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台風一過

「世の中には良い人っているもんだなあ」
 いつも不機嫌そうにしている友人が、妙に嬉しそうにそう話しかけてきた。
頻繁にトンネルの中を走り抜けるこの電車の中は会話には不向きな場所なのだが、それにもかかわらず饒舌に話し続ける。
何でも先月の台風の時、駅で途方に暮れていた友人に傘を渡して、自分は雨の中を走り去った男がいたというのだ。
この傘を使いなさい、安物だから返さなくていいよ、とだけ言い残して。
「走って行ったってことは、予備の傘じゃなくて差してた傘か」
「多分そうだろ」
 そう言ったあとで、友人は何故か、悔しそうな顔になった。
「ただなあ……俺はあの人がどこの誰かも知らないからさ、傘も返せないし、礼も言えないんだよ」
 どんな男だったかと冗談半分に訊いてみれば、髪の長さから背の丈まですらすらと答えるのには少々呆れた。
進級してから半年経っても級友の顔を覚えない奴に、一体何があったというのだろうか。
「そこまで覚えてたら、次に会ってもすぐわかるだろ」
「もう二度と会うこともないんだろうけどなあ」
 眉がハの字に下がった妙な顔で笑う。
何でもこの一ヶ月、早朝や学校が終わった後に駅の周りをひたすら歩き回り、一度見たきりの男を捜し続けたのだという。それこそ雨の日も風の日も、片手には借りた傘。
呆れてしまうほどの努力だった。
「……何でそこまでするんだよ。その人、返さなくていいって言ってたんだろ?」
 俺がそう言うと、やつは黙り込んでしまった。
長い沈黙の後に小さく唇が動いたが、声は電車がトンネルを抜ける轟音にかき消された。
間の抜けた声で放送が入って、電車が徐々にスピードを落とし始めた。
この駅で乗客の大多数が降りてしまうから、座席には大分空きが出来るはずだ。
 そろそろと電車がホームに滑り込む。早く着けよと内心焦れながら、俺は、ちらりと友人の様子を窺った。
 その時やつの顔に浮かんでいた表情を何と言えばいいのか。驚愕や疑念や歓喜や焦燥が少しずつ入り混じった顔。
空気が抜ける音がしてドアが開く。それを待ちかねたように、友人は人を掻き分けるようにしてホームに飛び降りた。
咄嗟に降りる駅じゃないぞ、と声をかけたが、聴こえもしなかったようだ。
俺は思わず脱力して、吊革に半ばぶら下がるような姿勢になった。ああ、今あいつの視界に入っているのは一人だけだ。
雨の中ずぶ濡れになって駆けてった男。急に息を切らせて椅子の前に立った高校生に、優しそうな顔が軽い驚きの表情を浮かべている。
友人が何か言ったらしく、表情がゆっくりと笑みに変わった。
 そこまで見届けた時に、俺の乗っていた電車が動き出した。友人と男がゆっくりと遠ざかっていく。友人が驚いたように俺のほうを振り返った。あ、忘れてた、てなもんか。軽く嫌味をこめて、満面の笑みで手を振ってやる。
 気まずそうな奴の後ろで、台風が過ぎた後の空が青く輝いていた。