双谷島小波の部屋

小波の月記


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月記

小波の月記だよ♪

2009年3月

「ねぇ……しよ?」
ペンッ!
はぅあー!?何するんだよぅ……」

上の会話を見て、何か気づきませんか?

そうです。
よく分かりましたね。
ショペンハウアーの名前の覚え方です。

今月21日、私こと小波は、とうとう双谷大学を卒業してしまいました。
思えば早いものです。
しかし、皆さん。
大学を卒業したからといって、勉強を等閑にして良い訳ではありません。
人生とは、学習の連続なのです。
頭を鍛えねば、脳みそがちゅるんちゅるんになってしまうのです。
皺一つ無い脳では、サブプライムローンによる不景気の大波に、一瞬にして
飲み込まれてしまうのです。
卒業式で、双谷学長も言っていたでしょう?
まぁ私は寝ていましたけれども。

例えばです。
双谷島商会のアフター飲み会にて……

部長「小波君、ときに、君が尊敬する人は、誰なのかね?」

と、問われた場合、貴方は何と答えますか?
①「ショペンハウアーです」
②「磯野波平です」
③「ルキアーニャ」

断然、①が良いでしょう。
②は少し、マニアックです。
③は退職です。
ここで注意して欲しいのが、ショペンハウアーって人が何をしでかした人なのか、別に知らなくても良いと言うことです。どうせ、部長だって、そんなショペンハウアーなんて知らないのですから。適当に答えればよいのです。

「ショペンハウアーはですね、世界で初めてスカイプを完成させた偉人デス。スカイプとは、人間がイデア現象に過ぎないと仮定した場合に、今生きているこの世界がシュレディンガー・キャッツ・ミサイル・工法で建てられていると考える詭弁法なのですが、この論に対してニーソ・ブラックタイツという学者が反論しまして、そもそも我ら人間は、MOEであり、エロス的虚像に過ぎず、世界はツン・ヤン・デレー博士が言うように」

とにかく。
偉人を沢山知っていると、便利なのです。



2009年2月


ショペンハウアーが言った言葉に次の様なものがあります。

「我々の世界像は、知性が外から与えられる諸印象を、時間・空間・因果律の形式にいなおすことによって形成される」

つまり大宇宙の意思ですね。
我々はカオスより導かれる雄大かつ壮大なイデアによって世界を知ることができるのですね。
つまりハイバネーションです。精神的な昇華をすることによって、我々は現世から解き放たれるわけですね。

また、ニーチェはいいました。

「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。
深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。」

つまり神との対話ですね。
言い換えるならエクセキューションです。我々が八紘一宇を願い清功なる儀式を行えば、自ずから神となることができるのです。
そうです。我々は神だったのです。
ミネルバの開花です。我々は召されるのです。

何故? どうして?
我々は自問します。そう、問いかけるのです。
これはある種のサーガですね。答えは身近にあります。道ばたに咲く健気な草花に話しかけてください。ほら聞こえるでしょう? 我々の流した汗を見て、彼らは呟いているのです。

苦しい苦しい、何故生まれてきたのだ。咲きたくない。働きたくないーー。

……このような草花はそっとしておきましょう。そして泣くのです。我々はやはり生きたくなくても生きなければならないのだと。ほら目覚めることができましたね。我々はみな、水上征人なのです。
出口はすぐそこにありますよ。解脱しましょう。

考えても見てください。

何故生まれてくる赤ん坊はみな、泣いているのでしょう? 
聖なる祝福を受けたはずの彼らは、何故みんな涙しているのでしょう?
周りの大人が笑顔で祝福する中、泣き叫ぶ赤ちゃんは、何を訴えているのでしょう?

そう、彼らは本当は生まれてなどきたくなかったのです。生まれるということは、我が身に呪いをかけられるのと同義なのです。
私はそれに恐怖します。我々は皆、生まれると同時に深い傷跡を背負っているのです。そうして年月を経て、成長しながらもその呪いが払われることはありません。その傷が癒えることなどありません。我々はその致命の傷口から、延々と血を流し続けるのです。

ですが人々が意識してその傷に気付くことはありません。みなその傷は無視するのです。いいえ。無視せざるを得ないのです。なぜならその傷は命に致っているから、生命の根幹を揺るがすものであるからーー。
だから人々はその傷を無視します。鈍感にならざるを得ないのです。

ですが一方で、その傷を無視できない人々もいるのです。彼らは傷を直視して、自らの生命に絶望してしまいます。そうして気がついてしまった人は己の生命を呪うしかなく、自らを殺めざるを得ないのです。
しかし、我々は彼らを咎めることなどできるのでしょうか? 自らの傷を顧みることもなく鈍感に生きている我々が、彼らの是非を問うことができるのでしょうか?
私にはできません。自らの呪いに気づき立ち向かった彼らを咎めることなど、私にはとてもできないのです。そうして私はこの世に絶望するのです。

ーーしかし、本当にそこに救いはないのでしょうか。
救いはなくとも、生まれてきた子を祝福した我々に為すべきことはないのでしょうか。

絶望するのは簡単です。
諦めるのも簡単です。逃げるのも簡単です。
しかしそれは格好悪いのです。

祝福した責任を放っておき、絶望して逃避するのはどうしようもなく情けないことなのです。
ですから我々には、少なくともーーそう、少なくとも傷を直視してしまったものを引き留める理由はあるのです。
ーー傷を直視したものを咎めることはできなくとも、彼らを引き留める理由自体はあるはずなのです。

私たちは今も傷口から血を流しながら、しかしそれに気がつかないようにして生きているのです。そして、傷に気がついてしまった人たちを、忌まわしいものとして倦厭しています。
しかし、それではあまりにも惨めなのです。自らの傷にも鈍感であろうとし、周りの傷にも気付かぬよう目をふさぐのは、悲しいのです。
だから我々は少なくとも私は、自身の傷には気付かなくとも、目だけは開いていたいと思っているのです。

2009年1月


先日、散歩に出かけた先の路道で、野菊を見ました。

野菊に「おはよう」と声を書けると、「寒いよぅ、寒いよぅ」と嘆いていました。
振り返れば今は冬。野菊にはつらい季節です。
心が痛んだ私は、野菊にお湯をかけてあげることにしました。
今はつらい冬でも、ここを乗り越えればやがて春がが来る。それまで頑張るんだよ。
私は脳裏に華々しく咲き誇る野菊を夢見ながら、お湯をかけ続けました。

数日後、野菊は枯れていました。
お湯は水になり、水は氷となって野菊を枯らせたのです。
そういうものです。