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閉じこめる

綾乃と駆け落ちをする、と、透は俺の眼を真っ直ぐに見つめて告げた。
叶わない恋だと嘆く、かつての弱々しい眼差しの面影は既に無く、瞳は強い光を帯びているのに気づいた。
遠くで蜩が鳴き、畳には、ふたつの影が這うように伸びていた。

「家はどうするつもりだ」
尋ねると、透は痛みを堪えるような顔をしたが、それも一瞬のことだった。
「知るものか。あいつらの傀儡にはならない。そんなものはもう御免だ」
「――いつ、発つんだ」
「明日の深夜、綾乃と峠で待ち合わせる。……和志、すまないがおれを助けてくれないか」
瞳の輪郭が和らぎ、幼い頃と変わらない眼差しが俺を捉えた。透が頼みごとをするときの眼だ。
頷くと、食い縛っていた透の唇が綻んだ。
「助かる。おれひとりでは囲いを越えられないんだ」
しばらくの間の後、透は大きく息を吐き、眉根を下げた。
「本当にすまない。……お前をひとりにしてしまう」
「……いいんだ。それより何時に本家に行けばいいのか教えてくれ」
「金に換えられるものを取りにゆくから、二時に蔵へ来てくれ」
「分かった」
透は安心したように俺の肩に手を乗せ、有難う、と微笑った。

ひとつになった影を、俺は眺めた。
――綾乃とは、終わったと思っていた。両親に知られることとなったその恋は、引き裂かれたと聞いていた。
もとより遊女が相手では、上手くいく筈がないと思っていたが、未だ続いていたとは。
強く握り締めていたため強張ってしまっている掌をゆっくりとひらき、
握りしめ、「いいんだ」と自身に言い聞かせ、透を想った。

「あの子には表情がない」と、幼い頃から厭われていた俺の感情を読み取ることができたのは、透だけだった。
透は有力な商家の子息だった。利欲のまま息子を服従させようとする両親を厭い、分家で歳が近かった俺に居場所を求めた。
どんな時も一緒だった。あのころ、俺たちだけは変わらないでいよう、と誓いを立てた――のに。

今日の透はおかしかった。俺の気持ちが解らないらしかった。
「お前をひとりにしてしまう」などと、可笑しなことを言っていた。そんなことがある筈がないのに。
綾乃だ。あの女が透をおかしくしたのだろう。透は俺のものなのに。俺だけのものなのに。あの女が。

また、いつの間にか掌を強く握り締めてしまっていた。今度はひどく痛む。
開こうとすると、ぱき、と間接が音をたてた。何故だか手が震えている。
先刻よりも時間をかけて開ききると、掌にはぽつぽつと爪の跡が赤く残り、血が滲んでいた。

――いいんだ。俺は深呼吸をして、もう一度自身に言い聞かせる。
いいんだ。透はあの女の元へなど行かないから。俺のそばにいるから。
蔵に――あの蔵に、透を閉じ込めるから。ずっと。俺のそばにいるから。
どれだけ叫んでも、正気に戻るまで出してやらない。俺が。そばにいるから。

ぷくり、と掌に滲む血が膨れる。そうっと舐めとると、鉄錆びに似た味が口の中に広がった。
そういえば、透の血の味を、俺は知らない。