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金髪が綺麗な受け

 その人は、俺が資格を取ったときに初めて担当を任されたお客様だった。
見習いの頃から何度かシャンプーさせてもらったり、ブローさせてもらった
りしてそのお客様の髪に触れたことがあるが、その手触りたるや極上の触り
心地、色もわざわざ染めずとも見事な金色。髪の痛みもほとんど無い。勤務
先が美容院だというのに度々先輩たちの実験台になっているおかげで毛先は
痛んで枝毛だらけ、もともとの色は赤だが何度もカラーリングされたりメッ
シュを入れられたりしたから頭の上で泥まみれのチラシ広告が再現されてい
るような様相を呈している俺にとっては、なんともうらやましい髪質の持ち
主だった。
 もともとは先輩の1人が担当していたお客様。その髪を初めてカットした
ときに資格を取ったばかりで慣れていないからすごく緊張してしまい、指定
されたよりも少し、いやかなり短く切ってしまった。俺はお客様に怒鳴られ
るんじゃないかと内心どきどきしていたのにもかかわらず、「こういう短い
のもいいものだね」と笑って許してくれたこともあり、それ以降自分の中で
は最も大切なお客様だと思っている。

 ある日のことだ。その日もいつもと同じように他のお客様に混じってその
お客様の予約が入っていた。いつものように俺は笑顔でお客様をお迎えし、
カット前にシャンプーを施す。
 この人の濡れた髪がまたいい感じの手触りで、いつだったか資格を取る前
に俺と同じように資格を取るべく同じスクールに通っていた中国人の友人が
趣味で使っている「毛筆」なるものの手触りによく似ている。友人が言うに
は「毛筆」は質のよいものを選べばそれなりに値が張るものだそうで、そい
つが使っていたものは自分が普段使っているカット鋏の約3分の1ぐらいの金
額のものらしい。比較の対象にするのはいささか申し訳ない気がするが、友
人の使っているそれと比べてもこのお客様の髪の方がはるかに手触りが良い。
 できることならずっと触っていたいが、そのままではカットできなくなっ
てお客様が帰れなくなるため、仕方なくスタイリングチェアーにご案内する。
「今日はどのように致しましょうか、ミューゼル様?」
「毛先だけ揃えてくれればいいよ」

 おや、と思った。担当を任されてから既に2年、イメージチェンジと称し
て何度かパーマを掛けたことはあっても、だいたいミューゼル様は短めの長
さの髪型がお好みのはずだ。前回のご来店から数えて約3ヶ月、耳は出す形
で切り揃えた髪型は今は半分くらい耳が隠れる長さに伸びている。
「では、ゆるめのパーマをお掛けしますか?」
と確認するも、
「いや、いいんだ。本当に毛先を揃えるだけでいいから」
とすぐに返事が返ってきて、鏡の向こうでにこりと微笑む。気分が和むんだ
よな、この人の笑顔は…と思いつつ、思ったことを顔には出さないで
「かしこまりました。それでは今日は…そうですね、1cmほどカットして毛
先を揃えますね」
と注文を復唱し、腰のホルダーからカット鋏を取り出した。

 「ごめんな。ちょっと事情があってね、しばらくここに来れなくなると思
う」
と、切り揃えている最中に言われた。来店されなくなる事情は人それぞれだ
と思う。ましてやスタイル維持のために…というか、俺自身がこの手触りの
禁断症状を起こしそうになるからなんだが、できれば月1回は来て欲しいと
思って何度かその旨を伝えたことがあるにもかかわらず、ミューゼル様が仕
事の都合で3ヶ月に1度しか来店できないと言っていたことを俺は覚えている。
だから、
「長期のご出張とか転勤ですか?」
とありがちなことを言ってみたら、そうではなかったらしい。
「実は…、願掛けすることにしたのでね」
「願掛け?」
「ああ。その願いが叶うまでは髪を切らないことにしたんだ」
思わず手が止まる。
「好きな人が出来てさ…」
ああ、そういうことか。

 ミューゼル様の顔はなんというか、男にしておくのがもったいないくらい
のとても美しい顔をしている、と俺は思う。美容師の端くれとしてその考え
はどうかと思うが、長い髪もミューゼル様のお顔と体格ならきっと似合うだ
ろう。白磁のようなキメの細かい肌に、陽の光が映えるしなやかな金髪。指
先で玩んでも気持ちいいのだから、その頭に顔を埋め、長い髪を顔全体で感
じることができたらさぞや…と考える。
 そのまま後ろから抱いて、突き上げて、均整の取れた身体をほんのり桜色
に染めさせて。泣きながらよがり声を上げる様を見てみたいと夢想しては、
収拾がつかなくなった自分のものを擦り上げて果てさせる。そんなことを独
り自宅で何度もしていたために、この突然の告白はかなりショックだった。
 相手には自分の気持ちはまだ伝えていないのだとか、その相手がミューゼ
ル様の髪を見て「とても綺麗な髪だから、長く伸ばすと顔立ちに映えるんじゃ
ないか」と言ってくれただとか、うれしそうに話しているミューゼル様。適
当な相槌を打ちながら鋏を動かしていたが、実際のところほとんどミューゼ
ル様の話は頭に入ってこなかった。
 ただ、この美しい髪に触れられなくなることがつらくて、この癒されるよ
うな笑顔が見られなくなるのが嫌で、俺はひたすら鋏を動かし続ける。何度
も指を梳き入れ、途中チョキチョキと音だけ鳴らして切ってる振りまでして、
その触り心地を胸に刻んだ。

 いつもは1時間ほどで終わる施術なのに、俺が散々いじり回していたおか
げで時計の針が30分ほど進んでいた。
「ずいぶん時間を掛けてくれたんだね。次のお客さんの予約は大丈夫?」
と自分のことはさて置いて俺のことを心配してくださる心遣いがとてもうれ
れしい。それなのに、これでしばらく会えないと思うとミューゼル様のお相
手の…たぶん女性なんだろうな、それもミューゼル様にお似合いの美人の、
会ったことも無いその彼女が俺は憎らしくて、思わず「髪伸ばさないで下さ
い」と言いそうになる。
「このまま伸ばしていってもスタイルが崩れないようにしたつもりですが、
お帰りになってどこか気になるところがあったら遠慮なくご来店ください。
すぐ手直しいたしますから」
喉元まで出掛かっていた言葉を修正して吐き出した。預かっていた手荷物を
渡し、会計のためにレジを操作する。
「どうもありがとう。しばらく来れないけど、お店が繁盛することを祈って
るよ」
と笑顔と共に店を出ようとしたミューゼル様を、
「あ…あの!」
と引き止めていた。
 「ん? 何か?」
と出入り口の扉に手を掛けていたミューゼル様の動きが止まる。

 言え。ここで言うんだ。「3ヵ月後の同じ日に予約入れておきますから来
てください」って。「あなたが好きなんです。だからこれからもずっとあな
たの髪を切らせてください」って。そうすればまた会えるだろ、と自分の中
で悪魔が囁く。
 いや、駄目だ。言ってはいけない。言えばきっとミューゼル様は店に来な
くなるし、まるでミューゼル様の願掛けが失敗するのを願っているみたいじゃ
ないか、ともう一人の自分が必死に抵抗している。
 数秒の葛藤の後、俺の口から飛び出した言葉は。
「あの…願いが叶うことを祈ってますよ」
 馬鹿だ、俺は。美容師の営業活動としても失敗してるし、自分のミューゼ
ル様に対する個人的な想いを告白することにも失敗してる。これじゃ退店し
ようとしていたミューゼル様を引き止めた意味がないじゃないか。
「応援してくれてありがとう。それじゃ、いつかまた…」
俺の心の苦悶には気づかないまま、そう言って片手を挙げて振りながら去っ
ていくミューゼル様。
 俺はミューゼル様の姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くしてしまい、
次のお客様を長時間待たせていることに気がついた店長に後ろから頭を叩か
れるまで、だんだんと小さくなっていくその美しい金髪の後ろ姿をじっと見
つめていた。

 あれからミューゼル様は本当に予約の電話を掛けてこなくなった。ご自分
の願いが叶うその日まで店には来ないはずだから納得はできるが、あの美し
い金髪の感触はとても忘れることができず、俺の気持ちは落ち着かないまま
だ。毎日何人ものお客様を相手に鋏を振るうが、常連客を含め飛び込みで
入ってきたお客様の中にも、ミューゼル様と同じ髪質の持ち主はいない。
 最後に来店されたときに切った髪の毛の一部をこっそり持ち帰って正解
だったと思う。間違って捨ててしまったり、風に飛ばされて無くなったりし
ないように、ぱっと見た感じではそうとは見えないような形のシルバーのロ
ケットを購入してその中に持ち帰った髪の毛を入れ、それを自宅の鍵をつけ
ているキーホルダー金具につけたのも我ながら名案だった。禁断症状が出そ
うになったときや、性欲が溜まって自己解消させるときにそれを握ってあの
人のことを思い出す。仕事中にも難しい施術を行うときの前にスラックスの
ポケットに入れたそのロケットキーホルダーを握ることでどうにか俺は苛立
ちを抑えている。そうでなければ俺は今頃ミューゼル様に会えない寂しさに
荒れ狂い、その苛立ちをお客様の髪にぶつけて、注文された髪型とは違う滅
茶苦茶な型にしていたことだろう。
 しかし、その自分の中での「疑似行為」ももはや限界に近い。当初は1日
1回、それも朝自宅を出る前だけだったのがだんだんと回数が増え、今は10回
を軽く超えている。時々直接触って確かめていることもあるからなのか、ロ
ケットの中の短い髪も時間が経つにつれて劣化していて、持ち帰ったばかり
の頃のあの艶や手触りはもう失われている。
 このままじゃ顧客名簿の中から住所を探して場所を割り出し、ご自宅に押
しかけて髪を触るべくミューゼル様を襲いかねない、と自分自身でも寒気が
するほど嫌なことを思い始めた矢先のことだった。あれから3年経っていた。

 強い雨の降る日だった。この店では当番制で閉店作業を行うことになって
いて、その日は俺がその当番だった。汚れたシャンプー台や鏡、スタイリン
グチェアーなどの掃除をしたり、消毒器に使用済みの器具を入れたり、洗濯
の終わったタオル類を乾燥機に移しかえたりと、美容院は閉店後もやること
が多い。慣れた作業とはいえ疲れるなと思いながら2時間掛けて店の隅々まで
きれいにした後、照明を消して鍵を掛け、表のシャッターを下ろしたその時
だった。
「こんな時間に予約も無しに来て申し訳ないが、髪を切ってもらえないだろ
うか?」
後ろから声をかけられた。
 聞き覚えのある声に振り返れば、この土砂降りの中を傘も差さずに立って
いる人がいる。俯きがちの顔を隠すように垂れた長い金髪がぐしょぐしょに
濡れていて、長い時間雨に打たれていたことが良く分かる。
「申し訳ありませんが、もう店内清掃を済ませてしまいまして…。もしよろ
しければ今ご予約だけ承りますので、明日ご来店いただけないでしょうか?」
と照明を消す前に見た明日の予約リストの空き時間を頭の中で探しながらそ
う伝えると、その人物は突如自分の両肩を掴んで、俯いていた顔を上げて俺
の顔を見た。
「今日でなければ…、今日でなければ駄目なんだ。代金なら倍払っても構わ
ないから、頼むから私の髪を切ってほしい」
 雨で身体が冷えているのか、眼が泣き腫らしたように赤くなっているから
なのか、声がかなり震えている。
 俺が今いちばん逢いたい人の顔がそこにあった。ミューゼル様だった。

 「そのままではお身体が冷えますでしょう? 狭い風呂場で使い勝手が悪
くてすみませんが、とりあえずシャワーを浴びて身体を温めてください」
 店とは違って必要なものが何でも揃っているわけではないが、ときどき友
人にカットモデルを頼むこともあり、俺の部屋にはそれなりに道具が揃って
いる。また2時間かけて掃除をするのも嫌だったし、黙って店の道具や消耗品
を使うと後で店長に説教されると思ったので、俺は店からそれほど離れてい
ない自分の小さなアパートにミューゼル様をお連れした。
 ミューゼル様の髪のカットに必要な道具をテーブルの上に揃え、床にはビ
ニールシートを敷く。
 今日髪を切らなければならないミューゼル様の事情はどうあれ、あの素晴
らしい髪にまた触れることができるのだと思うと、自然と気持ちが舞い上が
る。久しぶりだからできるだけ丁寧にカットしよう。カットした後で床に落
ちた髪を、ロケットのものと交換してもいいだろう。しかも今日は次のお客
様もいないし、ここは自分の家だから小言の多い店長や施術中にイタズラで
邪魔をしてくる先輩もいない。ミューゼル様のお時間が許す限り好きなだけ
触ることができるし、うまくいけばその先の展開もあったりして…なんてな。
その場で小躍りしたい気持ちを抑え、俺は準備をしながらミューゼル様が風
呂場から出てくるのを待った。

 さすがにスタイリングチェアーは自宅にないので、いつも友人の髪をカッ
トするときに使っているテーブルセットの椅子をビニールシートの上に持っ
てきて、そこに座ってもらう。
「さて…今日はどのように致しましょうか?」
「君に任せるよ。うんと短くしても構わないから」
ということは、願いは叶ったんだろう。嫌なことを思い出してしまったと思
いながらも、
「それでは…トップは○センチ、サイド○センチで…」
と今のミューゼル様に似合いそうな髪型のイメージを伝える。頭の中のイ
メージではそれでも微妙に似合っていないような気がしたが、現状ではそれ
しか思いつかなかった。「…とこんな感じでカットしますね」とテーブルの
上のカット鋏を右手に握り、その長い髪を一房手に取った瞬間。
「……う……ぅっ…」
それまで笑っていた鏡の向こうのミューゼル様の顔が、不意に曇ってくしゃ
くしゃになる。口元に手を当て、嗚咽が漏れるのを防ごうとしているみたい
だが、指の隙間から聞こえるその声と、目元から落ちる涙が気になって仕方
がない。鋏を入れている途中で首を曲げたり、身体を動かされたりするとき
ちんと長さが揃えられないため、肩を震わせて泣いているこの状態のままで
は施術を始めることができないのだ。俺は握ったばかりの鋏をテーブルに戻
して聞いてみた。
「どうしたんですか? 願いが叶ったから、髪を切りに来たのではないので
すか?」

 「叶ったことは叶ったんだ。だが…振られた。というか、捨てられた」
「おっしゃっていることがよく分からないですよ。そういえば…今日どうし
ても髪を切らないといけないって店の前で伺いましたが、何か特別な事情が
おありだとか…?」
人前で男が泣く、それも…それまで年に4,5回会うだけだった一介の美容師に
3年ぶりに会って、そのまま髪を切りに来た状況で泣くだなんて、よほどのこ
とがなければあり得ない。俺はミューゼル様の姿を映していたスタンドミラー
の前に回ってひざまずき、
「差し支えなければ話していただけませんか? この3年間に何があったのか。
他の誰かに話したりはしませんし、ミューゼル様がお話できる範囲で構いま
せんから」
と真剣な表情で話しかけると、
「確かに願いは叶った…」
と少しずつ、店に現れる前にもずっと泣いていたからなのだろう、いくらか
かすれた声で、
「好きな人に自分の想いを伝えることもできたし、それを伝えた当初は幸い
にも相手も同じ気持ちを自分に持っていると思った…」
ミューゼル様は話し始めた。

 1時間近くに及ぶミューゼル様の話を要約するとこういうことらしい。
 ミューゼル様のお相手はご自分の勤める会社に中途採用で入ってきた人で、
慣れるまでの間のサポート役としてミューゼル様が仕事の内容についてその
人を指導していた。朝から晩までほぼ1日中顔をつき合わせて仕事を教えて
いるうちにミューゼル様はその人に対していつのまにか恋心を抱くようにな
り、その人が勧めてくれたこともあって願掛けのつもりで髪を伸ばすことに
した。それがちょうど3年前、最後に髪を切りに来てくれた頃に当たるようだ。
 お相手の人が「このくらいの長さからが好み」と言った、襟足でひとくく
りにまとめられるくらいの長さになった1年半後、ミューゼル様は自分の想
いを告白した。受け入れられるかどうかとても不安だったが、どうやら相手
も自分と同じ気持ちだったらしく、他に何の障害もなかった為そのまま2人
は交際を始めたそうだ。ところが、付き合い始めて3ヶ月ぐらい経った頃、
ミューゼル様は自分の想いを胸に秘めていた頃には考え付かなかったことで
悩むことになった。

 その悩みというのが、交際相手の人がとても独占欲が強い上に自分の思い
通りにならないとすぐミューゼル様に不満をぶつけてくるタイプの人であっ
たこと。その上何かとミューゼル様を「束縛」したがる人だったらしい。最
初は優しく接してくれたその人が少しずつ本性を現し始め、気がついたとき
には既に遅かったとのこと。ミューゼル様は従順な奴隷として接しなければ
ならず、嫌な仕事や雑務は全てミューゼル様任せ、その仕事振りすら気に入
らないときは手枷や足枷で身動きを封じられ「お仕置き」と称して叩かれた
り蹴られたりしたそうだ。そんなに邪険に扱われながらもミューゼル様はそ
の後にお相手から与えられる「ご褒美」がうれしくて、嫌な顔ひとつせずそ
れらの「お仕置き」に耐え、その人を喜ばせるべく時には危険を冒してまで
その人に言われた「命令」に従っていた。
 しかし、俺から見ればある意味常軌を逸脱しているのではないかと思える
「幸せな交際」が破局したのはつい昨日のことだそうで。3日ほど前にお相手
の人に電話呼び出されたミューゼル様は、指定された場所に向かった。いつ
ものように手足を拘束されて「お仕置き」されるのだろう。どんな「お仕置
き」だろうと、その後の「ご褒美」のことを考えれば耐えられると思ってい
たのだが。

「レイプされた。それも、自分の勤めている会社の社長が遣わした者数名に」
ミューゼル様は俺と同性の男だ。なのに、レイプって何だよ。社長が派遣し
た奴って何だよ。俺は頭が混乱したまま続くミューゼル様の言葉を聞く。
「企業スパイだったんだ、私の交際相手は。私はその人の代わりに自らの手
を汚して社内の機密文書やまだ開発中だった極秘プロジェクトの企画書を入
手し、命じられるままにその人にそれらの書類のコピーを渡していた。その
人はそのコピーを、私の勤めている会社とは対立関係にあるライバル会社に
横流しすることで不当な報酬を得ていたようだ。その会社はに横流しされた
書類を使うことで私の会社を倒産に追い込み、それが一因となってで私と私
の交際相手による背任行為が会社に暴露された。私とその人はその責任を追
及されることになったが、社長に指定され事件の全容を釈明するはずだった
内部調査報告会の日に相手は逃げて行方不明になってしまった。きっと自分
の罪を私に全て被せるためだったのだろう、社長の話ではその人が社長に密
告したらしい。だから私はその人の代わりに懲戒解雇と、社長の見ている前
でのレイプという形で全責任を取らされた」
そんなひどい話はあり得ないし、考えたくもない。それでも自分の目の前に
座っているミューゼル様はそれを経験してきたのだ、掛けるべき言葉を見失
い、俺はその場に座り続ける。

 「そんなになっても私はその人を信じ続け、その人が自分のところへきっ
と戻ってくると信じて疑わなかった。しかし、その…彼は…『お前は所詮俺
の道具、それも使い捨ての道具でしかない。お前にやってもらうことは全て
終わった。これでもう用が済んだから、お前はもう必要ない』と言って私を
裏切り、私を捨てた」
「彼」? 「彼」だって?! 確かに俺もミューゼル様に対して邪な想いを抱
いてはいるが、同じ男としてミューゼル様が話してくれたその男の行為は到
底許せるものではない。
「私がレイプされている間にその人は住んでいたアパートを引き払い…、唯
一の連絡先だった…携帯電話の番号を、今日から着信…拒否にされてしまっ
て……」
そんな衝撃的な告白をさせてしまったことが申し訳なくて。
「それでも彼を愛してる自分が情け…なくて…、自分でも許せなくて……」
どう受け止めたらいいのか分からなくて。
「だからせめて…あの人が…好きだといってくれた髪を切れ…ば…、忘れら
れるんじゃないかと思ったから……」
「ミューゼル様!」
思わずその身体に抱きついていた。

 一切の抵抗をしなかったことでその男の暴力的な愛を必死に受け止めてき
たミューゼル様の髪を撫でる。きっとその彼氏やミューゼル様をレイプした
奴らが散々引っ張ったり、蝋を垂らしたり、火で炙ったりと相当酷い扱いを
したのだろう、時間が経って少し乾いてきたあの美しかったはずの髪はひど
く傷んでいた。あちこちから切れ毛や枝毛が飛び出していて、触り心地は俺
のロケットの中の髪と同じぐらいに最悪のものだった。
「もういいですよ、ミューゼル様」
聞きたくなかった。これ以上この人の穏やかな口調の、しかし悲痛極まりな
い叫びを俺が聞けば、この人の心は粉々に壊れてしまう。そう思った俺は髪
を撫で続けた。
「なるべく早く…切って、しまおうと……」
こんなことでこの人に笑顔が戻ってくるとは思わなかったが、
「もう話さなくて結構ですから…!」
この人の受けた心の傷が癒されるとは思わなかったが、
「ミューゼル様の髪は、私がちゃんと元通りにして差し上げます。必ずです」
それでも俺は髪を撫で続ける。
 このままキスしてしまいたい。いっぱいキスして、髪だけでなく身体中を
撫で回して、その男から受けたミューゼル様の「傷」を少しでも消してしま
いたい。
「今日私がこのまま髪をカットしたら、なんだかものすごい失敗をしてしま
いそうで怖いです。ですから、今日はトリートメントで髪に栄養分を補給し
て、今度改めて髪を切ることにしましょう」
そう思う気持ちをぐっと堪え、ミューゼル様の背中に回していた腕の力を強
めて耳元に囁いた後、俺はトリートメント剤を作るべく立ち上がった。

 「たとえ失敗したって3ヶ月経てば髪が伸びるからそのときに修正してく
れればいいから」とミューゼル様は言ってくれたが、まだまだ未熟なこんな
俺だって美容師の1人だ、失敗しそうだと分かっているときに無理な施術を
したくない。そう思ってできるだけ丁寧にトリートメントを施し、洗い流し
てブローをした。すると。
「……これが、私の髪なのか?」
 3年間他人に気を遣うことに精一杯で自分のことは何一つ気に掛けなかった
その髪の持ち主が驚いていたのは仕方ないとして、たった1度のトリートメ
ントでは無理だろうと思っていた俺もびっくりした。かつての手触りの良い、
適度な柔軟性とコシを持ち合わせた、あの美しい金色の髪がそこにあったの
だから。 
「え、…ええ、これがミューゼル様の髪です。2週間後にもう一度トリート
メントをすればもっと綺麗な髪になりますよ」
そう言って俺は、スタンドミラーの向こうで驚いたままの人物に顔を近づけ
て笑いかけた。
「私は短い髪のミューゼル様しか拝見したことがありませんでしたが、こう
して見るとミューゼル様は長い髪もよく似合いますね」
「本当にそう思う?」
「ええ」
「そうか……」
相変わらず目元は赤くなっていたが、ミューゼル様の表情がそれまでの曇った
感じから一転し、かつての快活な感じが戻ってきたかのように見える。

 カットクロスとタオルを外し、預かっていた手荷物を渡す。ミューゼル様
の着衣はまだ濡れていたのでサイズが違うが俺の服を貸すことにした。
「お時間がございましたら、そのときにカットとトリートメントをさせてい
ただきますので、ぜひ2週間後に店の方にご来店ください。それまでには
ミューゼル様にぴったりの髪型を考えておきます」
と言って玄関へ送る。
「…あ、そうか。代金を」
と玄関扉の前まで来たときにミューゼル様が振り返るが、
「い、いいえ、お代は結構です。わざわざ自宅まで来ていただいたのに、ト
リートメントだけでカットできなかったし、店と違って何かと不自由にさせ
てしまいましたから」
と慌てて言った。
「しかし、トリートメント剤だってそんなに安いものではないのでは…」
「あれは自分が使うのに社員販売割引で店から分けてもらってるものです」
「…こちらが無理やり押しかけて、君の貴重な時間を潰してしまったし」
「貴重な時間だなんてそんな…。店から帰ったら食事して風呂に入って寝る
だけですよ」
しばらく玄関先で押し問答が続いていたが、そのうち俺は金ではないもので
支払ってもらう方法を思いついた。

 「分かりました。では少しだけいただきます」
「いくら払えばいい?」
と財布を出そうとするミューゼル様の手を握って制止した後、腰に手を回す。
そのまま顔を近づけ、ミューゼル様の唇に自分の唇を合わせた。
「ん! …ぅ…っ」
もう片方の手で髪を撫でる。
「…く、……う…っ、ふ…」
頭のどこかで警鐘が鳴っていたが、止まらなかった。
「…う…ん、っん」
舌先で唇の表面をなぞり、撫でていた指の間に髪を梳き入れ、軽く握りこむ。
指先から伝わってくる感覚に気分が高揚しすぎて、身体中が痺れるような気
がしてくる。
「……ぅ…、…く…はっ…」
次第に俺の方が息が苦しくなってきて、これ以上キスしていたらうっかりそ
の先に進んでしまいそうで、慌てて口付けを解いた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「はっ、はっ、は…」
互いの荒い息遣いが狭い玄関先で交差する。
「ありがとうございました。お気をつけてお帰りください」
呼吸音が元に戻った後、そう言って俺は玄関のドアを開けミューゼル様の帰
宅を促す。何か言おうとしていたみたいだったが、何も言わずミューゼル様
は俺のアパートを出て行った。

 足音が遠ざかっていく。完全に俺の耳に聞こえなくなった瞬間、
「やっちまった…」
俺はその場にへたり込んだ。
 俺は、自分の想いを告白することでミューゼル様を傷つけるようなことは
したくない。そう思ってミューゼル様に抱いている感情をずっと自分の胸の
中だけに留めておいたが、さすがに今日の話を聞いていたらなんとかして差
し上げたくなった。これからは俺が傍についてると、俺がミューゼル様をお
守りすると伝えたかった。前の彼氏とやらと同じことをすれば更にミューゼ
ル様は傷つき、絶望するだろうと思ったから、できるだけミューゼル様が傷
つかない方法を取ったつもりだったが、何も言わず出て行ったことを考えれ
ばそれなりに俺に失望したのかもしれない。
 2週間後に来てほしいとは伝えたものの、ミューゼル様はきっと店には来
ないだろう。思い出したくない過去の話を話させたばかりか、話したことで
情緒不安定になっているときに、その心の揺らぎにに付け込んで俺がミュー
ゼル様を騙したのだ。もしかしたら俺が原因で人間不信に陥るかもしれない。
俺とのキスが昔の彼氏とのことを思い出させてしまう可能性もある。
「ミューゼル様、申し訳ありません…」
俺はポケットの中のキーホルダーを握りしめ、もう2度と会えないであろう
幻に謝罪した。

 「それじゃお先に失礼します」
「ああ、お疲れ様。また明日な」
その日の仕事が終わった俺は、いつものように店長や先輩に挨拶して店を出
る。家に向かう途中のガソリンスタンドで適当に食料を買う。
 さて、今日は何を食べようか…と考えながら自宅の前まで歩いてくると、
誰かが自分の部屋の前に立っているのに気がついた。深めに帽子を被っては
いたが、肩にかかる金色の髪でそれが誰だかすぐに分かる。
「店の制服には名札はついていないし、ときどき配達されるダイレクトメー
ルにも書いてなかったから今まで知らなかったが…君の名前はジークフリー
ドというのだね。表札を見て初めて分かったよ」
「み、ミューゼル様! どうして…」
俺は信じられなかった。あんなことをしたにもかかわらず、ミューゼル様は
笑顔でそこに立っている。
「借りた服を返しに来た」
「そんな…そろそろ処分しようと思っていた服だから返さなくていいと申し
ましたのに」

「服を返すためだけに来たのではないよ」
「え?」
そこまで言うとミューゼル様は急に口ごもり、俺からの視線を逸らす。
「約束だったし、その…店には行きにくくて、だから、あの…」
頬が薄く染まっているのは、気のせいだろうか。
「トリートメントとカットを…お願いしようと思ってね。それで代金は…あ
の…、何といえばいいか、その……」
そういえばあの雨の日から数えて今日がちょうど2週間後だったな…と思い出
した。
「かしこまりました。狭いところでなにかと設備が不十分ですがどうぞお入り
ください」
俺は心の中でガッツポーズを取った。顔がにやけそうになるのを必死にこらえ、
玄関の鍵を開けてミューゼル様を先に部屋の中に通した。