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クリスマスまであと1ヶ月

「…ごめん、好きな人できた」
唐突に告げられた別れの言葉。
それも、今年のクリスマスはどこで迎えようか?と話してる真っ最中に、だ。
「う…嘘だろ?」
何度その言葉を否定してもあいつは「ごめん」と謝るだけで、
俺の何が気に入らなかったのか、相手は誰なのか、
いつから俺を好きでなくなったのかという質問にも答えようとしなかった。
「ごめん。本当にごめんな」
そう言ってあいつは俺の頭をくしゃっと撫で、俺の前から立ち去る。

どれぐらいそうしていたんだろう。
俺はあいつが立ち去った後もずっとその店のカウンター席に座ったままで。
「あの…お客様。そろそろ閉店なんですが」
とカウンターの中のバーテンダーに言われてふと気づけば
目の前のロックグラスに入ったウイスキーはすっかり氷が溶けていて、
とんでもなく薄い水割りと化していた。
閉店と言われてしまった以上、このままここに居座るわけにはいかない。
慌ててその出来損ないの水割りを一気にあおる。
出来損ないとはいえ元はアルコール度数の高いウイスキー、
食道から胃に伝い落ちるまでにちりちりとした熱さを感じる。
まるでそれはたった今失恋したことを身体に実感させてるみたいな感覚。
不意に目の前が歪む。というより、滲んで視界が曇る。
「す…い…ませ……。すぐ……出ますから…」
と口では言ったものの、立ち上がることができない。
「仕方ありませんね」という声が聞こえた気がしたが、
俺が鼻をすする音に混じってしまったのと、
涙を止めることで精一杯になってしまったことで
実際にはバーテンダーが何を言っていたのかよく分からなかった。
やっと涙を止めることができたと思ったそのとき、
すっ…と音も立てずにカウンターの向こうから
差し出されたお絞りに気づいて顔を上げる。
目の前に立っているはずのバーテンダーの顔は俯きがちで見えなかった。
バーテンダーの視線の先へと自分の目線を下げれば、
シェイカーの中に数種類の酒を入れている真っ最中。
数個の氷を入れてふたを閉め、慣れた手つきでシェイカーを振る。
シャカシャカシャカシャカ…と、小気味良い音がしばし続いた後、
キャップを開けてそれをカクテルグラスに注いだ。
その一連の動作、特にこの人のは機敏かつ優雅で美しい、と思う。
何軒もバーを訪ねたわけでもないし、
バーテンダーの動きをじっくり眺める機会も数多くないが。

仕事終りの一杯としてバーテンダーが飲むのだろうと思っていたカクテルは、
なぜか俺の前に置かれた。
「あ…、え? あの…これ…」
「この分のお代は結構ですから、
 これを飲んだら今日のところはもうお帰りください」
そう言って彼は忙しそうにカウンターの上を片付け始めた。
「……あ、ありがとうございます。いただきます」
訳が分からぬままとりあえずお礼を言い、俺はそのカクテルを一口飲んだ。
鼻腔をくすぐる甘い香り。けど、嫌いじゃない香りだ。
それからフルーツ、それも柑橘系の甘さが爽やかに口の中に広がる。
後追いで伝わるアルコールの心地よい苦味。
「おいしいな、これ…」
3口で飲み干し、お代わりを…と言いかけて、
そういえばこれ飲んだら帰ってくれと言われたことを思い出し、
レジで会計をするついでに聞いてみた。
「あのカクテル…何て名前ですか?
 次来たときにまた飲みたいんですけど、
 初めて飲んだから名前知らなくて…」

バーテンダーは少し考えた素振りを見せた後、
「お客様、今日から1ヵ月後には何かご予定はございますか?」
と聞いてきた。
俺は咄嗟のことに何も考えずに「いえ、何も」と答えてしまったが、
その答えに彼は
「では、覚えていたらで構いませんから、
 1ヵ月後にもう一度ご来店ください。
 ご来店いただければそのときにカクテル名を申し上げますよ」
と少し微笑んで、深々とお辞儀をした。
謎めいた言葉に首をかしげながら、俺は店を後にする。
1ヵ月後? 1ヵ月後ねぇ…とタクシーの中で携帯電話を取り出し、
スケジュール機能を呼び出してみた。


お連れ様と一緒にときどき店にやってくるそのお客様は、
どちらかといえば店の雰囲気にはあまりそぐわないタイプの人でした。
最初に来店したときにメニューを見て、
「見てもよく解んねぇなぁ、俺こういうとこ来るの初めてだし。
 カクテルなんて女が頼むようなもんだろ、ラムネサワーないっすか?」
とまるでチェーン店の居酒屋メニューから抜け出せないかのような
注文をしてきたぐらいなのですから。
逆にそれが印象に残ってしまったのも事実ではありますがね。
それが2回、3回と来店するたびに
お連れ様の好みに合わせて少しずつ勉強しているのか、
「ふぅん…前飲んだ店のモスコミュールと味違うなぁ。こっちの方が飲みやすいや」
「うわっ、マティーニってこんな味だったのか。
 飯食う前に飲めばよかった…」
とメニューから選んで一口飲んだ後、
感想というか独り言というか何かしらひと言残してくださるようになり、
こちらとしてもこのお客様からいろいろ勉強することがございました。

どうやら最近は「量が少なくてすぐに飲み終わってしまう」カクテルよりも
少しずつ味わって飲めるウイスキーがお好みのご様子、
この日ご注文いただいたのはマッカランの7年物をロックで。
繊細な味の違いをお分かりいただけるなら
12年物をお勧めしたいところですが、
そこはお客様の懐具合もあることなので黙っておりますけれど。
ロックグラスを片手に持ち、お連れ様と話す姿は
なんというかこう、見ていてとても絵になる雰囲気があります。
できればお連れ様ではなく、
カウンターのこちら側にいる私に話しかけて欲しいと
思うようになってしまったのは、いつの頃からでしょうか。
酒にまつわる話以外に何もないというのに、我ながらおかしなものです。
さて、それまでのいつもと変わらぬ風景に異変が起きたのは、
そろそろ終電が出る頃だろうという時間でした。
他のお客様のお相手をしつつ耳を澄ましてみれば、
なにやらお連れ様と言い争いをしているようで。
周りのお客様のご迷惑にならないように気遣ってか
小声にしてはくださるのですが、
如何せんお話の内容はお二人の別れ話、
それも同性同士のものとあればどうしても聞き耳を立ててしまう。
結局お二人はこの場で決別したご様子、
お連れ様の方が先にお帰りになると
後に残されたお客様は茫然自失の表情のまま固まってしまわれて。
お声を掛けるのも憚られるのでそのままにしておきましたが、
閉店時間が過ぎて他のお客様がお帰りになっても
まだそのままでいらっしゃいます。

仕方なくこちらから退店を促すようにお声を掛けると、
今さらのようにご自分のおかれた状況を理解されたのか、
はらはらと涙をこぼされている。
さすがにこの状況でお帰りいただくのはどうかと思い、
表の看板を「CLOSE」に掛け変え、
お客様の涙が止まるのをじっと待っておりました。
涙に暮れるお客様の姿を見ているうちに
なんだか私は非常に切ない気持ちになってまいりまして、
なんとかして差し上げたい、慰めるとまではいかなくても
少しお心を楽にしてさしあげたいと思ってしまいました。

そうはいっても私にできることといったらカウンターのこちら側で
お客様の好みに合わせた酒を振舞うことしかできません。
歌の文句にそんなのがあった気もしますが、
私はこのお客様のためにカクテルをお作りしようと考えました。
ときどき注文があるカクテルですからレシピは頭の中に入っています。
ブランデー、ホワイトラム、ホワイトキュラソーを同量に、レモンジュースが少量。
このお客様は辛口の酒がお好みですから、
ホワイトキュラソーはトリプルセックにしてみましょうか。
シェイカーに注ぎ入れてふたを閉め、
しっかりと両手で持って振り始めます。
よく混ぜるためには言うまでもありませんが、
お心を痛めたばかりのお客様のことを思って丁寧に、
しかし混ぜすぎて泡立たないように気をつけて。
出来上がったカクテルをグラスに注ぎ、お客様にお出しします。
理由が分からず不思議そうな顔をするお客様に向かって
「それ飲んだら帰ってくれ」だなんて、
もう少し言い方がありそうなものなのに
そう言ってしまったのはこちらにもあまり余裕がなかったから。
それ以上詮索されたくなくて、
カウンター上を片付ける素振りなどしつつお客様の反応を窺います。
「おいしいな、これ…」
そう言われてほっとしました。
このひと言こそバーテンダー冥利に尽きるというものです。

会計を済ませる段になって、
突然カクテルの名前を聞かれて少し慌てました。
それまでご注文を承る以外に話をしたことがなかったのに、
急に願ってもいなかった会話のチャンスがやってきたのですから。
そのまま素直に答えてもよかったのですが、
次の機会を是が非でも作りたくて、
思わず1ヵ月後のご来店をお願いしてしまいました。
もし忘れてしまったとしてもそれはそれまでということで構いませんが、
このカクテルの名前が
「ビトウィーン・ザーシーツ(ベッドに入って)」という名前だと知ったら、
このお客様はどんな顔をされるのでしょう?
呆気にとられるか、笑われるか。それとも「ふざけるな」と怒られるのでしょうか。
そう考えただけで私は期待と不安とが入り混じったような気持ちを胸の奥に感じます。
ちょうど1ヵ月後はクリスマス。
たとえその日にご来店されなくても、それまでの間にこのお客様のために
なにかオリジナルのカクテルを考えようと思いながら、
私は店のシャッターを下ろして帰路に向かいました。