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右手×左手

 何の変哲もない、いつもの帰り道。
 そろそろ梅雨時も近くなったのかよく雨が降る。日が延びて暖かくなってはきたけれど
まだまだ長袖が手放せなくもあり。
 そんな中途半端な陽気の中で、俺達はのんびりとした調子で代わり映えのない風景の
中を歩いている。

 滅多に車の通らない路地裏は、だからこそ路面の状態が悪いのか、あちらこちらに大き
な水たまりが出来ていた。たまに道一杯に広がる池みたいな場所もあり、それを蹴散らし
て歩く俺を朝比奈は子供みたいだと笑う。
「うるせ、引っ掛けるぞ」
「あはは、やめてよ。クリーニング代俺が出すんだから」
「げっ。お前んち結構キビシーのな……」
 この道は駅までのショートカットで、民家が連なるだけの人通りも乏しい場所だ。普段
も道の真ん中を歩いてても問題ないくらいに人影がない。だから俺は油断していたのだと
思う。
 駅前の大通りあとちょっとというところで、珍しく前方から車が見える。
 思い切り車高の低いエアロ付き。造花のレイやら縫いぐるみやら色々飾り付けてるところ
を見ると、オーナーは若そうな感じだ。
 ふと不安がよぎる。
(こーいうアホ装備の奴って、あんま周囲見えてないんだよな……)
 とはいえ、こんな細い道だし無理はしないだろうとのんびり俺が構えていると。
「あ……ぶなっ」
「……え?」
 それはもう一瞬の出来事で。コンクリートの塀に押し付けられるように朝比奈に抱き
込まれるとほぼ同時に、不安を肯定したかのごとく、車が突っ込んでくる。
 途端に上がる水飛沫。土砂降りの雨だってこんなにならないってぐらいしこたま水を
浴びせられた俺達は、謝りも減速もしないまま暴走するカエル色の車を見送るばかりだっ
た。


 俺を抱えたまま、携帯を何やら操作している朝比奈をよそに、俺は強張った身体を塀に
預け、半ばうわごとのように呟いた。
「しん……じらんね」
 今更ながらに震えが止まらない。機転を利かせた朝比奈が俺の右手を引かなければ、
俺は確実にあの車に引っ掛けられていただろう。この時ばかりは機転の早い奴が隣に居た
事に感謝した。
「荻野?」
 俺の怯えを察したように、優しい声で呼んだ朝比奈は、励ますように軽く背を叩く。
その胸元に縋り付き、俺は掴まれたままの右手を意識する。とっさに伸びた奴の長い腕が、
危険から遠ざけるかのように俺を捕まえて抱き寄せた。きつく掴まれた手首が痛いのに、
同時にその痛みが安堵に繋がる。
 俺を救ってくれる腕だ。いつも、いつも。
 そういえば、一年の頃、校庭の端の方でサッカーボールを転がしてた時のこと。古びて
緩んでいたフェンスが倒れてきたときに、俺を助けたのはこの腕で。気が付けば、いつも
隣で微笑んでいた朝比奈が、どれだけ俺を助けてくれていたのか分かってしまう。
 見守られて、いたのだろうか。隣にいるのが当たり前になるくらい、近くで。
 喉元で堰き止められていた息をゆるゆると吐く中で、押し付けた額が肩先にくっつく
程度には、いつのまにか身長差が出来ていたのだなと実感する。そして俺を繋ぐ左手も、
手首を軽く掴んでしまう程に大きくて。俺は微妙な気恥ずかしさと、それを上回る離れ
がたい気持ちの狭間で、収まりの悪い鼓動が静まるまでの間、寄り添う体温を感じて
いた。


 体育の授業の為に持ってきたタオルで簡単に拭ってみたものの、水を吸った制服は
重くからみついたままで、足下はプールに浸かったかのように水浸しだ。ぐずぐずと
音を立てる革靴に閉口しながら、俺達は駅への道を急いでいた。
「……の23-45か。至近で写メ撮れなかったのが残念」
「え?」
「さっきの車のナンバー。一方通行の筈なのに思い切り逆走してたし、あれだけ分かり
やすく速度オーバーしていれば、減点大きいだろうね」
 にこり、と笑みを浮かべる姿は頼もしいような、怖いような。何やら携帯を操作して
いるなと思っていたら、内蔵カメラで車を捉えていたらしい。どこまで冷静なんだかと
呆れてくる。
「……まあ。クリーニング代くらい出るといいな」
 そんな事で済ませるような殊勝な奴でない事は重々承知の上で、俺は朝比奈の健闘
を祈りつつカエル車にほんの少しばかり同情を覚える。一度敵として認識した相手に対して
この男は容赦というものを知らない。おそらく様々な状況証拠を突きつけて逃れようも
ない環境を作るだろう。無論、侮られぬように専門家を交えた上で。
「荻野が一番被害受けたんだから、ちゃんと謝って貰おうね」
「……おう」
 俺を庇ったせいで全身濡れ鼠になった奴の言うことじゃないだろうに。とことん俺を
甘やかす姿勢のこいつはバカだ。
 そしてそれを快いと感じている俺は大バカだろう。
 いつもより口数の多い左隣。護られるように右端を歩きながら、いつのまにか逆転
した立ち位置に何故か文句を付けられない。気紛れに腕がぶつかるくらいの距離は吐息
すら捉えて、視線が落ち着き無くさまよってしまう。
 この、自分らしくない大人しさを、出来れば今日のアクシデントのせいだと思って
いてくれないだろうか。そう思いながら、聡い朝比奈のことだから沈黙の訳などすぐに
分かるだろうと否定して。
 確実に傾いていく感情を持て余しながら、夕暮れの空を仰いで、俺は小さな溜息をつ
いた。
 甘痒いような悩みは、始まったばかりだ。