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こんなはずじゃなかったのに

今度こそは、綺麗好きで温和で優しくて、割と胸の大きい可愛い子と付き合って
薔薇色の日々を過ごすんだと思っていた。
それなのに――。

平日の夜中に遠慮なくインターホンを鳴らすような相手はあいつしかいない。
口元にへばりついていた唾液をウェットティッシュで拭き取りながら
寝ぼけまなこでドアを開けると、案の定そこにはしまりのない笑顔があった。
「岸さん、なんか喰うもんある?」
「……夜中に人んち来て第一声がそれか」
自分勝手で礼儀知らずでだらしない痩せぎすの男と、俺はつるんでいる。
彼の名は筑波。勤め先の会社でアルバイトしている大学生だ。
「なんか小腹すいちゃってさ。財布も携帯も会社に忘れてきちゃったし」
「はぁ? だったら取りに行けよ」
「それが丁度スイカのチャージ切れちゃったところで」
筑波はスニーカーを脱ぎ捨て、躊躇なく部屋に上がりこむ。
彼が裸足であることに気付いた瞬間、ざっと血の気が引いた。
「おい、おまえ素足で靴はいてんのかよ!」
「靴下いま洗濯中なんで」
そういう問題じゃない、きたねえ、ふざけんな、ぶっころすぞ、足洗え――
数々の罵倒が頭の中をよぎる。
怒りの余り口を聞けないでいる俺を見て、筑波は呆れるように笑った。
「あんたね、いい加減それどうにかしないと一生結婚できませんよ」
言い終わるか言い終わらないかのうちに、俺は筑波のこめかみを拳で殴りつけていた。

一ヶ月前、大学時代から付き合っていた女に別れを告げられた。
俺の潔癖症が原因だった。
岸くんと一緒にいると、自分がすっごく汚い人間に思われてるんじゃないかっていつも心配になるの。
あの後も、一生懸命手を洗ってるのを見るとなんだか悲しくなっちゃって……。
そんなのもっと早めに言ってくれよ、とも思ったが、
自分が気付かないうちに彼女を傷つけていたことを初めて知り、大きな衝撃を受けた。
頭がからっぽになったまま、最後のキスをして別れた。触れるだけのキスだった。
唇についた口紅をウェットティッシュで拭った時、やっと胸の底から寂しさが襲ってきた。

「潔癖症で感情的って、姑体質なんじゃない?」
「うっせーな、黙って喰え」
テーブルの上には、解凍した白米と作りおきのきんぴら、インスタントの味噌汁が色気なく並べてある。
筑波には足を洗わせて、以前泊まりに来た時に置いていった靴下を渡してやった。
「きんぴら超うまいし。うちの母ちゃんのよりうまいっすよ」
「悪いかよ」
「ねぇ、これ元カノにも作ってあげてたの?」
平気で人の心に土足で上がりこむような質問に、俺はノーコメントを貫くことしした。
何も考えてないのだろうが、わかってやってるんだとしたら余計に性質が悪い。
俺の傷はまだ癒えていないのだ。
「岸さん」
ノーコメント。
「岸さんってば」
ノーコメント。
「お耳まで遠くなっちゃった?」
もう一発殴ってやろうかとつい顔を上げたら、すばやく口付けられた。
ほのかに味噌の香り。こいつ、歯も磨かないで――。俺は拳を固く握りしめた。
が、しかし。
「嫌なこと言ってごめんね、岸さん」
予想外の殊勝な台詞に、握りしめた拳は行き場を失った。

ひとつだけ筑波の好ましい点を挙げるとすれば、綺麗に整った歯だ。
煙草を吸わないから黄ばんでいないし、虫歯になったことすらないらしい。
以前の飲み会で、ビール瓶の蓋を歯で開けるという馬鹿な宴会芸を披露していた。
くだらねえと笑いながらも、少しの歪みもない口元は悪くないな、とも思っていた。
キスを仕掛けられた時に、何故か受け入れてしまうのも、きっとそのせいなのだ。

「こんなはずじゃなかったんだけどな」
深いキスの後、俺の肩に頭をもたれていた筑波が低く呟いた。
俺とキスするはずじゃなかった?
しゅんとして謝ったりする気はなかった?
小憎たらしいことを言うつもりじゃなかった?
俺だって本当は、綺麗好きな巨乳と抱き合っているはずだった。
そこに踏み込んできたのはおまえだろうが。
筑波が犬みたいに鼻先を俺の首にこすりつけてくる。
いつもいつも馬鹿にしやがって、気が向いたらかわいこぶりっこかよ、畜生。
「俺はもっとあんたに優しくしたいと思ってるんだけど……」
ああ、もう、本当にそういうのやめろ、おまえ。意味わかんねぇ。
「一緒にいるとひどいことしたくなる」
そのまま首に柔らかく噛み付かれて、背筋を何かが走った。
あの美しく並んだ歯が、俺の皮膚に跡を残そうとしている。
唾液がついた部分がひんやりと冷えていく。
「筑波、おい」
「汚いから嫌? 俺とじゃ嫌?」
髪をつかんで引き剥がすと、筑波は切羽詰った表情をしていた。
「いや、おかしいだろ、こんな……」
「キスしといて何言ってんの。
 岸さんっていつも自分が正しくて俺が間違ってるみたいに言うけど、あんただって大概だよ。
 普通の人は男とキスしたりしないよ、あんた全然嫌がってないじゃん」
やめろ、違う。おかしいのはお前だ。
反論は声にならなかった。
「ね、岸さんってどういうセックスするの」
掌に汗が滲む。筑波の顔が見れない。
「舐めたりできるの、しゃぶらせたりすんの」
「やめろ!」
反射的に怒鳴りつけたら、筑波がいまにも泣き出しそうな顔で笑った。
「俺どんなことでもできるよ、あんたとなら。気持ちいいこと全部やってあげる。
 どろどろのぐちゃぐちゃになって、とんでもなくやらしいことしようよ」
こんな自分勝手で礼儀知らずで、だらしない痩せぎすの男が何を言おうと、ほだされない。
――はずだったのに。
ああやっぱり歯がきれいだな、と考えながら、俺は筑波にキスしてしまったのだった。
どろどろでぐちゃぐちゃの、口紅がつかないキス。ウェットティッシュはもう使わなかった。
こんなはずじゃなかったけど、こんなのも悪くない。そう思った。