双谷島小波の部屋

雪返り 中編


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雪返り 中編


 出立し、鹿島の言うとおりに歩を進める。沈みかけの夕日が、長い影を雪上に映した。村の中は驚くほど静かであった。空に夕暮れの代名詞である鴉の鳴く声は無く、地に伸びる人影は深海だけである。
 そのあまりの静けさにふと妙な感じを覚えた深海だったが、無理もないか、と思い直して襟元に顔を埋めた。峠の猛吹雪は、数刻前までこの村にも吹き荒れていたのだろう。皆、自分のねぐらで羽根休めしているのだ。
 ざくざくと新雪を踏み分ける深海の足音の他、辺りには時折、屋根の上に積もった雪が、崩れ落ちる雪垂(ゆきしず)りが響くのみであった。

「——ここかな」

 小さな村だ。それほど時間を要することもなく、深海は指定された階段の下へと辿り着いた。小高い山に沿うようにして伸びる段差の先は霞がかっており、頂上は見えない。見た目、恐らくは二百段以上ある。特に立入禁止の表示があるわけでもなかったが、登るのは止めておこうと判断した。鹿島の忠告もあったが、この先から何か近寄りがたい気配を感じ取ったからだった。

「しかし、こんなところで儀式を行うのか……なんか不自然だな」

 神卸や祈祷などの重要な儀式を高所で行うというのは、それほど珍しいことではない。高い場所ほど天に近く、より神の恩恵を承れると考えるためだ。しかし、この蘇りの儀式の性質を考えると、一概にそうは言えないのではないかと深海は考えていた。
 死人を生き返らせるという行為は、どちらかというと神の御技と言うより、その摂理に反する行為である。それはこの国にはあまり馴染みがない。蘇りをそのまま許容する西洋の思想と違って、特に東方では輪廻転生の考え方が根強いためだ。

 これは例えば西洋では、キリストが最後の審判の日に蘇り、全ての人間に審判を下す預言や、勇ましく戦った戦士は死後にヴァルハラへと導かれるといった、生と死の二項対立を取るのに対し、東方では死人は地に還り、新たな生命の糧となるという循環を据えていると言うことである。
 ともすれば蘇りの儀式は、神事に背くと言われてもおかしくない儀であるから、その実行は高い山もとなどの目立つところではなく、屋敷の奥や地下などの目立たない所で行われるのでないかと、深海は考えていた。この儀式がある場所は、ちょうど村の入り口である坂の対面にある。例えこの村自体が隠れ里の様相を為しているにしても、この位置は目立ちすぎるのである。

「それに——」

 人が生き返るという衝撃的で影響力のある儀式ならば、歴史的に見ても政治的に考えても、その実行をする者は村の支配者となっていなければおかしい。そして実行地はその一族に直轄され、秘奥とされているべきだろう。
 しかし、村を一通り見たところ、一番大きな家屋はあの鹿島の家であった。ならば鹿島の家がその儀式を行う一族なのかというと、見たところそうではないようだ。先ほどの鹿島の家は、この儀式の場所から離れすぎているし、管理している様子でもない。何より鹿島の家は確かに大きいが、あくまで雪返村の規模と比べての話であり、儀式を代々取り仕切ってきたと言うほど、立派すぎる家というわけではないのだ。
 深海は振り返り、改めて雪返村を見渡した。

 ——この村、なんかちぐはぐだな。

 現代に相応しくないくすんだ木造の家々。一つしかない坂の上の出入り口。その対面にある、小高い山の上に設けられた儀式の祭壇。そして蘇りほどの儀式を行うにしては、小さすぎる村の規模。寄せ集めたジグソーパズルを無理矢理繋ぎ合わせたかのような、歪で不格好な形だ。そもそも、それほどの儀式が一般的に全く伝わらず、話題にもされてこなかったこと自体がおかしいのではないだろうか。
 それはあたかも、湖中に漂う場違いなミミズが釣り餌のように、この儀式自体が誰かの興味をひくように取って付けられたかのような——

 その誰か——

「馬鹿馬鹿しいな」

 頭に浮かんだ考えを、深海は一蹴した。深海が蘇りの儀式を鹿島から聞いたのは、中学時代であり、さらに深夜の邂逅という偶然の産物だ。そんな想い出の彼方から掘り起こした記憶であるのに、儀式が作られた偽物な訳があるまい。
 よれた上着を着直して、深海は再び鹿島の家へと帰途につくことにした。
 気がつけば思索に耽っていた時は意外に長かったようで、日は既に落ち、頼りにしていた夕日は一片も残らず、山の彼方へと沈んでいた。しかし、どうやら蛍の光云々は、やはり鹿島の冗句だったらしい。代わりに村の民家から漏れる灯りが薄暗くだが雪に照り返り、何とか歩くのに苦労することはなさそうだった。

 ——やはり見えないようでいても、住んでいる人はいるのだな。

 何を当たり前のことを、と深海は軽く自嘲し苦笑をしたがその場で、はたと立ち止まった。そして、背を向けていた階段の入り口を振り返り、再び視線を前に向け村を見渡して、深海は愕然とした。

「これはありえない」

 深海は気付いた。
 村にとって重要で守秘すべき儀式の祭壇に、部外者である自分が立ち寄っても、何も咎められなかった現状。それは、普段から寡黙で仏頂面の深海を唖然とさせるほどの事実であった。
 こうして突っ立っている今も、深海に問い掛ける影は終ぞ現れない。それどころか、深海に対する視線すらない。深海は一人鹿島の家を抜け出した後に感じた、妙な感覚を思い出していた。

「そうか。違和感がないことが、違和感だったのか」

 地方という、より村社会が残る場所ほど、部外者に対する空気は冷たい。それは隠れ里のようなこの雪返村でも、本来なら同様のはずで、一人村中を彷徨く深海に対して、向けられる視線があって然るべきだったのである。にもかかわらず、鹿島とこの村を訪れてから今まで、そんな視線を感じられなかったことが、深海の心にしこりとしてあった違和感だったのだ。
 これから向かおうとしていた復路を見通す。そこにあるのは未だに往路として残してきた、深海だけの足跡だ。バスを降りて鹿島と歩いた山道を思い出す。真っ白な新雪を踏みしめる感覚。

 ——その道に、先行く足跡はあったか?

 そして深海はその感覚に励起されるように、次々に疑問を思い返していった。
 二人きりの車内。バスに運転手はいたか?
 見かけない人影。村人全員が家の中に閉じこもっていたのか?
 薄暗く光る障子。何故、動く陰がない?
 家人が居ないはずなのに、点いていた玄関灯。暖かい部屋。

 ——お前は俺と一緒にこの村に来たのに、誰が茶菓子を用意していたんだ? なあ、鹿島?

 見渡す民家。漏れる橙色の光。夕暮れ時には無かった灯りだ。灯が入ったと言うことは、確かにそこに人はいるのだろう。訪れてみればいい。覗き見る目、不審な視線すら今は有り難いだろう。しかし、それで、もし、何も反応がなかったら……
 背筋を這うような怖気に、身をぶるりと震わせた。

「……とにかく帰ろう」

 深海は足取り早く、家路を急ぐことにした。ざくざくとした足音だけが、村の中に響き渡る。慌てても転ぶことはない。雪国の歩き方は心得ている。兎に角、あの木造の家に戻ることだけを考えて、深海は足を動かした。少なくとも、あそこには鹿島が居る。

 ——深海くん、人は所詮一人だよ。

 昔、そんな風に斜に構えた彼女の表情すらが、今は恋しかった。
 そして辿り着いた家屋。雪が高く積もる瓦屋根に、焦げ茶色をした家垣に、深海はどこか、我が家に辿り着いたかのような心地になり、軽く安堵した。開かれた門の先には、どこか懐かしさを感じさせる暖かな玄関灯が見える。その先に行けば、すぐにでも鹿島に会える。
 見慣れた門をくぐり、足早に深海は家の中に、

 ——見慣れた?

 ここで深海は、我に返ったかのように立ち止まった。初めて来たはずの鹿島の家を、懐かしい、見慣れたと感じる自らの意識(クオリア)。それは今までの薄ら寒い気分を、完全に吹き飛ばすかのような風向きで、深海の心を染めた。
 引き返し、くぐった正門を抜けると、深海はその木壁をまさぐる。吹き付けられた雪に覆われた部分をはたき落とすと、果たしてその下からは、朽ちてくすんだ色をした一枚の表札が現れた。
 年代は古く、彫られた溝はすり減り、一見しただけではそこに書かれている文字は見がたい。しかし、徐々に目の焦点が合い、溝に食い込んだ雪片がはがれ落ちると、彫られた名字が浮き上がってきた。

「……深海(ふかみ)」

 そこには紛れもない「深海」の文字があった。


「おや、深海くん。お帰り。意外に早かったね」

 襖を開き欄干を潜った先、座敷の中に鹿島はいた。座布団の上に行儀良く座し、寛いだ様子は、深海が外に探索しに出たときと何ら変わりはない。恰好こそ部屋着に着替えたためか、洋服から和服へとなっていたが、そのままの有様でにこやかに笑っていた。

「ふふっ、似合うかい? 勝手だが身を飾らせてもらったよ」

 白無地に銀のラメで、雪結晶の刺繍を施した着物。猫手にその袖口をひらひらと揺らし、見せびらかすかのような態度に安心も抱くが、しかし聞かざるを得ないことがあった。

「鹿島、ここはどこなんだ」
「雪返村さ」
「そうじゃない。気付いたんだ。いや……思い出したと言っても良い。最初に鹿島とこの家を見上げたときの違和感。あれは既視感じゃない、未視感だったんだ。見慣れた家のはずなのに、初めて見たような錯覚を覚えた——だから違和感だったんだよ」
「じゃあ、この屋敷は誰の物なんだい?」
「この建物を俺は知ってる。ここは——俺の故郷にあった、実家だったところだ」

 おかしな事を言っている自覚は深海にもあった。一笑に付されても不思議もない言動だ。しかし鹿島は薄ら笑いを、その口元に浮かべるだけで、深海の言葉を阻まなかった。

「しかしそれはあり得ない。そこに俺が居ることはあり得ないんだよ、鹿島。なぜなら実家のあった村は既に……水の底なんだ。この世にはないんだ」

 そう。深海の故郷であった三谷村は、既に地図上から姿を消した廃村だった。地形の利を指摘され、治水工事地の候補地とされたその村は、住民に幾ばくかの補償金を渡すと、予定通りの日にダムの底へと沈んでいったのだった。綿々と続いてきた村の歴史も伝承も、全てを飲み込んで。
 言いながら、事の次第を思い出す深海。

「そうだ。俺はここに、蘇りの儀式を調べにきたんじゃない。俺が卒論にしようとしていた題目は、消えていく地方伝承の系譜だ。それを調べるために、消えた三谷村をもう一度この目で見ようと、俺は一人バスに乗って、山奥に入って……」

 道をはみ出た対向車。滑るバス。
 落ちていく車。意識を失った深海。
 青い顔を浮かべる深海に、鹿島は溜息をつく。相変わらず笑みを浮かべていたが、それはどこかしら観念したような、乾いたような笑いだった。

「やれやれ。慌てて思い出すのは心に良くないんだ。時間は山ほどあるんだから、ゆくりと追憶すれば良かったのに。ここはそういう場所なんだから」
「そうだよ鹿島。俺が君と二人で旅行に来るはずがない。君は中学の時、確かに死んだ。喘息で田舎に移っただけだと? 馬鹿を言え。それが、分からないはずがない。君が本当に死んだから……死んでしまったから、あんなにも君は俺の心に……君は死んだんだ」

 例え深海が人付き合いから遠ざかっていて、大事なことを直接知れなかったとしても、あの時教室の隅から見た、鹿島がいなくなったことで泣いていた同級生の涙は、本物だったはずだから。

「鹿島、ここはどこだ?」
「言ったろう? 既に分かっていることを聞くのは、今更と言うんだ。例えそれが、言質だとしてもね。死んでいった者と会える場所など、二つしかない。さらに言えばその二つは同質でもある」

 肩をすくめる死人が浮かべる顔は、十分に生者だった。

「しかし答えようか。ここはね、深海くん。黄泉の国さ」


 黄泉の国。
 知らない場所ではない。無論知識としてだが。死後の世界を生者が思い描くとき、天国地獄と並び、真っ先に挙がる候補の一つだ。それを告げる鹿島の言葉には、不思議と信頼感があった。だから深海も疑う気になれない。この水泡に帰したはずの屋敷の存在こそが、あり得ないことの証左だからだ。
 伝え聞くところによる黄泉の国。そこに鹿島がいて、自分が居るという現実。

「俺は死んだのか……」

 本来なら驚愕の事実を告げられつつも、先ほどまでとは打って変わって、深海の心は静まっていた。不安の度合いはさっきまでの方が大きい。知らない、ということに最上の恐れを感じる。深海はそうした人物であった。

「流石だよ深海くん。もう落ち着いたのかい。まぁ、そういう場所とはいえね」

 語る鹿島の言葉に含みはない。素直に感心しているようだった。

「そういう場所?」
「黄泉の国というのは、あくまでこの世界の一面を指した言葉でね、死者が居ること、それ自体ではこの世界の存在理由にならない。だからそうだな。名が体を表すように、理由を先立てて、言葉遊びをするなら、ここは様子を見る国……様見(よみ)の国さ」

 黄泉ではなく様見の字を、鹿島は虚空になぞった。

「突然の死を迎えた人物は、自分の死に気付かない人も多い。深海、君のようにね。または気付いたとしても、受け入れない奴もいる。そうした人間が自らの死と向き合う場所。それがここさ。だから様見の国とでもいえるわけさ。黄泉の国であるけど、冥府ではないんだよ」

 鹿島の言う冥府は、いわゆる聖書的な意味での冥府だろう。死者が向かえど地獄ではない場所。生者と死者の世界の中間で、あらゆる人間が最後の審判を待つために保留される世界のことだ。

「概念どおりの冥府があったら、そこは死者で溢れてしまうだろう、さぞかし騒がしいだろうな。はは」

 その言葉に、この場所にたった二人しか居ないことに対する、皮肉が込められているように感じた深海は、苦い顔をしたが、同時に疑問もわき上がってきた。

「じゃあ君は何なんだ」

 例えばここがそのままの冥府であれば、鹿島がいることもわかる。鹿島は死んだからだ。しかし鹿島は冥府ではないという。

「私は鹿島さ。ただし、君の中にいる、ね」

 座ったまま髪を軽く梳いた鹿島は、続く仕草で、深海の胸を突くように指さした。

「ここに来た人は本来、生前に身近だった人に囲まれるはずなんだ。その中でゆっくりと自分の死に向き合い、悟っていくはずなのさ。家族とかね。しかし、君がその役目として思い起こしたのは、私だ。正直驚いたよ。しかも居るのは私だけ。私はそれを誇りに思っていいのか、他に気の置けない人が心に存在しない君を不敏に思えばいいのか……」
「ほっとけよ」

 今度こそ言葉だけでなく表情にも皮肉めいたものを浮かべた鹿島に、深海はそっぽを向いて応えた。
 確かに、今思い返してみても、鹿島の言うとおりならば、この世界にもっとも相応しいのは、鹿島を置いて他は居ないかも知れない。そこには恋愛感情も肉親の情もないが、過不足無く鹿島との想い出は、心に根付いた大切なものだからだ。

「それで、この世界の理由を満たした俺はどうなるんだ?」

 鹿島の言うとおりならば、深海は死者であり、かつ、そのことに気付いてしまったものだ。生きる理由はなくとも生者は存在自体が存在理由だが、死者についてはそうはいかないだろう。

「どうにもならないよ。いっただろう、時間はあるって。本当なら自分の死と向き合ったものは、ゆっくりと消えていくんだ。これは摂理さ。体を持たない魂は、必ず納得をする。そして我が侭では、納得は覆らない。後は安らかな安寧と共に、自分のカタチを失うのさ。どこかの山奥で、誰にも気付かれないまま降雪し溶けていく雪のようにね。そして地に還ってゆく……」

 深海は両手の平を開き、見詰める。天井からの灯りが、ゆらゆらとその手を映していた。世界と明確に切り離された自己の存在。区切られた自分という名の境界線。あるべきはずの手の輪郭が、時折ぼやけたような錯覚を見た。これが納得の段階なのか、そう思った。

「しかし、深海。思い出さないかい。君は何をしにここに来たと思っていた?」

 何をしに来たか——理由は二つある。一つは現実の理由。水没して消えた故郷の伝承を系譜にすること。しかしもう一つの、この世界の理由では——

「そう。実は正確には君はまだ死んでいない。半生半死。幽明境を移ろい漂う存在。現実の君がどういう状態なのか私には分からないけど、君はまだ、生きかかっているんだよ」
「その為の割り込み。その為の儀式なのか」

 深海はこの雪返村のちぐはぐさを、頭でなぞっていた。どこかで見た景色、食い違う光景、取って付けられたような世界観。得心するには真逆の違和感が存在する訳に、漸く辿り着いた気がした。

「しかしまだ、その時期ではないんだよ。生き返るか死に帰るか、決定する時間はまだあるんだ。これは思慮ではない納得の問題なんだ。時期がくれば、他ならない君には分かるだろう。だからゆっくりすればいいさ」
「時期が来れば……ね」
「ところで、深海くん。お腹が空かないかい?」

 空いた。
 瞬間、鹿島の背後にある襖が独りでに開いた。
 そこには、今まさに作られたような夕食が、湯気を立てて並んでいた。

「ま、こんな感じにね。言っただろう。食事の時間は、君自身が決めるんだ」

               ■

 時間はあった。
 鹿島は納得の問題だと言った。つまりは深海自身の、心の折り合いの問題だと言うことだろう。理由は分かっていた。深海も自分が生きる理由に乏しいものだと知っていた。生きたいと言うほど生に魅力を感じず、死にたいと言うほど死にも理由を見いだせなかった。生者の世界ではそれでも良いのかも知れない。そこは他者に理由を見つけられる場所だから。しかし死者の世界では、自らに理由を探らなければならない。
 直ぐに儀式に喚ばれるということもなく、それから何日か、何事もない平穏な時間が流れた。

「自由にするといいさ、ここは君の雪返村だ。おっと、しかし入り口の坂は上るなよ、あそこは真逆。行ったら本当に死んでしまうからね、ふふっ」

 記憶を取り戻した深海は、鹿島の示唆を受けずとも、自由に屋敷や雪返村を歩き回った。家はもともとの実家だ。幼い頃の記憶ながらも、勝手知ったる間取りであったし、内装品は必要なときに常備されていて、不便はなかった。

 雪返村もどこか心を落ち着かせる場所だった。初日に感じた違和感は訳を知れば、既に溶け落ちてない。凍てつくような寒さも、雪国で暮らしていた深海には慣れ親しんだものであり、かえって心地よい。人気のない寒村も、深海の好きな一人夜の静けさと同様だった。
 そこは確かに、死んだ場所には違い無かった。体を突き刺すような寒気と、心を突き刺すような孤独だけがある場所だ。しかし、深海には分かる。深海にだけ分かる、ここには別の温もりがあった。

「ここの雪はね、優しい雪なんだよ。生きていた時には冷たい経験も、振り返る頃には、よき思い出になる。そんな君の、心の雪だからさ」

 郷家であった屋敷内には、小さいながらも図書室があった。本が好きな深海が、幼い頃から羨望を抱きつつも、大きくなったらと言われ、ついぞ来られなかった場所だ。
 屋敷全体からすると場違いなほどに西洋風な部屋で、背椅子にもたれかかりながら、深海は本を手にとった。本棚から気の向くままに偶然取り出したそれは、「昔語り」という日本各地の伝承を記した書物であった。

 ぺらぺらと古臭く擦れた匂いのする頁を捲りながら、深海はお茶を口にした。
 鹿島は窓辺に席を置き、掛けられた等身大の鏡に向き合いながら、銀櫛で髪を梳いていた。白い着物に施された銀の刺繍が、万華鏡のように輝いていた。右手に煌めくのは、あの日に語った月の指輪。それが太陽のように輝き、光っていた。
 反射するのは光。窓から差し込むのは、柔らかな光であった。

「なんだか……黄泉の国にいるとは、とても思えないな」
「またその話に立ち返るつもりかい、深海くん」
「そうじゃないさ。自分の置かれた境遇、それについては十分納得してる。それとは別に、この世界は……そうだなマヨヒガに迷い込んだような気をさせる」

 死を感じさせる冷気が外に渦巻いていても、窓辺に差し込んでくるうららかな日差しを体で感じれば、黄泉の国とも思えない。それにお腹がすけば出てくる食事、寛ぎたいときに現れる茶菓子などを考えれば、その不可思議さをマヨヒガと映し見ても、深海を咎める者は誰もいないだろう。

「マヨヒガ……迷い家か。確かに道理だね。あれは元々、裕福だが忌み事を為す隠れ里を指した、という説もあるくらいだし、この村にそれを重ねても不自然はないね。しかしすると、私は狐が模した美女か何かかな」

 口元を隠して忍び笑いをする鹿島に、深海は肩をすくめたが、自分を美女と言うほどの凄みは鹿島には十分にあるな、とも思った。

「確かに、黄泉の国もマヨヒガも、その起源は同じなのかも知れないね。昔の人にとって、山には入ること自体が禁忌だったから。山は畏れ敬うべき場所で、その山中は既にこの世ではなかったんだよ。だから死者の国を区別して悪く言うのは、聖者の傲慢さ。死が救いになることだってある」
「鹿島はどうだったんだ?」
「ははっ。私は死者だよ。死者は言葉を持たない」
「……生きていれば、辛いことぐらいいくらでもあるからな」

 軽く笑いながすように見えて、暗に黙秘を示した鹿島に、深海はそれ以上聞くことを止めた。
 例えそれが、輝いた生を送っていたかのような鹿島であっても。そんなものは、深海が捉えた鹿島の偶像に過ぎない。住む場所が天国か地獄かを決めるのは、いつだって自分自身だ。

 ——あの日の公園での鹿島は、どんな表情をしていたかな

 思い出そうと記憶を探ったが、辿り着くことは出来なかった。

「オルフェウスもイザナギも、どうしてその場で一緒に暮らすって選択をとらなかったんだと思う?」

 こちらに視線を移すことはなかったが、鹿島が深海の読む神話について言及しているのは悟った。
 開かれた頁は、イザナギとイザナミの項。古事記から転記されたその部分は、現代語訳されたと言っても、漢字とカナで構成された書き下し文みたいな文体だ。無論、専攻している深海には読み慣れた文体でもあったが、わざわざ読み直す事もない。その内容なら、日本人の八割は知っているからだ。
 妻を失って悲しみに暮れた夫(イザナギ)が、死者の国に行って妻(イザナミ)を連れ戻そうとするが、決してしてはならないと言われた禁忌を破ってしまい、失敗する話。オルフェウスの方はギリシャ神話だが、似たような話だ。

「そんなに妻を愛していたんなら、連れて帰らずとも、そこで一緒に暮らせば良かったんだよ」
「中々斬新な意見だな」
「そうかな。今の君がそうだとは思わない?」
「俺は鹿島を連れ戻しにきたわけじゃないから、同列には語れないさ」
「それもそうだね」
「神々の辿り着いた死者の国が、この雪返村みたいなところだったら、あるいは——なんじゃないのか。人は自分の見たい現実を見る。神だってそうじゃないとは限らないさ」

 鹿島は髪を梳く手を止めて、深海を見据えた。
 今度は深海がその視線をあわせず、言葉を続ける。

「——それにあえて、らしく言うなら、死者の国で一緒に暮らさなかった理由は、神には視点がないからだよ。神に名前を付けて作ったのは人だ。人が神を見るとき、常に生者の視点で視る。『神といえども生きている以上、生者の国に戻ってこなければならない』という無意識がそこにはある。だから、死者の国から語ることはできないんだ」

「それはさきほど、だんまりを決めた私に対する皮肉かな?」
「お好きなように」

 忌ま忌ましげに顔を歪める鹿島の反応に、深海は苦笑を浮かべた。