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またもう一本煙草に火をつけるのは、忘れることを習う為

酒の呑み方を教えてくれたのはあなたでしたね。
ビール、日本酒、焼酎に限らず、いろんな国の酒とともに、
それに合うつまみや料理の選び方。
それらは仕事の接待の席でとても役立っていますよ。
あなたがときどき買ってきてくれた白ワイン、
この間酒屋で見かけましたがあんなに高いものだとは思いませんでした。

一人暮らしで必要な生活術を教えてくれたのもあなたでした。
上京して間もない僕に、光熱費の節約方法から
効率が良い掃除や洗濯のやり方、果てはゴミの出し方に至るまで。
アパートに引っ越してきたその日にあなたが
「部屋の中に1つぐらい植物を置くと気持ちが落ち着くから」と
プレゼントしてくれたサボテン、昨日1輪だけ花が開きましたよ。

──雲の隙間から時々顔を出す太陽の光が、部屋の中をちらちらと照らす。
眩しいなとカーテンを閉めようと手を伸ばして、そこにカーテンが掛かっていないことに気づく。
そうだ、さっき畳んでダンボールに詰めて運び出したんだっけ…と苦笑し、
彼はシャツのポケットに入っていたケースから煙草を取り出して、
鈍く光る銀色のライターで火をつけた。
深く吸い込んで息を吐く。辺りに白い煙が立ち上る。
しかし、その吸い方にはやや問題があった。
あっという間に煙草が灰と吸殻と化してしまうのだ。
まるでその肺活量を自慢しているかのように彼は吸い急ぐのだが、
もともと彼はそんな吸い方をしていなかった──。
大人の遊び方を教えてくれたのもあなただった。
パブやバーなどの酒場での振舞いや、カジノや競馬でのお金の掛け方とか。
いつだったかあなたが
「一度行ってみるといい。君はなかなかハンサムだからモテると思うよ」と
教えてくれたオカマショーパブに先日初めて行ってみました。
確かに他のお客さんそっちのけでみんなが僕に群がってきましたが、
あなたに似ている人は1人もいなかったのが残念です。

そういえば、煙草を教えてくれたのもあなたでしたね。
最初はあなたが煙草を吸っている姿がとても格好良くて、
ただそれを真似したくて吸い始めましたが、
初めのうちは煙たくて味なんか分からなくて、ゲホゲホ咳き込んでるだけで。
そしたらあなたがメントール系の軽いタイプのものを買ってきてくれて、
「吸い方に慣れたら少しずつ好みの味のものを探せばいい」って言ってくれましたね。
今、僕はあなたが吸っていたのと同じのを吸っているんですよ。
でも。

──朝起きた直後から数えれば、
既に彼は1箱分の煙草を灰と化していて、もう間もなく2箱も空になろうとしている。
短くなった吸殻を灰皿に押し付け、もう1本口にくわえた途端、
玄関から声を掛けられた。
「荷物積み終わりましたので引越し先へのご案内をお願いします」
引越し業者だ。彼は今日ここを引っ越すのだ。
「あ、はい」
短く返事をして彼は立ち上がり、玄関の方に歩きかけた。
しかし、彼はなぜか3歩歩いて立ち止まる。
「すいません。煙草1本吸ってから行きますから、ちょっと待っててもらえますか」
そう玄関に向かって声を掛けた──。

僕が煙草を吸うようのと入れ替わるようにあなたは煙草を止めることになった。
「医者に止められたんじゃ仕方ないよ」と
愛用していたライターと携帯灰皿を僕にくれた後、
急にあなたと連絡がとれなくなったのは、つい半年前でしたね。
ようやく見つけたあなたの連絡先に電話を掛けたら、
「主人は…先月高速道路の玉突き事故に巻き込まれて…」
と言って、電話の向こうで泣き出す女の人の声が聞こえたんです。
結婚してたなんて知りませんでしたよ、しかも今年で十周年だったらしいじゃないですか。

慌ててご自宅に伺えば、簡易式の祭壇の上に乗せられた、小さな白い箱。
その前にはあなたの写真と、線香と、蝋燭。
「主人とはどこでお知り合いに?」と奥さんに聞かれて困りましたよ。
修学旅行のときに1人でこっそり宿を抜け出して、
繁華街でウロウロしてたらあなたに声を掛けられて、
ホテルで抱かれる代わりにあなたからお金をもらったのが最初だなんて、
口が裂けても言えなくて、ね。

──口に咥えたままの煙草に火をつける。
オレンジとも赤ともつかない色が先端を彩り、少しずつその色が自分へ向かってくる。
灰に満たされた煙交じりの呼気は、健康のためには良くないと分かっている。
「俺みたいになる前に、そのうち止めた方が身のためだぞ」
とかつての想い人に、この部屋で言われたことも覚えている。
もともとこの部屋は彼のその想い人が住んでいたものだ。
面倒見の良かったその人は、その部屋を彼のために明け渡し、
自分が別の場所に引っ越した。
その場所が件の女性との生活空間であることを知ったのもつい最近のことで、
彼自身は自分の想い人がどんな仕事をしているか、
どこに住んでいるかなどプライベートに立ち入った話を聞くつもりはなかったし、
そんな話は自分たちの間には無用の存在だと思っていたからだった──。

今日でけじめつけようと思うんですよ、あなたとのことは。
ここを引っ越して、新しい場所であなたとは違う誰かと出会って、
あなたを忘れることで僕は幸せになりたいんです。
あなたとの思い出の品も全部処分しましたよ、このライターと携帯灰皿以外はね。
あなたにも言われたことだし、そろそろ煙草止めようと思ってる。
だから、このライターと灰皿もこの部屋へ置いていきます。
さようなら。あなたのことは本当に愛していました。

──灰皿に短くなった煙草を押し付け、
部屋の隅の目立たないところにライターと一緒に静かに置く。
最後の1本を吸い終わって空になった煙草の箱を握りつぶすと、
彼は部屋を出て玄関の鍵をかけた。
引越し業者の乗っているトラックの助手席に乗り込む。
「それじゃ、お願いします」
と声を掛けるとトラックはけたたましいエンジン音を響かせながら引越し先への道へと急ぐ。

道中、運転手が煙草を吸っているのを見て、
彼も煙草を吸いたくなり、シャツのポケットを探った。
しかし、あるはずの煙草はそこには入っていない。
その様子に運転手が気づき、「よかったらどうぞ」と自分の差し出す。
シガーソケットを使って火をつけ、一口目の煙を吐き出した瞬間、
彼はくすくすと笑い出し、そのうち大きな声で笑った。
「あはははは…、はははっ…」
「どうしました?」
と運転手に声を掛けられ「いえ、何でもないんです」と取り繕うが、
笑い声を止めることができない。
あの部屋で「煙草を止める」と誓ったはずの自分だったのに、
1時間もしないうちにその誓いを破る。
そんなにもかの人を想っていた事に改めて気づき、
「今度は忘れるために、煙草吸わないといけないかな…ははははは…っ」
彼は笑いながら涙を流していた。