絶対絶命
目の前には見知った男、背中合わせには壁。
ついでに左右は目の前の男の両腕に阻まれ、逃げ道すらない。
目の前の男は心底楽しそうに目をにんまりと細め、んふふ、と笑った。
その微妙に低い声が耳の底を柔く擽って、思わずぶるりと身震いをする。
「さぁ、もう逃げ道はないね」
甘い毒を含んだ、魅惑的な声。
騙されてはいけない、逃げなくてはいけないと思うけれど、耳を這い首を伝って背骨の付け根を痺れさせるその声に、
自分を曝け出し屈伏してしまいたいという気分にすらなってくる。
「君は、これから僕のものになるんだ」
違う、お前のものになんてなってたまるか。
家には腹を空かせた兄弟が、俺の帰りを待っている。
「君が僕のものになれば、君の兄弟は一生の安泰が約束される」
それはわかっている、でも、それだけじゃなくて、俺には。
想い人が――想い人が。
「そんなものが、君たち兄弟の腹を満たしてくれるとでもいうのかい?」
だから、忘れてしまえ。
目の前の男は愉快そうにそう囁いて、俺の首筋に口付けた。
軽い音を立てて首筋に吸いついたその唇が、俺のそれへと近付く。
後は壁で、目の前には男がいて、左右は両腕に阻まれている。
絶望に足を取られて、反論する言葉さえ奪われて、見動きをすることも出来ない。
助けて。
心が悲鳴を上げる。
目の前の現実のその全てを見たくなくて目を閉じれば、
そこに浮かんだのは愛しいあの男の残像だった。
最終更新:2010年02月21日 20:05