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青春の汗と涙

『若葉薫くん』
アナウンス係が、また、場違いなくらい少女漫画じみた名前を読み上げた。
と同時にバッターボックスに入ってきた小柄な男。なるほど、見た目もどこか
少女漫画を彷彿とさせる、整った顔だ。俺は何度目かになる感想を、もう一度
抱いた。
夏の甲子園予選、準決勝。俺たちの学校と、その学校の力は拮抗していて、
七回まではどちらも無得点。八回表でウチが一点、裏で向こうが二点入れ、九回
表でまた、ウチが二点入れた。
そしていま、九回裏。若葉薫とやらは、体格に見合わぬ痛烈なバッティングで
セカンドゴロを決め、俺が守るファーストに飛び込んできた。
闘志に満ちた、獣のような目に、何故か俺は胸が高鳴った。

ツーアウト。
若葉がファーストに出たものの、向こうの攻撃は止まったままだ。当然
だが、こちらとて必死だ。ウチのキャプテン、兼エースピチャーであり、
俺の親友でもある三浦は、鬼神のような面持ちでボールを投げ続けている。
ツーストライク。三浦はギロリとこちらを睨んだ。
『次で終わりだ』
『解ってる』
大味な風貌の三浦はニッと笑って、再びバッターに目を据えた。と同時に、
若葉のいる方からギリリと歯を食いしばる音が聞こえた。

ああ。
俺は思った。
全ての人が幸せになれる結末なんて無いのだ、と。

バッターアウト! と叫ぶ審判の声。揚がる歓声。
そして、かき消される啜り泣き。

「おまえのせいじゃない」
気付けば俺は若葉に向かって、そう言っていた。
「だれのせいでもない」


あれからもう、五年。結局、俺たちの学校は次の決勝戦で敗れ、甲子園
進出は出来なかった。俺はその後野球を続けることなく、今はしがない
サラリーマンの身だ。
「今日からこの課に新人が配属される」
バーコード頭の課長が、しょぼしょぼした声で言った。これでいて仕事は
早いので、人は全く見かけによらないものである。
「若葉薫くんだ」

その後の課長の声は、俺の耳には届かなかった。
あの灼熱の太陽の記憶が、俺の中に蘇ったから。

見間違えでなければ、若葉もあの日のことを思い出したのだろう。
もうあの日のようには焼けていないが、顔をこちらに向け、俺に向かって
微笑んだのだから。