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「「月光」」(2009/03/28 (土) 21:16:43) の最新版変更点
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*月光
特にやることもない夜の時間。
遅くになって、だけれどどうしてか眠る気が全然しないような夜の時間には、大抵窓の外を見ると、大きな月が浮かんでいる。
僕自身があまり活発でなく、ひたすら人目を避け、影の世界でずっと暮らしていたからなのか、自分自身を誇張することなく、ありのままをさらけ出している月には、深い感慨を抱いている。
月が好きだ。
月の光が今でもずっと好きだ。
そして昔から気に入っていた月は、僕には絶対に忘れられない出来事と共に結びついている。
その出来事に、僕が特別に何かをしたということはない。僕の人生に決定的な変換を与えただとか、考え方を根本から覆されたなんてことは、いっさいない。
それでも、淡い光を放つ月を見ると、彼女のことを思い出すのだ。
中学生のときの僕を思い出すのは簡単だ。今とほとんど変わらないから。
人と人との間にいるのを、いつも気後れに感じがちで、他の人とは一歩距離を置いて生活してきた。明るい世界を極端に避け、周りの人が先に行く後に付いていき、彼らの影に隠れることで、自分を安心させていた。
友達は全くと言っていいほどなかったが、特にいじめられたりすることはなかった。良くも悪くも、いじめられる生徒というのは、目立ちがちで、少なくともその条件に自分が当てはまることは決してなかったからだ。
明るく楽しく、仲間同士で談笑するクラスメート達を特にうらやんだりもしなかった。彼らは彼らなりの自分自身の居場所を作っているだけなのだから。
仲のいい人達で集まって、クラスの企画をやるときなどは、流石に居心地の悪さを感じたものだが、普段から教室の隅っこで、ひとりで本を読んだり、だらけたりすることに、学校での僕の立場は決まっていたのだ。
家でも似たようなものだった。
家族すらも、そこそこ距離の近い人達ぐらいにしか認識しておらず、端から見ればとても、良い親子関係とは呼べなかったことであろう。
僕としては、なかなかいいスペースを自分なりにこしらえていたつもりだったのだが、親はそうは思わなかったらしく、時々ひどいヒステリーを起こした。
僕の指針は、自分の性格などもわきまえて、人間関係のしがらみとかそういうのにはなるたけ関わらないで無難に生きていこう、という、真っ当なものだったのだが、根暗なやつだと周囲には捕らわれることもしばしばあり、どうしてか不思議に思う。
狭い場所に、自分だけの空間をとることが好きだったのだが、それはもしかしたら、自分自身の本当の気持ちではなく、周囲が接しやすいように、自分の位置を調節してきただけなのかも知れなかった。そういうことを漠然と考えるとき、時折、周りに疎まれ、倦厭され、否定されているような気がした。
だから、時々思うのだ。
僕はここにいてもいいのだろうか? 僕がここにいる意味はないのではないだろうか?
早朝の教室、放課後の屋上。普段は喧噪に包まれる場所に、一人佇むときに特に強く感じる。
自分自身が消えてしまうことに、微妙な恐怖と、一抹のあこがれを感じていたのかも知れない。
人はどうして生きているのかとか、高尚なことを疑問に感じていたわけではない。ただ単純に、僕みたいな影の薄く、いるのかいないのか分からないような中途半端な存在が、突然になくなったとしても、何も関係がない気がする。変わることなく地球は周り、僕の不在は何に影響を与えるわけでもなく、今日が終わり、あしたが始まり、時はいつも通り移ろいでいく。そんな気がするのだ。
そうしたときの、学校にも家にも居場所がない僕は、夜の時間が好きだった。
晴れた日の夜空は綺麗で、普段は喧噪の絶えないような道にも、人がいなくなる。人と接触することを極端に嫌っていた僕は、それを喜びすらすれ、夜道も怖いと思ったことは一度もなかった。
だからそんな日の夜中に、僕は良く散歩をした。目的もなく、知っているところも知らない道もかまわず歩き回る。
その日は月の良く映えた晩で、いつもよりも長い時間、辺りをうろついていた。
月はいい。太陽の光と違って、月の発する光には穏やかさがある。普段は何とも思わないただの住宅街も、月下のもとでは一枚の絵画のような美しい別の顔を見せる。自分もその芸術の一部になっているようで、心地よかった。こういう時の僕はいったいどんな顔をしているのだろうか。日の下では決してしない顔であることは確かなので、絶対に分からない事であろうと思った。
散歩の最中にこのように思いにふけることは滅多になく、大抵は何も考えずにふらふらとさまよう。なにも考える必要がないから、さまよっているのであり、これはたぶん当然のことなのだろう。
そして僕がとある公園の真ん前に通りかかった時のことだ。滑り台の上に人影が見えたような気がして、立ち止まった。
この公園は病院の正面に建設された市の公園で、何度か近くを歩きかかったこともあるが、夜の散歩では初めてのコースだった。
いつもは子供達の歓声に包まれているであろうここも、こんな夜更けではしんと静まりかえっている。それを不気味だと感じるか、騒がしくなくてよいと感じるかは人それぞれだと思うが、少なくとも僕には月下の住宅地と同じく、神聖な場所に思えた。
人影はぴくりとも動かず、物音を立てない。動かないことで、自分も公園に同化しようとしているかのように見えた。
はじめはいぶかしく思った僕だったが、あまり関係しないでおこうと思った。下手に近寄って、騒がれても困るし、ひとりの時の方が好きなのだ。
幸い、相手はまだこちらに気がついてもいない。そうそうに立ち去ろうと思って、歩くスピードを上げた。
それがいけなかったのか、もしくはいずれにせよだったのか、定かではないが、僕は道に転がっていた空き缶を蹴飛ばしてしまった。
カランカランという、明らかに異質な音が辺りに響いた。やばいと思った。
「誰……?」
案の定、滑り台の上から、僕の背中に向かって声が投げかけられた。女の子の声だった。
ここで選択できる道はふたつあった。
ひとつは走ってここから立ち去るか、それとも振り向いて挨拶をするかだ。
いつもの僕だったら、間違いなくひとつ目を選択しただろうと思う。しかし、呼びかけられた声が、わずかにどこかで聞いたことがある声だったことが、僕を思いとどまらせた。
結局、僕は後ろを向いた。
月の光は二人の顔を照らし出すのに、十分に明るかった。
「ーー深海くん?」
「……鹿島か」
クラスメートの鹿島だった。
情けないことだが、僕は彼女の下の名前を知らなかった。
なにしろ、当時の僕は徹底的に人間関係から遠ざかっていたし、他の人のことなどクラスメートといえども知ったことではなかった。
周りの人達も、それに感づいてか必要以上に僕に接触を求めてこようとはしなかった。だから、中学二年生になっても、ようやくクラスメートの名字を覚えているだけであり、彼女の名前も知らなかった。
ただ、彼女の印象は強かったから、他の人よりも若干知っている。
鹿島は僕とは対極の存在だった。
僕が消極的で、周囲との関係を自分から閉ざしていっていたのに対し、彼女はひたすら明るい性格で、社交的であり、友達も多かったし、先生からも信頼されていた。
教室でいつもひとりでただずんでいた僕とは違い、彼女は常に人の輪の中心にいた。
それをうらやましいとか思ったことはない。
社会にしろ、世界にしろ、光のあるところには必ず影があり、鹿島のような人もいれば、僕のような人もいる。それは必然なのだ。そうしてバランスのとれている世界に、僕は口出しをするつもりはない。
そんな鹿島だったから、鹿島のいない教室はひどく歪に感じていた。
彼女は数週間前から、学校に来なくなっていたのだ。病気で病院に入院していると、先生はいっていた。
「そこの病院にいるのさ」
後ろの巨大なシルエットを指さしながら彼女はいった。
「夜中に抜け出してきていいのかよ」
ここの公園は確かに病院の膝元にあって、付属施設的な見方もできるが、実際は違う。しかも、彼女は数週間も入院している身分なのだ。
「もう退院するんだ。だからいいの」
「ふーん」
僕と鹿島はほとんど話したことはない。
でも、鹿島のしゃべり方は教室で他の友達と話すときと、ほとんどかわらない調子で、僕に接してくれた。
「でも、いけないことだから、内緒だからね」
彼女は屈託なく笑っていった。その笑顔は、夜だというのに辺りを明るくしてしまうような、不思議な力があった。僕とは正反対の力だと感じた。
「じゃあ、もう少ししたら学校にも来られるんだろ」
「そだね、そうかもね、そうだったらいいな」
微妙な言い回しで、彼女は答えた。
彼女の笑顔はかわらなかったが、彼女自身は少しやせたように見えた。
「深海くんは、何してるの?」
「……散歩」
月が綺麗だったからとはいわなかった。鹿島が馬鹿にするはずもないが、気恥ずかしい。
「月が綺麗だからでしょ」
そのままをいわれた。
鹿島はベンチから飛び降りると、軽やかにステップを踏んだ。
何をするのだろうと黙ってみていると、彼女は月の光を浴びるようにして、次のようにいった。
「私も、月が好きなんだ」
意外だった。
鹿島みたいな人は、夜にひっそりと浮かぶ月よりも、全てを照らし恵みをもたらす太陽を好むかと思っていた。
月光を体中に浴びた鹿島は、まるで月からのお迎えが来ているようにも見えた。
それから彼女は、右腕を大きくあげると、すらりとした細い手を月光に掲げる。指先で光るものがあった。
「月の光、これとそっくりなんだよ」
宝石のついた指輪だった。それは彼女の親の持っていた指輪で、常々彼女が欲しがっていたものであり、本当は嫁入りするときにあげるとか言われてたそうなのだが、つい最近もらったのだという。
彼女はいとおしげに、指輪をなでた。だが、僕にはそれが少しだけーーほんの少しだけもの悲しそうに見えたから、ちょっとした皮肉を言ってやった。
「月がそれに似てるんじゃなくて、それが月に似てるんだろ」
「おっ、君もいうねぇ」
鹿島はいつも通りの笑顔に戻って、愉快そうな仕草をした。
その後の彼女は、月についても、自分についても、いろいろな話をした。
その中には、いわなければ絶対に分からないような、鹿島自身の本音とかも含まれており、彼女に仲の良い友達は多かれど、世界でそれを知っているのは僕だけであろう、と思えるような内容もあった。
何故そんなに話をするのかなどは、僕は考えないことにした。
彼女はとにかくたくさん話した。
僕は黙って、それを全部聞いた。
それから何日かたって、確かにいっていたとおり、彼女は退院した。
けれど、学校に再び来るようなことは二度となかった。
治しようのない病気だったらしい。
あれから数年がたったが、あの日、僕らが公園であったことは誰にもいっていないし、これからも話すことはないだろうと思う。
鹿島がいなくなった教室は、やっぱり少し物寂しい様子だったが、日々の生活の中でそうした情景も塗りつぶされていく。彼女の友達だった人達も、徐々に忘れていってしまうのだろう。
あれから、僕が特に変わったということもない。僕は相変わらず、人と人との間には常に距離を置き、狭い居場所に自分だけの空間を占めて、時々、困った目に遭うこともあるけれど、自分に合った生活を続けている。
だから結局の所、鹿島のたぶん最後であろう出来事も、僕にとっては何だったのかということはさっぱり分からない。僕の生活は周囲の流れゆく時間に合わせて、変わることなくゆっくりと進んでいく。
ただ、僕は以前のように「消える」ということをむやみに考えることはなくなっていた。
あの頃の僕は、自分のような暗い人間だから消えても何の問題もないのだ、と思っていたのだが、それは違うのだと、鹿島は証明してくれた。
彼女のいなくなった世界が、やっぱりいつも通りの世界だったように、彼女のような人間でも、どんな人間であろうとも、「消える」という点においては同じなのだ。
彼女を置き去りにしていく世界の中で、僕は生きている。
「消えた」鹿島の思いが僕の胸にある限り、僕は「消える」わけにはいかないのだ。
記憶に焼き付いた彼女に、僕は恋心を抱いていたとか、そういうわけではないと思う。太陽の光を受けた月が、その輝きを夜にもたらすように、正反対の存在であった僕は、託された彼女のことを受け継がなくてはならない。
そうすることに、特別な努力は要らない。僕はただ、ここにいるだけでいい。僕はここにいていいのだ。
あの日のことは、僕はとうてい忘れられそうにない。
星の瞬く広い夜空を。自然に還った緑の公園を。肌寒く新鮮な空気で満たされたあの空間を。全てを照らし出した月の光を。そしてーー夜に煌めいた月の宝石を。共に輝いた宝石の君を。
月夜の風景に閉じこめられた彼女の姿は、僕の心にしっかりと焼き付いている。
月の光を見るたびに、これからも僕は彼女のことを思い出すのだろう。
窓を開けて眺めた今日の月は、あの日の宝石のように見えた。
……おわり?
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*月光
特にやることもない夜の時間。
遅くになって、だけれどどうしてか眠る気が全然しないような夜の時間には、大抵窓の外を見ると、大きな月が浮かんでいる。
僕自身があまり活発でなく、ひたすら人目を避け、影の世界でずっと暮らしていたからなのか、自分自身を誇張することなく、ありのままをさらけ出している月には、深い感慨を抱いている。
月が好きだ。
月の光が今でもずっと好きだ。
そして昔から気に入っていた月は、僕には絶対に忘れられない出来事と共に結びついている。
その出来事に、僕が特別に何かをしたということはない。僕の人生に決定的な変換を与えただとか、考え方を根本から覆されたなんてことは、いっさいない。
それでも、淡い光を放つ月を見ると、彼女のことを思い出すのだ。
中学生のときの僕を思い出すのは簡単だ。今とほとんど変わらないから。
人と人との間にいるのを、いつも気後れに感じがちで、他の人とは一歩距離を置いて生活してきた。明るい世界を極端に避け、周りの人が先に行く後に付いていき、彼らの影に隠れることで、自分を安心させていた。
友達は全くと言っていいほどなかったが、特にいじめられたりすることはなかった。良くも悪くも、いじめられる生徒というのは、目立ちがちで、少なくともその条件に自分が当てはまることは決してなかったからだ。
明るく楽しく仲間同士で談笑するクラスメート達を、特にうらやんだりもしなかった。彼らは彼らなりの自分自身の居場所を、作っているだけなのだから。
仲のいい人達で集まって、クラスの企画をやるときなどは、流石に居心地の悪さを感じたものだが、普段から教室の隅っこで、ひとりで本を読んだり、だらけたりすることに、学校での僕の立場は決まっていたのだ。
家でも似たようなものだった。
家族すらも、そこそこ距離の近い人達ぐらいにしか認識しておらず、端から見ればとても、良い親子関係とは呼べなかったことであろう。
僕としては、なかなかいいスペースを自分なりにこしらえていたつもりだったのだが、親はそうは思わなかったらしく、時々ひどいヒステリーを起こした。
僕の指針は、自分の性格などもわきまえて、人間関係のしがらみとかそういうのにはなるたけ関わらないで無難に生きていこう、という、真っ当なものだったのだが、根暗なやつだと周囲には捕らわれることもしばしばあり、どうしてか不思議に思う。
狭い場所に、自分だけの空間をとることが好きだったのだが、それはもしかしたら、自分自身の本当の気持ちではなく、周囲が接しやすいように、自分の位置を調節してきただけなのかも知れなかった。そういうことを漠然と考えるとき、時折、周りに疎まれ、倦厭され、否定されているような気がした。
だから、時々思うのだ。
僕はここにいてもいいのだろうか?
僕がここにいる意味はないのではないだろうか?
早朝の教室、放課後の屋上。普段は喧噪に包まれる場所に、一人佇むときに特に強く感じる。
消えるということ。
自分自身が消えてしまうことに、微妙な恐怖と、一抹のあこがれを感じていたのかも知れない。
人はどうして生きているのかとか、高尚なことを疑問に感じていたわけではない。ただ単純に、僕みたいな影の薄く、いるのかいないのか分からないような中途半端な存在が、突然になくなったとしても、何も関係がない気がする。変わることなく地球は周り、僕の不在は何に影響を与えるわけでもなく、今日が終わり、明日が始まり、時はいつも通り移ろいでいく。そんな気がするのだ。
そうしたときの、学校にも家にも居場所がない僕は、夜の時間が好きだった。
晴れた日の夜空は綺麗で、普段は喧噪の絶えないような道にも、人がいなくなる。人と接触することを極端に嫌っていた僕は、それを喜びすらすれ、夜道も怖いと思ったことは一度もなかった。
だからそんな日の夜中に、僕は良く散歩をした。目的もなく、知っているところも知らない道もかまわず歩き回る。
その日は月の良く映えた晩で、いつもよりも長い時間、辺りをうろついていた。
月はいい。太陽の光と違って、月の発する光には穏やかさがある。普段は何とも思わないただの住宅街も、月下のもとでは一枚の絵画のような美しい別の顔を見せる。自分もその芸術の一部になっているようで、心地よかった。こういう時の僕はいったいどんな顔をしているのだろうか。日の下では決してしない顔であることは確かなので、絶対に分からない事であろうと思った。
散歩の最中にこのように思いにふけることは滅多になく、大抵は何も考えずにふらふらとさまよう。なにも考える必要がないから、さまよっているのであり、これはたぶん当然のことなのだろう。
そして僕がとある公園の真ん前に通りかかった時のことだ。滑り台の上に人影が見えたような気がして、立ち止まった。
この公園は病院の正面に建設された市の公園で、何度か近くを歩きかかったこともあるが、夜の散歩では初めてのコースだった。
いつもは子供達の歓声に包まれているであろうここも、こんな夜更けではしんと静まりかえっている。それを不気味だと感じるか、騒がしくなくてよいと感じるかは人それぞれだと思うが、少なくとも僕には月下の住宅地と同じく、神聖な場所に思えた。
人影はぴくりとも動かず、物音を立てない。動かないことで、自分も公園に同化しようとしているかのように見えた。
はじめはいぶかしく思った僕だったが、あまり関係しないでおこうと思った。下手に近寄って、騒がれても困るし、ひとりの時の方が好きなのだ。
幸い、相手はまだこちらに気がついてもいない。そうそうに立ち去ろうと思って、歩くスピードを上げた。
それがいけなかったのか、もしくはいずれにせよだったのか、定かではないが、僕は道に転がっていた空き缶を蹴飛ばしてしまった。
カランカランという、明らかに異質な音が辺りに響いた。まずいと思った。
「誰……?」
案の定、滑り台の上から、僕の背中に向かって声が投げかけられた。女の子の声だった。
ここで選択できる道はふたつあった。
ひとつは走ってここから立ち去るか、それとも振り向いて挨拶をするかだ。
いつもの僕だったら、間違いなくひとつ目を選択しただろうと思う。しかし、呼びかけられた声が、わずかにどこかで聞いたことがある声だったことが、僕を思いとどまらせた。
結局、僕は後ろを向いた。
月の光は二人の顔を照らし出すのに、十分に明るかった。
「――深海くん?」
「……鹿島か」
クラスメートの鹿島だった。
情けないことだが、僕は彼女を名字でしか知らなかった。
なにしろ、当時の僕は徹底的に人間関係から遠ざかっていたし、他の人のことなどクラスメートといえども知ったことではなかった。
周りの人達もそれに感づいてか、必要以上に僕に接触を求めてこようとはしなかった。だから、中学二年生になっても、ようやくクラスメートの名字を覚えているだけであり、彼女の名前も知らなかった。
……ただ、彼女の印象は強かったから、他の人よりも若干知っている。
鹿島は僕とは対極の存在だった。
僕が消極的で、周囲との関係を自分から閉ざしていっていたのに対し、彼女はひたすら明るい性格で社交的であり、友達も多かったし先生からも信頼されていた。
教室でいつもひとりでただずんでいた僕とは違い、彼女は常に人の輪の中心にいた。
それをうらやましいとか思ったことはない。
社会にしろ、世界にしろ、光のあるところには必ず影があり、鹿島のような人もいれば、僕のような人もいる。それは必然なのだ。そうしてバランスのとれている世界に、僕は口出しをするつもりはない。
しかしそんな鹿島だったから、彼女のいない教室はひどく歪に感じていた。
彼女は数週間前から、学校に来なくなっていたのだ。病気で病院に入院していると、先生は言っていた。
「そこの病院にいるのさ」
後ろの巨大なシルエットを指さしながら彼女は言った。
「夜中に抜け出してきていいのか?」
ここの公園は確かに病院の膝元にあって、付属施設的な見方もできるが実際は違う。しかも、彼女は数週間も入院している身分なのだ。
「もう退院するのさ。だからいいの」
「ふーん」
僕と鹿島はほとんど話したことはない。
でも、鹿島のしゃべり方は教室で他の友達と話すときと、ほとんどかわらない調子で、僕に接してくれた。
「でも、いけないことだから、内緒で頼むよ」
彼女は屈託なく笑っていった。その笑顔は、夜だというのに辺りを明るくしてしまうような、不思議な力があった。僕とは正反対の力だと感じた。
「じゃあ、もう少ししたら学校にも来られるのか」
「そうだな、そうかもね、そうだったらいいな」
微妙な言い回しで、彼女は答えた。
彼女の笑顔はかわらなかったが、彼女自身は少しやせたように見えた。
「深海くんは、何してるんだい?」
「……散歩」
月が綺麗だったからとはいわなかった。鹿島が馬鹿にするはずもないが、気恥ずかしいものがある。
「そうか、今夜は冴えた月夜だからね」
鹿島はベンチから飛び降りると、軽やかにステップを踏んだ。
何をするのだろうと黙ってみていると、彼女は月の光を浴びるようにして、次のように言った。
「私も、月が好きだな」
意外だった。
鹿島みたいな人は、夜にひっそりと浮かぶ月よりも、全てを照らし恵みをもたらす太陽を好むかと思っていた。
月光を体中に浴びた鹿島は、まるで月からのお迎えが来ているようにも見えた。
それから彼女は、右腕を大きくあげると、すらりとした細い手を月光に掲げる。指先で光るものがあった。
「月の光、これとそっくりなんだよ」
宝石のついた指輪だった。それは彼女の親の持っていた指輪で、常々彼女が欲しがっていたものであり、本当は嫁入りするときにあげるとか言われてたそうなのだが、つい最近もらったのだという。
彼女はいとおしげに、指輪をなでた。だが、僕にはそれが少しだけ――ほんの少しだけもの悲しそうに見えたから、ちょっとした皮肉を言ってやった。
「月がそれに似てるんじゃなくて、それが月に似てるんだろ」
「おっ、君もいうねぇ」
鹿島はいつも通りの笑顔に戻って、愉快そうな仕草をした。
その後の彼女は、月についても、自分についても、いろいろな話をした。
その中には、いわなければ絶対に分からないような、鹿島自身の本音とかも含まれており、彼女に仲の良い友達は多かれど、世界でそれを知っているのは僕だけであろう、と思えるような内容もあった。
何故そんなに話をするのかなどは、僕は考えないことにした。
彼女はとにかくたくさん話した。
僕は黙って、それを全部聞いた。
それから何日かたって、確かにいっていたとおり、彼女は退院した。
けれど、学校に再び来るようなことは二度となかった。
治しようのない病気だったらしい。
あれから数年がたったが、あの日、僕らが公園であったことは誰にも言っていないし、これからも話すことはないだろうと思う。
鹿島がいなくなった教室は、やっぱり少し物寂しい様子だったが、日々の生活の中でそうした情景も塗りつぶされていく。彼女の友達だった人達も、徐々に忘れていってしまうのだろう。
あれから、僕が特に変わったということもない。僕は相変わらず、人と人との間には常に距離を置き、狭い居場所に自分だけの空間を占めて、時々、困った目に遭うこともあるけれど、自分に合った生活を続けている。
だから結局の所、鹿島のたぶん最後であろう出来事も、僕にとっては何だったのかということはさっぱり分からない。僕の生活は周囲の流れゆく時間に合わせて、変わることなくゆっくりと進んでいく。
――ただ、僕は以前のように「消える」ということをむやみに考えることはなくなっていた。
あの頃の僕は、自分のような暗い人間だから消えても何の問題もないのだ、と思っていたのだが、それは違うのだと、鹿島は証明してくれた。
彼女のいなくなった世界が、やっぱりいつも通りの世界だったように、彼女のような人間でも、どんな人間であろうとも、「消える」という点においては同じなのだ。
彼女を置き去りにしていく世界の中で、僕は生きている。
消えた鹿島の思いが僕の胸にある限り、僕は消えるわけにはいかないのだ。
記憶に焼き付いた彼女に、僕は恋心を抱いていたとか、そういうわけではないと思う。太陽の光を受けた月が、その輝きを夜にもたらすように、正反対の存在であった僕は、託された彼女のことを受け継がなくてはならない。
そうすることに、特別な努力は要らない。僕はただ、ここにいるだけでいい。僕はここにいていいのだ。
あの日のことは、僕はとうてい忘れられそうにない。
星の瞬く広い夜空を。自然に還った緑の公園を。肌寒く新鮮な空気で満たされたあの空間を。全てを照らし出した月の光を。そして――夜に煌めいた月の宝石を。共に輝いた宝石の君を。
月夜の風景に閉じこめられた彼女の姿は、僕の心にしっかりと焼き付いている。
月の光を見るたびに、これからも僕は彼女のことを思い出すのだろう。
窓を開けて眺めた今日の月は、あの日の宝石のように見えた。
終わり?
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