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敏腕秘書とアラフォー社長

3時のコーヒーをローテーブルに置き「ご休憩をどうぞ」と声をかける。
会社規模にふさわしからぬ手狭な社長室の、重厚な木製に見えるが実は既製品のオフィスデスクに座って、
私が仕える我が社の代表取締役は山と積まれた資料の中で
「ああ、ありがとう、もう3時か」
と、没頭していたパソコンからようやく頭を上げた。
「そろそろ一息お入れになった方がよろしいです、
 今日はどうぞこちらで。資料を汚すといけません」
「うん、久しぶりに講演なんか頼まれたからね、なかなか勘が戻らない」
そう言いながらさも美味そうにカップをすする。淹れ方も豆もお好みのはずだ。
「おっしゃいますね。この業界、現場を離れたといえやはり社長は第一人者でいらっしゃるというのに」
我が社は中堅菓子メーカー、社長はその3代目だ。
社長の息子でありながら食品化学の分野で博士号をとり、ずっと製造部門に身をおいていた技術屋で、
6年前に亡くなった先代の跡を継ぐまで、社長業は一顧だにしたことのない人だった。
私は先代の晩年の数年間を努めた秘書で、そのまま新社長の秘書となったのだった。
……つくづく、立派になられたものだと思う。
この方が社長になったばかりの頃は、越権と思えるほど手取り足取り仕事を教えた。
それは本来社長秘書の仕事ではなかったかもしれないが、他に人がいなかった。
私も有能とは言えなかったかも知れない、
影となってさりげなく導くのが敏腕秘書というものだったろうに、何度社長を叱りとばしたことか。
十近くの年齢差と、比肩無き社長と仰いだ先代への思い入れのせいだったろう。
今となっては反省しきりである。
現社長の技術が、我が社を先代以上に成長させることとなった。
この不況の中でも業績は悪くない。取材が増え、講演依頼まで舞い込んできた。
社長の嬉々とした準備の様子だと、製造ノウハウを惜しげもなく披露する気らしい。
それでも、この人なら信頼できる。6年経って、ようやくそう思えるようになった。
僭越ながら、社長を一人前にお育て申し上げた。
あとは、プライベートな、しかし我が社にとっても重要な案件、これを解決するだけだ。
「さて、社長……資料に埋まりそうですが、こちらはご覧頂けましたか?」
埋まりそう、ではなくあらかた埋まっていたが、掘り出して何気ない口調を装う。
いわゆる釣書。そう、今年38才になる社長は独身なのだ。
これは社にとっても重大な問題である。早急な解決が望まれる。つまり早く結婚させねばならぬ。
しかし社長のことだった。就任当時の激務の中、やめろとどれだけ言っても
新製品開発に携わり続けたような頑固者だ。
頭ごなしに言えば意地になる。私はそれをよく知っていた。
「うーん?……ああ、それか。まだ見てないよ、見てないがお断りできないかねぇ」
そして自分のことに無関心な人のこと、おそらくそのように言うと予想はしていた。
作戦はあった。ここは逆を張るべきなのだ。
やめろと言われると意地になる、むしろやりたくなる。そういう性格だ、社長は。
「そうですね、一応お受けした話ですが……わかりました、お断りしましょう」
ほら、目をむいた。数年前まではチクチク結婚を勧めたこともあったものだから、意外だろう。
「結婚、跡継ぎなどと、そうお焦りにならなくともよいのです
 社長はまだまだお若い。人生の伴侶ぐらいご自分でお選びになりたいのでは?
 ま……こちら、かなりお綺麗な方ではありますが。写真、ご覧になりましたか」
「あ……いや。……美人?」
ほら、乗ってきた。
「そうですね、私は好みですかねぇ……」
「あなたの好みですか!? ちょっと拝見」
おもむろにひったくられた。これはいい。
「ああ、ああ、ウム、本当だ、美人だね。あれだ、この間のドラマの女優さんに似てる」
かなり興味を持ったようだ。かつてこういう事は一度も無かった!
上手くいきそうな手応え。内心勢い込んで、あくまで口調はさり気なくもう一押しする。
「正城女学院大学英文学部御卒業、フライトアテンダントを務められている才女でいらして、
 それでいて趣味は料理、それも得意は和食という家庭的な方だとか」
「ふーん……それはそれは……こういう人が好みなんですか、伊藤さん」
「はい?」
「伊藤さんはキリッとした和風美人がお好み、と。──僕、顔立ち濃いめだからなぁ、どうかなぁ」
「は?」
釣書を丁寧に閉じてカップの横に置きながら、社長は何故か私を見つめた。
「会社の跡継ぎなんてね、身内でなくても有能な人が継げばいい。僕はそう思います。
 それより人生の伴侶だ。伊藤さんも、自分で選びたいだろう、と言ってくれた。
 僕は……これでも迷っていたんですが……
 伴侶となる人は、お互いに分かり合えていて、苦楽をともにできて、気の置けない人が良い。
 そういう人はもう見つけてあるんです、6年のつきあいです。
 その人がどう言うかは判らないんですが、少なくとも僕はその人がいればいい
 その人と出会って人生が変わりました。これからもその人と歩いていきたいんです。」
押さえつけられている訳ではない、手もつかまれていない。しかし、何故か微動だにできない。
夕方近い陽が差し込んできて、部屋と私を染める。
「伊藤さん、どう思いますか……?」
有能な秘書なら、なんと答えるだろうか。
答えるべき言葉を持たない私は、やはり有能ではないのだろう。