養老孟司『ヒトの見方』


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p11

ヒトの脳を解剖すれば、それが原則的には似たような構造を持ち、各個人の差というものが見られはするものの
、神経解剖学という分野が一方では成立しうるだけの構造と共通性を示していることを知る。つまり、その中身に何が入ることになろうと、その機能には脳の構造から規定された「共通の形」が存在するはずであり、事実それである。
とすれば、ヒトがおたがいどうしを理解するのは、もともと脳の中にどういう内容が詰まっているか、の問題ではなく(ヒトによって異なるに決まっている)、それが働く場合の「形式」の問題だ、といわざるを得ない。

p12

叙述すなわち言葉とは、内容を伝えるものだ、と学生はふつう堅く信じて疑わないからである。

p108

岸田秀氏によれば、ヒトは本能が壊れた動物である。それゆえ、ヒトは生存し続けるために、幻想を必要とする。家族や社会は幻想を共有し、それは各個人の幻想の中から共通部分が吸い上げられたものである。これを岸田氏は共同幻想と呼ぶ。

p114

岸田説に戻って見れば、たとえば、ヒトの自己は幻想としての自己であり、ヒトの考える氏は生物学的な死ではなく、〔幻想としての自己〕の死である。岸田氏は、したがって、ヒトは自己の防衛において必要以上に攻撃的となる、とする。表現を変えれば、その場合ヒトにおける自己の死は類似された死、つまり象徴としての死に他ならないのである。

p115

譲与が生物進化の上で何故大切かと言えば、結局はそれが分化の前提となるからである。当たり前の話だが、複数の同一材料があれば、そのうちどれかは、変化して構わない。

p301

(元旦から死体と接してました、ということについて)「こんなふうに仕事の話をすると、初対面の人からは『気持ちが悪くはないですか』とよく訊ねられる。勿論気持は悪い。私共のような職業に就いていると人柄が変わってしまい、死体を見ても何も感じなくなる、というものではない。
しかし何事にも人は慣れる。この慣れというのを説明すると次のようになる。
数学が判らない時に、一番判っていない状態では、自分は何が判らないのか、がまず判らない。これを昔から、何が何だか判らない、と言う。しばらくすると、どこが判らないのか、判らないところがはっきり判ってくる。本当に話が判るのはそのあと、である。
死体の場合もつまりは同じことである。はじめはただひたすら気持が悪い。やがてどのように気持が悪いのか、見極めがついてくる。
従って、気持が悪いような状態をある程度効果的に避けられるようになる。例えば顔を白布で覆っておく意味が判ってくる。そうなれば心理的には無駄な緊張がとれる。このようにして死体に対する自分なりの気の持ち方ができてくる。それは人によってもいくらか異なるはずである。」
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