赤槻春雄の自己中(仮) 電脳コイル-神社について
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電脳コイルでの神社の意味(草案)


 この間、電脳コイルを見ました。かなり面白かったです。
 今回は、その世界観について思ったことを少し語りたいと思います。

 電脳コイルは、「電脳メガネ」という道具を用いて、電脳技術が普及した近未来を舞台としている。しかし、舞台の中心となっている大黒市では、電脳世界の特別特区であるにもかかわらず、その近未来的設定に相反するように神社というものが多く存在している。そして、第一話からその存在は非常に印象的に描かれており、物語の複線となっているのだ。
 説明が前後するが、電脳世界というのは通常現実の世界とはまったく隔てられた虚構の世界であるという考え方が一般的である。しかし、本作のシステムとしては現実世界がサーバーに読み込まれ、そして現実世界の上に電脳物質の情報を書き込むという構造になっている。このことから、甲殻機動隊にあるような、過度にコンピューター上の情報が重要視される、いわゆる「デジタルデバイド」という現象が発生しているわけである。つまり電脳世界が現実世界よりもより真実性を帯びることとなる。しかし、本作では現実世界を蹂躙している電脳世界をさらに支配する形で、「神社」というものが設定されている。これは人間の作り上げた最先端の物を制御する、さらに上の存在である「神」のが示唆している。作中の説明でフミエは「縦割り行政ね。郵政局のサッチーは、仲の悪いお役所、たとえば、文部局とか文化局の縄張りには入れないのね。」と語っている。つまりフォーマットサーチエンジン(2.0も含む)は郵政局の管轄なので、文化局の管轄である神社、学校には入って来れないそうだ。非常にユニークな設定である。このことからも神社が作中では神秘的な意味を成すのである。また同時に、学校にも入って来れないのでそこに一種の閉鎖的空間が生まれ、子供同士の対立を作りあげているのである。
 そもそも、われわれ日本人にとって神社とはどのような存在であるのだろうか。神社というものは、必ず本堂(本堂が存在しない場合も多いが)にたどり着くために、長い石段を登る必要がある。それはそれ自体が神の御許に近づくための神聖な行為であってわれわれを神聖な気持ちにさせてくれる。到着すれば鎮守の杜が控えており、心地よい空気と景色を与えてくれるのである。神社というものは「神」という存在を奉ることは殆ど、その場所にたどり着くためにわざわざ登るという行為が重要なのであり、言ってしまえば苦労をせずにロープウェイで登ってしまう神社など何も意味がない。その苦労する過程(プロセス)が重要なのである。この辺のことは「かみちゅ!」を見て思ったことなのだが。このことが、さらに電脳コイルの世界とリンクしてゆく。 終盤、ハラケンはカンナのメガネに入っていた道のデータ通りに、歩いてみる、そうすると古い空間に出るのである。このことこそまさに、道(=プロセス)によって古い空間(=神社)が発現するというこの構造とまったく一緒である。最終的には神社はあまり重要な意味を成してはいなかったが、中盤までの神秘性のある世界観を非常によく演出してくれる重要な存在であったといえる。
 電脳世界のような認識が支配する世界を、何らかの「理解不能な」規律をもって存在している不思議な存在である神社、神のイメージと重ね合わせることにより、イリーガルや古い空間、都市伝説といったユビキタス社会には信じがたいものに血を通わせているのである。


やる気があったら、もう少しまとめようと思うけど…