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虹が見える歩道橋

 雨が止んだ。夕立の上がった町並みをぼんやりと見つめながら、僕は住みなれた
アパートへ帰る。
 ――何をしに、この街へ来たんだろう。
 それを考えるたび、繊細さのかけらもないはずの僕の心はちくりと痛んだ。
 答えは一つ。彼を探しに。
 兄弟でもなく、親友でもなく、だけど誰よりもそばにいて、誰よりも愛しく想っ
ていたあの人を探しに。それだけで、たったそれだけの理由で、僕はこの街を住む
場所に選んだ。
 最後に交わした言葉は、「じゃあ」と「またね」だった。その言葉に嘘は無いと、
僕はただ信じたかったのだ。
 僕たちが付き合っていたのは、随分とむかしのことだ。「子どもで、愛のことな
んか何も分かっていない」高校生だったころのこと。抱き合うことも、キスをする
ことも、手を繋ぐことさえ自由には出来なかった。
 偶然にそれが知れてしまったのは、確か夏の終わりだったように思う。僕たちは
すぐに引き離された。周りから気持ち悪いものを見る目で見つめられ、親は腫れ物
を触るように僕を扱った。世間から追われるように学校を移り、町を移った。
 そして大人になったある日、僕は愛しい人を探すために、勘当同然に家を出た。
もう、四年も前のことになる。彼の足跡を求めて、いくつもの街を転々としてきた。
 最後に噂を聞いたのは、二年前、古い友人との話の中でのことだった。「どこか
の町で、一人で暮らしている」と。
 そして僕は今、この街に住んでいる。部屋を借り、仕事を探し、そして当たり前
のように生活を持っている。友人と呼べるくらい親しい知り合いも増えた。
 最近になって、ときどき考える。きっと君がいなくても、僕はこの街で生きてい
くのだろう。それが無性に寂しかった。

 帰り道で最後の交差点に差し掛かって、歩道橋の階段に足をかけた。上着のポケ
ットに入れた家の鍵を、ちゃりちゃりと鳴らす。ふと気分が乗って、昔よく歌った
メロディーを口笛に乗せた。
 階段を上りきって、真ん中辺りまで来たところで、僕は足を止めた。西空の夕日
が眩しくて、目を細める。
 しばらくの間、そうしていたと思う。
 気を取り戻して歩き出そうとして、そして僕は、もう一度、立ち止まった。何の
気もなしに見た反対側の空に、うっすらと虹がかかっていた。多分もう消えていく
途中なのだろう、真中の緩いアーチを残して、光の粒がどす黒い雲にとけていく。
だんだん薄くなっていく虹を悲しい気持ちで見つめ、そして次の瞬間、そのおぼろ
げな虹にめぐり合えたことを、僕は心から感謝した。
 彼がいた。
 同じ歩道橋の上、少し離れたところで、僕と同じように虹を見ていた。すぐに分
かった。彼はあの頃とほとんど変わっていなかったから。
 僕はそっと、その後姿に向かって名前を呼んだ。
 後姿は振り返って、懐かしい顔がこちらを見つめてきた。少し薄い色の眼が、僕
をまっすぐに捕らえる。大きな目は驚きで、もっと大きく見開かれていた。
「……見つけた」
 言って、僕は笑った。声は少し震えていた。
「……見つかっちゃったな」
 下を向いて照れた顔を隠しながら、彼はぼそりと言った。懐かしい声だった。
「ここにいたんだね。探した。迷惑だったら、ごめん」
「そう思うなら探すなよ」「ごめん」
「許さない」「ごめん」
「……だって、許す必要なんか、始めから無いから」
 彼は笑って、僕は泣いた。
 歩道橋の上に誰もいなかったのは、本当によかった。いや、誰がいたって構わなか
った。どんなに蔑まれても、嘲笑われても、彼と一緒にいられれば、それで良かった。
「話したいことがあるんだ。たくさん、あるんだ」
「おれもだよ。たくさん、お前に言いたいことがある」
 大の男がふたり、泣きじゃくりながら手を繋いで同じ道を行く。愛のことなんか
僕は知らないけれど、繋いだ手は暖かくて少し湿っていて、それがとても嬉しかっ
た。二度と離してはいけないと思った。
 空に滲んだ虹はもう消えてなくなってしまっていたけれど、僕たちは死ぬまでそれ
を忘れないと思う。