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演出家と音響屋

ピアノ庫の開いたドアの隙間から、ピアノを鳴らす指先がみえた。白くて細い指だ。誰だと思ったが今の俺にはそれだけしか確認できなかった。

わけは簡単、俺自身が多忙だからだ。これから舞台の準備、人が嫌というほど右へ左へ飛びかっている。

しかし鍵盤をたたく美しい音と無駄のない指先の、あの一瞬が頭から離れようとしない。

無意識にピアノ庫に近づいている俺がいた。
相変わらず可愛い音が半開きのドアから漏れている。細い指の持ち主は誰だろうかとのぞいてみると、見たことのない色白の青年がいた。
目を輝かせ、ピアノの響き、鍵盤の感触を楽しんで、こちらには気付かなかった。
俺が寄り掛かって全開になったドアの騒音が鳴るまでは。

指は止まり、きょとんとした顔で振り向かれる。苦笑いしかこちらは浮かばない。思った以上の美青年であったから。
「あなたは演出家さんですよね、僕知ってます。」
にこっとして俺を見ている彼はどうやら音響グループの新人らしい。
仕事上当たり前かもしれないが俺が彼を知らず、彼が俺をちゃんと知っていることを恥ずかしく思う。
「僕頑張りますから」
ぺこりとお辞儀をされ、こちらも「あ、ああ」とずるずるな気分で答える。
彼が椅子に座りピアノに向き直ると、かの有名な『詩人』と呼ばれた作曲家の曲を奏ではじめた。

心地よい。
美しい自然の流れが見えてくるような柔らかい旋律に俺は耳を傾けていた。
心が洗われる、と表現したらよいだろうか。スタインウェイと金字が刻まれたピアノに映る笑顔と、体全体が楽しそうに弾く姿を後ろから見ていると心があたたかくなってきた。
まるで人魚にまどわされたような、ずっとみていたいような感覚。
体がじわぁ、と熱くなる。と同時に眠くなってきた。

再び彼の演奏を止めた騒音は、ドアにもたれかかっていた俺が床を打ち付けるものだった。