手を繋ごう

会社を辞めた。
同じ会社の中の営業同士の競争が苛烈なのは当然だが、負けた側が
真っ当ではない腹いせをしてくるのは予想外だった。
最初のうちは単なる噂話で、曰く「アイツは営業先の女子社員を喰いまくって
いるらしい」、「○○社の女の子は妊娠させられて捨てられて自殺したらしい」。
噂を流している奴が誰なのかはバレバレだ。テメエがやったことを俺がやった
ように話してんじゃねえよ。
しかし、あるときから噂の内容が変わった。
曰く、「アイツはホモのオカマだ」「男と同棲している」「営業先で女を喰い
まくっていたのは偽装のためだった」。
俺の身の回りを調査したんだな。ゲイなのは事実だし、男と一緒に住んでいるのも
確かだ。半端に真実が混ざるとこういう噂への対処は難しくなる。
極めつけは「アイツがデカイ契約を取れたのは、取引先の社長にケツを
差し出したからだ」という噂だった。
俺個人への腹いせで、会社と取引先に不利益を与える噂を流すのかと思ったら、
怒るよりも先に呆れるしかなかった。
その噂が取引先の更なる取引相手の耳に入るに至り、俺は決断せざるを得ない
状況になった。俺が会社を辞めても契約関係に影響が出なければ、少なくとも
取引先社長の疑惑は払拭できるだろう。
辞表を提出してから数日をかけて、引継ぎや営業先へのあいさつ回りを済ませた。
円満退職する人には用意される送別会も花束もなく、二度と足を踏み入れることの
無いだろう社屋から出ると、杜生が居た。
「おつかれ」
「いつからここに?仕事はどうしたんだよ?」
「今日は店長は休暇にしました。シフト変わってくれた宇田ちゃんには、あとで
ケーキバイキングを奢る約束です」
「なんだよ。心配してくれたのか?」
「さっきまではね。今は、恭輔の表情が思ったよりも明るいからほっとしてる」
「はは。そうだろ。俺、すっきりしてるからな」

仕事は好きだった。営業もやりがいがあった。このようなことになったことを残念にも
思っている。入社10年、俺が今までやってきたことは何だったのかと、無念さを感じて
もいる。
でも、その心残りとは別のところで、ひどく清々しい気持ちになっている俺もいた。
会社に居る時、本当のことを隠している後ろめたさは取り忘れた値札のように
常にそこにあり続けていたと思う。
その後ろめたさから解放されることがこんなにも心を軽くしてくれるのか。

「このご時世、再就職も難しいのに、こんなにすっきりしちゃってちゃヤバイんだけどな」
俺が言うと、杜生は笑った。
「いいんじゃない?恭輔一人養うくらいの甲斐性は僕にだってあるよ。さあ、なんか
美味しいもの食べて帰ろうよ」
杜生は俺の方に顔を向けたまま、一歩進んだ。
進んだところで、まだ動かない俺を振り向いて小首をかしげる。
「恭輔?」
「杜生」
「何?」
「手を繋ごう」
自社ビルのまん前、社員も取引先の人も行き来するその場で、俺は杜生に手を差し伸べた。

この場を離れるのに、杜生に手を引いてもらいたいわけじゃない。
今回の事態を杜生のせいだと思っているわけじゃない。
過去を振り切るための一歩ではなく、新しい生活に飛び出す一歩を、この先ずっと一緒に
歩いていきたい杜生と共に踏み出したい。

杜生はちらとビルを見上げてから俺に目を向けた。
「手を繋ごう」
俺はもう一度言いながら笑いかけた。
杜生はすこしはにかんだ笑顔を返してくれながら俺の手を取った。

初めて明るい陽の元で手を繋ぎ、杜生の温もりを掌に感じながら、俺はかつての職場を
振り返ることなく後にした。


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最終更新:2010年03月06日 02:06