シーン「家(朝)」
……なんだか、変な夢を見た。
目の前に霞がかかったようで、どうにもはっきりしない。
目に見えるもの、視界さえもがすべてぼやけて見える。
……家にいるときはいつもこうだ。
頭にも変なフィルターが張られたようで、何も考えられなくなる。
……そもそもあれは、本当に夢だったのだろうか?
一人でご飯を食べ終わり、私は外に出た。
シーン「玄関(朝)」
鞄を片手に玄関に立った。
家から出て、ようやく頭がはっきりとしてくる。
そうだ……私は佐倉琴生(さくら・ことみ)だ。
琴生「——行ってきます」
返事はない。
家の中には誰もいないのだから当然だ。
みんなどこかに行ってしまった。
七月——夏の初め。
少し早い文化祭の準備に、学校は忙しい。
部活をやっているわけじゃないけど、少し早くに登校をする。
私には行きたい所がある。
鞄を手に下げて、私は家を後にした。
シーン「登校中」
………。
外は雨が降っていた。
なま暖かい風に乗った、ぬれたアスファルトのにおい……
あまり好きではないけれど、体にはすがすがしい。
血のように赤い傘を差して、私は足を進める。
琴生「はあ……」
今日は木曜日。
ただの平日。
だから学校に行かなくてはいけないのだけれど、とても気が重い。
毎日毎日が同じ繰り返しで、何のために学校に行っているのか、時々わからなくなるときがある。
私の通っている学校は、地元でも結構な進学校で、頭のいい人達が多いところだ。
だから当然、みんな勉強をするために行くのだろうけど、他の人達には別に楽しめることがたくさんあるから、普通に通えるのだろうと思う。
部活で汗を流したり、仲のいいグループで一緒に昼食を取ってみたり、雑談をしているだけでも面白そうだ。
……でも、私はそういうことを楽しむことができない。
部活動もやっていないし、仲のいい友達もいない。それどころか、話しかけてくれる人すらいない。
佐倉琴生は嫌われているわけではないと思う。
だけど私は昔から人と協調したり笑い合ったりするのが苦手で、みんなにとけ込んでいくことがうまくできない。
学校に行っても、本当にただ勉強して帰るだけ。
誰とも口をきかない一日もある。
だから正直、学校に行くのはつらい。
授業自体は大したことがなくても、通うこと自体が時々拷問のように感じられることがある……。
琴生「ふぅ……」
……それでも行かなくてはいけないのだから、仕方がない。
落ち込んでいても観念するほかない。
それに……最近はちょっとした楽しみもある。
シーン「交差点」
………。
しばらくして、交差点に出た。
通学路ではここで右に曲がるのだが、私は構わず真っ直ぐと進んだ。
……学校へ向かう道ではないからか、重々しかった足取りが、自然に軽くなっていくような気がする。
代わり映えのしない私の日常に、最近ちょっとした変化が表れた。
……私には行くべき所がある。
今向かっている先には、一匹の子犬がいる。
生後五ヶ月くらいの小さな犬で、三角に切り立った耳が特徴の、整った顔つきをした子だ。
赤褐色の毛並みがしっぽの辺りで渦を巻く。
いちいち調べてないけど、たぶん柴犬だろう。
首輪はなく、人気の全くないところで見つけた——といえばすぐにわかるが、要するに捨て犬だった。
ある晴れた日の午後、本屋に寄った帰りに見つけたのだ。
辺りを見回してみても、飼い主らしき人どころか、私以外の誰もいなかったので捨て犬で間違いなかったと思う。
段ボールに入って——橋の下にいた——というわけではなかったが、今、その子犬は橋の下にいる。
運んでいったのは私だ。
本当は、今その子がいる橋からは、結構離れた所に捨てられていた。
人気のない裏道だ。
だが、その場所には近くにゴミ捨て場あり、それにつられて寄ってきたカラスの視線が非常に怪しかった。
この期に起きる惨劇を想像してみてとても不憫だったので、橋の下まで連れてきたのだ。
……それから、ちょくちょくご飯を持っていってあげている。
うちの冷蔵庫には、何も入っていないから、ほとんどが朝食の残りだ。
もちろん、うちでは犬は飼えない。
今が夏で本当に良かったと思う。
冬だったら、カラスに喰われなくても、子犬は一晩で凍死だろう。
琴生「……だけど」
……ただ、今日は少し寒い。
雨が降っている……というのもあるが、それより何より風が強い。
子犬がとばされていなければいいのだが。
……そう考えると、少し不安になってきた。
風よけのついた橋の下だなんて都合のいいところでもないし、川面に近い土手の草むらだ。
いつもはせせらぎの音が穏やかな川だが、雨の日には水かさが増して、流れが速くなる。
猫は溺れるけど犬は泳げるとか、よくいうけど、あの小さい犬が川なんかに吹き飛ばされて、無事でいられるとは思えない。
琴生「……大丈夫かな」
傘を斜めにして、少し早めに向かった。
シーン「橋の下」
………あれ。
琴生「誰?」
川端に着いて、なだらかな緑の土手を下りている途中で、私はふと足を止めた。
犬を置いておいた場所に、ちらりと人影が見えた気がしたのだ。
かがみ込んで背の高いアシに、体を隠した。
真っ赤な傘も目立つので静かにとじる。
雨はずいぶんと小雨になっていたのでよかったが、半袖の素肌に触れるカサカサしたアシがとても気持ち悪い。
……でもこれは仕方がない。
アシの隙間からのぞき込むようにして見ると、黒い陰がちらつく。
………。
……やはり誰かがいるようだ。
黒っぽい服——もしくはジャンバーを着ていて、座り込んで何かしている。
結構な距離もあるし、こちらに背を向けているせいで、顔は全然見えない。
しかしどうやら若い学生のような感じで、男子生徒のようだ。
……何をしているんだろうか。
いたずらとかしていなければいい。
しゃがんでごそごそやっているので、つい心配になってしまう。
あの場所での不審な動きは、犬に何かしているとしか思えない。
目にタバコの火を押しつけたり、頭に袋をかぶせて車道に放り出したり、世の中には心ない人がたくさんいるのだ。
しばらくして——私はその男の子が立ち去るまで、しばらく待った。
左右を確認して、私はなるべく音を立てないようにこそこそと忍び寄っていく。
段ボールの見かけは、先日と変わったところはない。
他に人はいないようだ。
私はすぐに駆け寄った。
子犬「くぅ〜ん」
その中の子犬が無事な姿を見て、ほっとした。
私の心苦しい心配など意にも介さず、子犬は懸命にしっぽを振りながら、元気にじゃれついてくる。
どうやらいたずらとか、虐待ではなかったようだ。
……でもそうすると。
琴生「それじゃあ、何してたんだろ?」
段ボールの周りや、しっぽをふるっている子犬を観察してみたが、食事とか与えられていたわけでもないようだ。
……本当に何してたんだろ?
と、不思議に思った時、突然強い突風が吹いた。
目をつぶって顔を手で覆う。
橋の下まで雨を運んでくるような強い風だ。
ほほに当たる雨粒が痛い。
琴生「そうだ……犬」
慌てて段ボールを固定しようと手を伸ばしたが、子犬+紙というとても飛ばされやすそうな組み合わせは、今の風でも動かなかった。
よくよく見ると段ボールが土にまみれていて、中には入れた覚えのない、中くらいの石が入っているのを発見した。
両手で持ち上げることがやっとの、ずいぶんな重さの石だ。
これのおかげで、今までも飛ばされずにすんでいたのだ。
琴生「そうか……」
私が来る前に心配したとおり、やはり子犬は飛ばされてそうになっていたのだろう。
そして、さっきの人が直してくれたのだ。
……誰だったのだろう?
少年といっても差し支えのない人だったし、この時間に外を出歩いているのだとすれば、高校生だ。
中学生にしては少し大人っぽい感じもした。
……もしかしたら、同じ高校の生徒なのかも知れない。
人になれているこの子は、私が与えたご飯をぱくつきながら、ごろごろと甘えてくる。
それをぼーっと見ながら、いろいろと考えた。
………。
時計を見てみると、もう学校の時間だった。
うちの学校は何回遅刻をしても欠席扱いにはならない、生徒側にとってはありがたい学校だが、それでも一、二分の遅刻にうるさい。
鞄を持って学校に向かった。
シーン「坂」
………。
琴生「——ふう」
着いた。
学校の正門にある時計は、時間に正確でなくて全然役に立たないが、遅刻でないことを知る目安にはなった。
この学校は小高い山の中腹にあるため、校門にたどり着くには長く急な坂道を登り切らなくてはならない。
民家が建ち並ぶ中でもあるので、学校へと向かうものも含め、車通りも激しい。
見通しもいい方ではなく、どうして悲惨な事故が起きないのか、時々不思議に思うこともある。
登校ラッシュのせいもあって、坂道にいる生徒は多かった。
中には横一列になって歩いている集団もあって大変じゃまだ。
迷惑そうな顔を作りながらも、その表情は隠して、横を通り抜ける。
……そのとき。
シーン「真っ黒」
「……殺人事件」
シーン「坂」
ふと、耳元でそう囁かれた気がして、私は身を強張らせた。
……殺人?
テレビの中では目にするが、現実ではあまり耳にすることがない、物騒な言葉だ。
気づかれないように振り返って、その言葉を発したらしい一団を伺ってみたが、和やかな雰囲気のまま、別段悪びれたところはない。
……何だろう?
しかし、それほど声を張り上げている様子でもないのに、その言葉は、やけにくっきりと耳に残った。
平気な顔を装って、坂道を歩き続けたが、握りしめた拳には汗がにじんでくる。
なんだか体が落ち着かず、忙しなくなってきてしまう。
……気のせいなのだろうか?
選択肢1
最終更新:2009年03月24日 00:34