ない者と、ズウズウしくて偽証する者とがある。前者に対しては成るべく人の少ない所で判事のみが丁寧に訊問すべきだが、後者に対しては誰からでも訊問を許し、ミツチリ油を取らせるがよい。何れにするも現今の宣誓は無意味の様に思ふ。証人の中刑事々件の警察官の証言と来たら当にならぬ事夥しい。と云へば警察官計り、イケ図々しい悪人の様だが決してソウ云ふ訳でもない。誰でも警察官になり犯人検挙に関係し其の事実に付て証人に呼ばれるれば、自分又は同僚又は長官の手柄になり落度にならぬ様極力言ひ張るのは当節である。只無闇に之れを心から信用する係官が薄野にてだと云ふの外はない。豈独り警察官のみならんや。  予審判事や検事の聴取書 と雖も当にならん事がある。勿論此等の人々が悪い心でやるとは云はぬ。併し誰しも自惚はある予断が生ずる、コノ事件はコウでコノ被告はコウだと睨む、睨んだが最後事件を其通りに仕様とする、理屈攻をする、遂々往生させる。検事や予審判事の取調は実は取調でなく申立を聴取るだけだと云ふ事にする外、コウなる事は止むを得ぬだらう。ソコで  陪審制度 の問題が八釜敷くなつて来たが、陪審制度なるものが、自分達の仕出がした事柄や間違は、自分達の事を能く知つてる仲間の者から裁判して貰へると、云ふ事なら至極結構だが、世間で騒ぐ様な陪審制度なら、先づ吾々には無い方がましだ、此間世間に発表された陪審規則の原案によると、国を盗んだり親を殺した大泥棒には、官費で陪審裁判して呉れるが、吾々貧乏人のする小泥棒には自費で金を出さなければ陪審員を付けては呉れぬ。其費用が出せる位なら弁護士を頼む。加之一人の判事に説法したり弁解したりするさへ随分骨の折れるものだのに、尚ワケのワカらぬ多勢の陪審員を口説くのは大仕事だ。西洋の諺には『一人のバカより十人のバカの方が始末に困る』とある。  刑期 『金ちやん事件』と云ふ高師生殺しの弁護をした時、検事は無期懲役を求刑し弁護人は二三年が適当だと論じた。裁判の結果は十三年となつたが、刑事弁護で有名の某弁護士は七年が正当だらうと云ふた、其時傍に居た刑事部長として前の名判官だつた某弁護士は、僕なら執行猶予にすると言ふた、刑期の量定は中々面倒なものだ、一体刑法が有罪無罪の外、執行猶予から死刑迄を判事の一存に任せた事は果して正当だらうか。  未決拘留 は刑罰でないと云ふが、未決中に刑の執行をする処を見ると矢張り刑罰である。其刑罰即ち未決が時には未決の数倍永引く事がある。依て未決拘留は何ケ月以上する事がならぬ法律にするか、又は特別の条件があつた場合の外原則として未決拘留を許さぬ事にするがよい。現今も保証責付と云ふ制度があるが、之れは言論の自由と同様法律の上であると云ふだけで、実際は無いも同じである。即ち充分刑罰を与へた後、予審終結とか、証拠調終了とか判決言渡とかがあつた後初めて漸く畏る怖る許す位のものである。    五、検事局の独立  裁判所裁判官と社会との間に親しみ温みを持たせたいと云ふのが僕の希望である。ソレには世人をして裁判所は無理をせぬ処、話しの解かつた処と云ふ考を持たせるに限る。司法警察官や検事も私利の為でなく社会の為に働くものではあるが、職務上ドウしても恐ろしきものコワイもの敵役のものである。其の敵役が裁判所と一所に居て同じ様な事をして居たでは、何と弁解しても理屈を付けても、人の頭脳には同じ穴の狸としか思へない。依て先づ第一に僕は検事局を全然裁判所と独立させたいと思ふ。即ち役所建物から別にして掛からねば駄目だ。役所が別になれば色々変つた規則が出来て来て順々に裁判所とは別物らしくなる。  検事局を裁判所から独立させる外も一つ警察からも独立させたい。今の処の実際では、止むを得ぬとは云ひ条、検事局は凡で警察の出店である。従つて其処に色々の不都合と弊害とが生ずる。依て警察から司法警察権を取り上げて検事局に直属の司法警察官を置いたら、ホンマに司法権の威信が保てると思ふ。巨細の事は一寸今僕のも考案が浮ばぬが、誰か三人も寄つて相談したら文殊の智恵が出るに相違ない。    六、警察裁判  主として刑事々件に限つた話ではあるが、現今一番多く、裁判してる所は控訴院でも大審院でも地方裁判所でも区裁判所でもなく、警察である。警察では廿九日以下の拘留しか言渡は出来ぬが、数が多いのと矢鱈に出来るのとで、地方裁判所や区裁判所で言渡す禁錮懲役の延日数と警察で言渡す拘留の延日数とを比べて見れば、比較にならぬ程警察の日数の方が多い。即ち□る日本の裁判は裁判所でやるのでなく実は警察でやつてるのである。して此裁判官は司法主任と云ふ巡査部長殿か又はセイゼイ警部補である。規則では拷問も禁じ被告人の陳述も聞けとあるが多くは医者にも見せず被告の陳述聴取書も作らない。一昨日も恰度清水と云ふ警部が藤岡と云ふ十八九の青年を多勢で殴打してる処を見て来たと云ふ新聞があつた。中には言渡もなく拘留を終り、警察を出てから初めて言渡があつたと云ひ聞かされるのもある。此裁判には裁判所へ正式の裁判を求むる申立が出来る事にはなつてるが、事実は誰にも面会は許さず、紙は呉れず規則は教へず、よし正式裁判の申立をしても其申立書を裁判所へ取次では呉れぬ。故に間違つて正式の裁判にでもなれば大概無罪になる。僕の取扱つたのには被告が正式裁判を申立て欠席の儘で証拠不充分として無罪になつたのが今年九月から十二月迄に数件あつた。  故にホンとの裁判制度の改善は、警察裁判の改善でなくてはならぬ。然るに世にはヤレ陪審をどうの、予審をどうの裁判をどうのと騒ぐ閑人はあつても、警察の裁判改良を叫ぶ憂国の士がない。之れは如何なる訳かと云ふに、実は当然の事である。警察へ引つ張られて拘留を喰つたり科料になつたりする程の者は皆スリ、カツパライ、淫売、乞食、労働者、立ン坊、天下無宿の浪人が、学生等が関の山、何れも貧乏人のみの数である、大概無力で諦めるが、ヨシ騒いだ処で誰も之れをカツイで儲けようとする者がない。之れに反して予審や裁判で規則通りの保護を受けてる悪人は皆紳士紳商、高位高官の人達とか又は、社会上相当の地位を有する醜類である。此人達が自分の不便だつた事を、不都合だつたとして所謂有力者と称する仲間に話す。其れではタマラヌと其仲間が騒ぎ出す仲間には連絡がある。新聞がある。議会がある。金がある。力がある警察裁判なんかは人事であるが、コツチの事は自分の事である。ソコで所謂中流又は上流階級の間に少数の所謂輿論が出来る。  輿論は兎も角大多数の人の為めには、警察で裁判する事を絶対に禁ずるか、警察の裁判は執行前一々裁判所の認可を受くる事とするか、被告を裁判所へ呼出して不服の有無を聴く事とするか、何れにするも警察に二日以上置く事を禁じなくてはならぬ。 <以上は、山崎今朝弥氏が著作者である。> <旧仮名遣いはそのままとし、踊り字は修正した。旧漢字は適宜新漢字に直した。> <底本は、社会問題資料研究会編『中央法律新報第二巻下』(東洋文化社)1346頁、底本の親本は、『中央法律新報』(中央法律新報社)第2年(大正11年、1922年)第17号8頁>

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