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またもう一本煙草に火をつけるのは、忘れることを習う為

唐突に目覚めたばかりのような奇妙な感覚のまま呆然と立ち尽くしていた僕は、今
何をしようとしていたのだろうかという疑問からとりあえず片付けることに決めた。
ぼんやり立っている周辺を眺めてみるが、どうも見覚えがない。生活感がないを通り越して
廃墟のような多分部屋らしき場所に僕は今いる。どうしてこのような場所に立っているのか。
一歩足を踏み出してみると、剥き出しになった配線やパイプやらに躓きそうになったので
必死に体勢を立て直す。床とはもう呼べない地面に鋭い硝子の破片が無数に散らばっており、
それが薄汚いこの部屋で妙に煌いていた。その硝子の一つが光を反射するのを目撃した瞬間、
僕の首から吊り下げられた、今にも擦り切れそうな太いロープの先に紙の束が通されていることに
ようやく気が付いた。目を通してみると表には見知らぬ人物の名前が書いてあり、そのすぐ下には
赤字で「これは僕の名前です」と印字されている。話が分からないので更に読み続けていくと、
要するに僕はある一定の期間で記憶を失うということだった。最初は何の悪ふざけかと思ったが、
どんなに記憶を手繰り寄せても昔のことは何一つ思い出せないので、僕はこの紙束を読むしか
手がないらしい。僕自身については名前と記憶に関しての説明しかなかった。家族について一切
触れられないのは何故だろう。第一ここはどこなのか。そう考えた時、最後のページに走り書きの
一文を見つけた。「またもう一本煙草に火をつけるのは、忘れることを習う為」
急いで書いたからだろう、崩れたその文字を見ると、唐突に誰か知らない男が寂しそうに
笑っている顔が脳裏に瞬いたかと思うと、あっという間に掻き消えた。紙束を強く握り締め
光が差し込む方向へ顔を向けると、何もない荒野が延々と果てしなく続いているのが見える。
ふらりとそちらに歩き出してみると、僕の着ている服から煙草のにおいが微かにした。
気に入らないな、と思う。馬鹿みたいに晴れ渡った空の下、たった一人きりで僕は突っ立っていた。
忘れるのを習っていたのは記憶か、それとも一瞬垣間見たあの男か。以前の僕がどうだったにしろ
それは今の僕には関係のないことだ。そう思うのに意味もなく悲しくなると僕は静かに涙を流した。