双谷島小波の部屋

雪返り 後編


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雪返り 後編




「こんな所にいたのか。一言あってもいいんじゃないかな? 狭い村とは言え、二人しかいないんだ。君が一人の時は、必然的に私は一人ぼっちなんだよ。寂しいじゃないか」
「それは悪かったな」

 さらに何日過ぎたか分からない頃、階段の下から祭壇まで見上げる深海に、ぶらりとやってきた鹿島が声をかけた。

「本当に悪いだなんて思ってないくせに」
「それは鹿島も同様だろ」

 長い付き合いをしていなくても深海には分かっていた。鹿島はいつだって人の中心にいて輝いていた太陽みたいな人間だったが、同時に闇夜を一人照らす月みたいな孤高さも兼ね揃えた人間なのだ。
 中学生の時に、そこまでの境地に達していた理由がなんなのかは、鹿島を聞いた深海も知らない。もしかしたら病気が原因だったのかも知れないが、人間はそこまで単純ではないものだ。
 村道は深海の、往路と復路の足跡で踏み固められていた。その足跡を器用に辿るようにして鹿島は向かってくる。着物と下駄を着こなす鹿島は歩き慣れた調子で、悠々と深海の隣に並んだ。

「そんなに見つめたって、機会はこないよ。君が心から生き返りたいと思ったときが、その時さ」

 その指摘はその通りだった。
 積極的な願望は、今の深海にはない。

「……生き返るために、何か代償はないのか?」
「ないね。少なくとも私は知らない」
「それは妙だな。どんな蘇りの伝承だって、人が生き返る話には代償がある。そしてそれが破られてしまうと言うのも定石だ。例えそれが神話でもな」

 イザナギは良いと言われるまで妻を見るな、であったし、オルフェウスは洞窟を抜けるまで後ろを振り返るな、であった。他には生き返るのに別の生け贄が必要とされたり、生き返ったとしても体が腐敗していたりと、蘇りには悲劇がつきものである。結局、急いて覗き見てしまったイザナギは、妻の腐った死体を見つけて逃げ出してしまい、妻が洞窟を抜ける前に振り返ってしまったオルフェウスは、二度と妻に会うことが能わなかった。

「深海くんの場合は、前提条件が違うだろう?」
「俺はまだ、完全には死んでいない……ということか」
「そう。だから生き返るのに代償はいらない。ついでに言うと、死に帰るにも代償はいらないってことだよ」
「黄泉比良坂か」

 深海は自然と、入ってきた坂をそう読んでいた。振り返った視線の彼方には、登った先が霞む件の坂が見えた。あそこに行けば、死ぬ。鹿島の言葉が思い起こされる。
 もちろん神話的な意味での黄泉比良坂ではないが、幽明相隔てるという意味では、同じ意味だろう。

「それに神話の話に代償が必要なのは、あれにはそもそも矛盾があるからだよ」
「矛盾ね……神話に訂正を入れるだなんて、大人げないな」
「私は十四歳だよ。十二分に子供さ」

 ふと横を見てそこにいたのは、鹿島であって鹿島でなかった。正確に言えば、十四歳のあの頃のままの鹿島が居た。身長は少し縮んだ程度。中学の頃から大人びた風貌をしていたからそれほど変わった部分はないよう思えたが、全体的に痩せており、やはりそこにいたのは十四歳の鹿島だった。指に填められた指輪が、笑ったように光った。

「それが本来の姿なのか?」
「さあね。私にも分からないよ。私は深海くんの中の、鹿島雪菜だからね。意識(クオリア)があるのか無いのかも定かじゃないな」
「他人なんて、みんなそんなようなものだろ。誰だって自分の見た世界(マヨヒガ)を生きているんだ。だから俺にとって、鹿島はやっぱり鹿島だよ」
「人はみんな、自分のマヨヒガに夢中——か。相変わらず、深海は冷めているね。だからこの世界には他の人がいないのか。頷けるわけだよ。私はその言葉に喜んで良いのか……」

 そういいつつも、遠くを見詰める鹿島の表情は、まんざらでもないように深海には見えた。

「神話の矛盾はこの世界の矛盾だ。気付けよ、深海くん」
「どういう意味だよ?」
「その意味は自分で考えるんだね。死者は言葉を持たない」
「またそれか。自分が死んでいるからって、その逃げ口上はずるいな」
「ははっ」

 高笑いをする鹿島を横目に、もしかしたら鹿島自身もその答えがなんなのか、分かってないんじゃないだろうか、と思った。ここにいる鹿島は、鹿島であって鹿島でない存在。突然若返った場面からも分かるように、変幻する鹿島雪菜は深海の幻想の産物だ。だから、深海の気付いていないことは、鹿島も口にするわけにいかないのだろう。
 対話の形を取りながらも、自らと向き合い、自らの無知と対面していくこと。

 ——そうか、これが納得……ということなのか。

 マヨヒガも、神話も、事の真相に気付いてしまったら、物語は終焉を迎える。深海はそろそろ決断の時期が近いのかも知れない、とそう感じていた。

               ■

 人の死には二種類あると思う。
 自覚した死。
 しない死。
 鹿島は前者。深海は後者だ。鹿島雪菜は病という形で、日々体を蝕んでいく病魔と対峙し、自らの死と折り合いをつけながら、死んでいった。深海は逆だ。事故という形で、自らの死にすら気付かず、死のうとしていた。しかし、両者は死という一点では一致している。正反対のように見えても、その実、根源は同じなのだ。

 そして死も、人の名前や姿形と同じだ。普通、自分の死を自分で見ることは出来ない。いつだって死と対面するのは他人であり、生きている者だ。それでも幽明を漂う自分を自覚できると言うことは、もしかしたら生と死の境目というのは、それほど頑強なモノではないのかも知れない、と深海は思った。

「お前なら、どうしたかな」

 深海の突然の問い掛けに、縁側に腰掛け足を上下に揺らしていた鹿島が、振り向いた。

「ん?」

 その応えはただの返事だった。しかし、深海もはっきりとした回答が欲しかったわけではなかった。
 深海と鹿島の今の立ち位置が真逆だったとき、鹿島ならどんな選択をするだろうか。
 ……いや、鹿島は似たような選択問題に既に解答していたのか。鹿島にとっては、病気しているときが、深海のこの状況と同様だったからだ。鹿島には選択の数が深海ほど多くなかったのかも知れないが、彼女は折り合いをつけられたのだろう。それがたぶん、あの日の深夜、二人で話した病院前の公園——

 あの頃の自分ならどうだっただろう?

 生きることに何か意味がなければならないと、頑なになっていたあの頃。今だって似たようなものかも知れない。しかし生きる意味にたどり着けなかったにしても、あの日の鹿島との邂逅には、意味があったはずだった。

 だから今は……

「時間だ」
「そうかい」

 世界の終わりを告げる深海の言葉にも、相変わらずの淡々とした返事で鹿島は応えた。

「驚かないんだな」
「そろそろ……だとは思っていたよ。でも、何よりも、雪が降り始めたからな」

 停まっていた君の時間が動き出した証さ——
 ちらちらと庭先に舞い降りてくる雪たちを見上げて、鹿島は白い息を吐いた。目を細めて、家垣の輪郭線の向こうを眺める。雪霞に煙りながらも、薄らぼんやりと光る尾根の稜線があった。蘇りの祭壇があるとされる辺りだ。

「俺が居なくなった後、鹿島はどうするんだ?」
「さてね。日々の雑踏に揉まれる記憶の中で、徐々にカタチを失って雪のように溶けて消えるかな。死者って言うのはそんなもんさ」

 ここにいるのは、確かに記憶の中の鹿島雪菜かもしれない。しかしそれでも、真実の鹿島雪菜でもある。

「折り合いをつけてくるよ」
「いってらっしゃい」

 深海は縁側から庭先に飛び降りると、鹿島に背を向けた。降り出した雪は落ちた先から溶け消えていき、まだ積もらない。元々あった積雪に足跡を付けるようにして、儀式の場所へと向かって歩き出す。

「深海くん。オルフェウスだ」

 去っていく深海の背中に投げかけられる、鹿島の呼び声。

「——振り返るなよ」
「……」

 振り返ることも、返事を返すこともせず、深海は右手を挙げてその場を立ち去った。



「これはまた、もったいぶった演出だな」

 長い石段を登った先に待ち受けていたのは、暖かな光を放つ祭壇だった。鹿島も言っていたとおり、そんなに仰々しい装置があるわけではなかった。山の中腹に設けられた平たい台地に、魔方陣のような模様が描かれており、それに沿うよう光が走査線のようになぞっている。

 降り続く雪の中も、台地の上には雪は積もっておらず、雪形のないむき出しの地面に陣は走っていた。そこから立ち上る光が頭上の雲まで届いており、反射する光で辺りをほのかに照らしていた。
 魔方陣の光に右手をかざしてみると、柔らかな感触が甲と平を覆った。神々しい光と共にみる者を圧倒するその光景には、どこか誘い込むような演出があった。

「やっぱり……な。まぁ、鹿島に言わせれば、これは俺のイメージの産物だからな」

 かざした手を引っ込めて外套のポケットにしまい込むと、深海はくつくつと笑った。立ち上る光に照らされた舞い降りる雪景色は、幻想的だ。きらきらと乱反射を続けるそれは、豪奢な舞台装置であった。

「生きることと死ぬこと。鹿島にとっては、どうだったのだろう」

 いつかの問い掛けに、黙りを決め込んだ鹿島の姿が思い起こされる。鹿島にとっての現世は、つらいものだったのだろうか。そんな素振りは全く見せなかったし、再び問い掛けたとしても、言えないから言わない——などと、狐のように細めた目付きでかわされる事は目に見えていた。
 それでも、

「やっぱりあいつは、一番大事なことを言わない癖があるからな」

 死は彼女の救いになっていたのだろうか。それは推測するしかない。何しろ鹿島は、私の全てを語ったとかぬけぬけと言ったくせに、肝心な病気のことを、あの時の深海には話してくれなかったのだから。

「振り返るな……か」

 最後に深海に投げかけられた一言、死者を自称する鹿島が発したその言葉には、どんな意味が込められていたのか。
 死者を蘇らせるという力を持った祭壇を見上げた。
 折り合いは付けた。
 この光景を目の前にしても心揺るがないと言うことは、深海にとっても、完全に納得がいったのだろうと判断しても良いだろう。
 深海は振り返った。

「この世界の矛盾——考えなかったわけ、ないだろう?」

 そして深海は蘇りの祭壇に背を向けて、石段を下っていった。引き留めようとする柔らかな光の抱擁も、もはや深海には届かない。



「お帰り、深海くん。いや、ここで初めて、さようならと言うべきかな」
「どっちでもいいさ」

 黄泉比良坂の上に立っている鹿島を、深海は見上げた。羽織った着物は白いため、そこからはどれくらい待っていたのかは分からない。しかし、彼女の頭に降り積もった数ミリの雪から、それは見て取れた。

「意外に遅かったじゃないか。本当にこの世界で蘇ってしまったのかと、思ったよ」
「それは俺のせいじゃないな。杞憂というんだ」

 それにどちらかと言えば、蘇りの祭壇に向かって歩き出した深海を、引き留めなかった鹿島の方が人が悪いだろう。しかし、鹿島はやはり肝心なことを言わないからな……。
 お互いに呆れた笑みを浮かべた。
 深海と鹿島との距離は十数メートル。そこまでの距離には、相変わらずの穏やかさで雪が舞い降りている。しかし、彼女の後ろには猛吹雪が吹き荒れていた。
 ともすれば鹿島背後の轟音にかき消されそうだが、不思議と二人の会話はお互いに届いていた。

「いつから気付いていたんだい? この世界の矛盾に」
「いつから——といえるほどの明確な機会は無いな。それにこれは鹿島も言っただろう。徐々に納得していくものだ、って」

 ただし、鍵はあった。幾度となく鹿島が、言内外に示唆していた含意だ。深海自身も知らずに語っていたかも知れない。

「死者が生きているという矛盾。それがこの世界の矛盾だな」
「大正解」

 はっきりとした笑みを浮かべて、鹿島はまばらな拍手を送った。深海に向けたその表情は、とても死者ではなかった。
 鹿島は言った。

 ——そうだね。死んだ人間が生き返るなんて事は、絶対にありえないさ。でもね、深海くん。確かにこの村で人は蘇るんだよ

 死んだ人間が生き返ることは絶対にない。だから現世に鹿島が生き返ることはないだろう。しかし、この村になら死者は生きられる。蘇ったのは他でもない。鹿島だったのだ。
 鹿島は言った。

 ——後は安らかな安寧と共に、自分のカタチを失うのさ。どこかの山奥で、誰にも気付かれないまま降雪し溶けていく雪のようにね。そして地に還ってゆく……

 この村に住む者の終わりは、雪のように溶け消えるという消滅だ。死は訪れない。
 そして何よりも、深海がこの世界の矛盾とは何か、を尋ねたときに彼女は言った。

 ——死者は言葉を持たない

 これはだんまりを決めたのでも、答えに窮したのでもなく、そのままの意味だったのだ。死者の世界が言葉通りの意味で存在していたとしたら、そこにいるのは死者のはずで、言葉を話すことは出来ないはずなのである。
 人々が黄泉の国や死者の国を思い浮かべるとき、そこにはつい、あたかも死者が生きているような姿を思い描いてしまう。それは生者の視点で死者の国を映し見てしまうためだ。しかし、冷静に考えれば、これはおかしいことが分かる。人間は死んだからこそ死者になるはずなのに、死者の国では死者が生きて暮らしているという矛盾。
 神話の中の死者の国も、鹿島の言うこの黄泉の国も、死者なのに生きて暮らしているという矛盾がある。

 つまり死者の国では、生と死の意味が逆転しているのだった。この矛盾を前提にして、死者の国から生者の国にいくことを考える。そうすると、死者の国で生きていることが、生者の国での死ならば、死者の国で死ぬことこそが、生者の国に生き返ること——真の意味での蘇りになるのだ。

「蘇る本人が歩いて蘇りの祭壇に向かうって所でも、気付くべきだよな」
「確かに、それほど馬鹿馬鹿しい行為はないよね」

 死者を生き返らせようとするのは、生者のはずだ。死者が自ら歩いて蘇りの祭壇に向かうなど、これほど滑稽なこともないだろう。これには二人とも笑い声を上げるしかなかった。

「この世界の矛盾は、あの神話の矛盾でもある。オルフェウスもイザナギも、死者の国で自分の妻が生きていることに、まず狐疑すべきだったんだよ。それに気が付かないから、肝心なところで過誤を犯してしまう」

 現し身を十四歳の、あの頃の姿に変容させた鹿島は、同じ口調でそう言った。

「神話に対しては俺が言えることは何もないが、振り返るな——か。あれは生者の視点で死者を映し見てはいけない、という意味だろう?」
「だから生者の国から死者の国を振り返ったオルフェウスは、生者の視点から妻を殺してしまったし、死者の国で死のうとしていた妻を、途中で見てしまったイザナギは、イザナミを殺せなかったんだよ」

 遠い目をする鹿島の瞳が、必ず失敗する蘇りの伝承の数々に、どんな思いを馳せているのか、深海にはとうとう分からなかった。

「深海くんは、やはりこの世界で死に、生き返ることを決めたんだね」
「……」

 深海は返事をしない。この吹雪の先に進むこと。それがこの黄泉の世界で死ぬことになる。それは現実に生き返ることであり、ここにいることが既にその返答になってるからだ。

「あるいは、ここでずっと暮らすという選択肢も君にはあるよ。二人で雪に還っていくというのもそれはそれで綺麗じゃないか」
「鹿島はどうして欲しかったんだ?」
「さぁ、死者は言葉を持たないからね……」

 どんなときも自分の死は、他人のものだ。生き返って欲しいという願いも、生者だけが持てる特権だ。しかし言葉を持たない鹿島でも、その仕草は雄弁だった。右手に填められた指輪が、寂しそうな煌めきを見せた。

「ただ一言だけ言えるのは……私は死んだ。それだけだよ」

 その時の鹿島の表情は、あの日の公園で鹿島が見せたそれと同じだった。

「そうだな……それでも俺は、まだ生きているんだったな」

 ゆっくりと雪が舞い漂う坂を上り、深海は鹿島の前に立った。彼女の背後に見えるのは、乱舞する無数の雪片と灰色の雪催い、その奥に霞む漆黒の闇。この世界の死への入り口だった。ここが境界線。
 鹿島も振り返り、二人は横に並んだ。

「寒そうだな」
「生きるって言うのは、それだけで憂いき事だよ。だから深海くんが蘇りの祭壇に抱いた祝福の光景も、あながち間違いじゃないんだ」
「鹿島はこの先に帰ることは、出来ないのか?」
「出来るけどね。私もまた、この舞い落ちる雪片や、吹き荒ぶ雪結晶の一欠片だから。雪泥鴻爪(せつでいこうそう)……溶けて消えるまで、還ることはできないんだよ。これは摂理だ。だからそんな顔するなよ、深海くん」

 鹿島が掬い取るように仰向けた手の平に、天空からの雪華がしめやかに乗った。

「綺麗な雪の花……。ねぇ、深海くん。雪という言の葉は、『生きる』とか『行く』って言の葉に重なると思わないかな?」

 掬い手を左右に揺らし、拙い雪遊びをする鹿島。

「雪にとって、解けることが行くこと。雪消こそが生きること。解けた雪はやがて雪代になり、新しい生命の苗床を潤す。冷たく凜冽たるように思えても、雪は始まりの形。決して、ただの終わりではないんだよ」

 遊ばれた雪は、やがて鹿島の体温に当てられて消散した。しかし、その上にはわずかな雪解が残っていた。それは手相に沿うよう指の隙間に流れると、月の指輪を滴り落ちていった。

「私の雪形は、望む限り深海くんの心を化粧するさ。そしていつか、ここで雪代に還っても、君の心を潤す身方となるだろう。だから——君も帰るんだ」
「……分かっているさ」
「さようなら。深海くん。振り返るなよ」

 一歩を踏み出そうとする深海。目の前に広がるのは雪嵐。このまま進めば間違いなく、この世界の死をもたらしてくれる雪路だ。まだ後ろに感じられる寂しげな鹿島の気配。しかし、これ以上行くなら、今度こそ本当に振り返れない片道になるのだと、深海は悟った。
 だからここで、深海は振り返った。

「おいおい、深海くん?」
「戻るつもりはないさ。ただ、忘れ物がな」

 そして深海は鹿島の手を取り、彼女を引き寄せると——

               ■

 真っ暗だった。
 目蓋を開こうとしても、まるで鉛の錘をぶら下げでもしているかのように重い。体中を支配する気だるい感じから推し量って、それだけ自分が疲れているのだろうと深海は結論づけた。
 両手足を動かそうとしたら、今度は鈍い痛みが体内を駆けめぐった。怪我をしているのだろう。それも程度の大きい傷、重傷にあたるものだ。しかし、感覚はあった。脳を刺激するこの鈍痛は、生きている証だ。続いて漂ってきたのは消毒の匂いだった。慣れた匂いではない。しかし深海の今いる場所を当てるには、十分な材料だった。ここは病室だ。

 ——生き返ったのか。

 安堵するわけでも、悲嘆に暮れるわけでもなく、深海は漠然とそう思った。
 端から見れば、死にかけていた人間が生き返った、とそれだけのことだろう。奇跡的な復活と騒がれる出来事ではあるかも知れないが、深海が視た世界、深海がいた世界について語られることはない。
 深海自身、あれはもしかしたらただの夢だったのかも知れない、との思いを抱かないわけではない。
 しかし——

「いや、死に帰ったんだな……」

 深海は呟くように言い、目を閉じたまま笑みを浮かべた。握りしめた右手に残る感触が、心地良いものだったからだ。ただ、こんな体の状態で、うまく声を出せたのか、笑うことが出来たのか、それは自分では分からなかった。
 気怠さを吹き飛ばすように、深海はもう一度ぐっと右手を握りしめた。右手が痛みを訴える中、そこには確かに、最後に鹿島から抜き取った月の指輪があった。
 別れの際に振り返った深海は、彼女から指輪を奪ったのだ。最初は戸惑っていた鹿島も、納得のいった表情を浮かべると、お得意の皮肉げな様子で、それを深海の指に填めた。そして鹿島は深海を送り出したのだ。——最後は笑顔で。

 ——鹿島も言っていたしな。黄泉の国とマヨヒガは、もしかしたら同じようなものなのかも知れないって。

 例えば……そう、例えばあの村が、本当にあったマヨヒガだったとしたら。バスの事故で山中に投げ出された深海が、彷徨い歩く内に迷い込んだ、マヨヒガだったとしたなら——一つだけ、マヨヒガにあるものを持って帰れるのは、昔から許された決まり事だ。

「……」

 再び目蓋を開けようとする。今度はすんなりと開いた。ぼんやりとした視界が、次第に焦点を結ぶ。辛うじて見えたのは、それでも暗い世界。
 夜だった。
 落とされた照明。暗い帳に翳りながらも分かる、白い天井。予想通りの病室には一筋の光が差し込んでいた。カーテンの隙間からわずかに零れている。
 窓際に位置するベッドの足元に、その光はちらついていた、
 その光がなんなのか知りたくて、軋み音すら立てそうな腕を何とか動かし、深海はぎこちなくもカーテンを開いた。
 そして深海は見た。

 満月を。

 差し込む光が、深海の手にする指輪を煌めかせた。
 その光は、あの日に公園で鹿島と見たものと同じ。思い出すのは、星の瞬く広い夜空。自然に還った緑の公園。肌寒く新鮮な空気で満たされたあの空間。全てを照らし出した月の光。
 雲に閉ざされた雪返村では、決してみることの出来なかった光だ。
 しかし深海は知っている。どんなに厚い雲に覆われてたどり着けない場所だったとしても、その雲の上にはいつだって月は輝いていることを。
 だから……

 ——思ったんだけどな、鹿島。
 ——もしかしたら、生と死の境目ってのは、それほど厳密なものじゃ無いのかも知れない。
 ——死ぬことと生きることっていうのは、鏡に映したような対立したものじゃなくて、もっと曖昧な、混じり合ったようなものなのかも知れない。
 ——雪解け水が、やがて生命の苗床になるように、死んだ者が巡り回って生きるカタチを持っても、何も不思議なことはないんだ。
 ——俺たちは生きる意味だとか、死ぬ意味だとかを考える前に、もっと気楽に生きて良いのかも知れない。
 ——だからな、鹿島。

「ただいま」

 ——おかえり。
 まるで生者のような鹿島の声色が、耳朶をくすぐった気がした。

終わり