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「目を覚まさないで」

目を覚まさないでほしい。
そう思ったのは雪の降るある日のことだった。
可愛い寛和。このまま目を覚まさずに眠り続けてほしい。
そう思って生まれた時から彼が眠り続ける部屋に入って髪を撫でた。

弟の寛和は良く分からない子だ。なにせずっと眠り続けているのだから当たり前だ。
生まれたとき頭を打ったわけでもなく健康そのものだというのにずっと眠り続けている。
けれども他の同じような子供とは違って栄養もほとんど必要とせず、美しく成長し続けて現在に至る。
そして俺はその傍ら、寛和を心配し続ける両親とともにその過程を見続けてきた。
美しく伸びてゆく髪。白い項から覘く、年々すべらかになってゆく肌。その鼻梁。その足その肌その顔その腕その首その唇。すべてすべてすべてすべて。すべて、俺は見続けてきた。
それを不思議がりながら、それならば目を覚ましてくれと祈りながら、両親と俺はずっと過ごしてきたのだ。
決して開かない閉じられた瞳。その瞳が開いたら、どんな色だろう?
決して動かない閉じられた唇。それが動いて揺れたなら、どんな声が降るのだろう?
俺はそれが分からなくてもどかしかった。ずっとそれを祈っていた。

けれどある日、親父が死んだ。寛和に触ろうとして、そして母さんに刺されて死んだ。
母さんは叫んでいた。寛和にこの人は厭らしい事をしようとしたの、と。
そして母さんはいなくなった。刑務所に行った後、実家に帰るといって飛び出していって、後は知らない。
幸い財産は残っていた。それを大切に使いながら、俺は寛和と共にいた。寛和の成長は止まっていたけれど、でも年々美しくなっていった。刻々と美しくなる、その足その肌その顔その腕その首その唇。そのすべてすべて、すべて。俺はずっと眺めていた。寛和の体を拭きながら、寛和にたまの食事を与えながら、寛和を着替えさせながら、ずっとずっと眺めていた。
夏が幾度も過ぎた。蝉が幾度も庭で死んだ。
秋が幾度も過ぎた。紅葉が幾度も庭で朽ちた。
春も幾度も過ぎた。花が幾度も庭で枯れた。
冬だって幾度も過ぎた。鳥が幾度も庭で凍えた。

その間俺はずっと、寛和を眺め続けていた。

たまに話しかける。返事はない。けれど話す。それしかない。
たまに抱きしめる。動きはない。けれど抱きしめる。それしかない。
それを繰り返す。繰り返しては繰り返す。日々ずっと。仕事に出かける前、帰った後、ずっとずっと繰り返したのだ。
そしてある朝、雪が降って、そして思った。寛和の首に手をかけながら。
目を覚まさないでほしい、と。

美しい美しい、可愛い可愛い寛和。その声は、その瞳は、どんなものだろう? どんな色だろう?
それは熱情だった。まるで焦げ付くようなそれは俺を簡単に焼き尽くした。その瞳もその声も俺のものにしたくて、何度も寛和に話しかけて抱きしめた。
でも、寛和は目覚めない。まるで何かを拒むかのように、何かを待っているように目覚めない。
俺はいつまでも熱いのに。熱にやかれてつま先から手のひらの先、視線の前頭の底、全部寛和のものなのに。
俺はいつも熱かった。ずっと内にこもった熱が、それでも答えてくれない寛和が憎かった。

それが弾けて捻じ曲がるには、そう時間はかからなかった。
俺は寛和の声を想像していた。それは鶯よりも美しい声で、到底人のものではなかった。
俺は寛和の瞳を想像していた。それは虹より鮮やかで、到底現のものではなかった。
けれどそれは俺の寛和だった。それこそが俺の寛和だった。
だから。
俺は人であって現である、寛和がこのままでいてほしかった。
寛和がこのまま目をつぶっていればいい。そうしたら寛和の瞳は俺の思う色だ。
寛和がこのまま何もしゃべらなければいい。そうしたら寛和の声は俺の思う響きのままだ。
その考えは俺をひどく甘美に惹きつけた。

だから俺は寛和の髪を撫で、首に手をかけた。このまま目を覚まさずにいればいい。そう思いながら手をかけて、そして少し力を込めた。
寛和は動かない。俺はもっと力を込める。
寛和は動かない。俺はさらに力を込める。すると、

寛和が動いた。

俺は仰け反った。

その日俺は寛和を殺せなかった。寛和が動いたからだった。その瞳が開くかも知れず、その唇が音を発するかもしれないからだった。
俺は寛和の声を想像していた。それは鶯よりも美しい声で、到底人のものではなかった。
俺は寛和の瞳を想像していた。それは虹より鮮やかで、到底現のものではなかった。
けれども俺は知っていた。寛和の声も瞳も、どんなものでもいいことに、俺は気づいていた。

俺は寛和に目覚めてほしい。
その声と瞳を味あわせてほしいから。
俺は寛和に目覚めてほしくない。
その声と瞳を独り占めする、
哀れな兄を知られたくないから。

目を覚ましてほしい。目を覚ましてほしくない。
俺はただただその狭間で、今日も寛和に少し触れる。寛和はまだ動かない。

その唇に口付けることを、寛和が許してくれるまで、俺も、まだ、動けない。