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死人×閻魔様

 すべてがあいまいで、何がなにやら分からない。ひどく混乱していた。何があったのか。
 ただ茫洋と周囲を眺めれば、そこには見知った顔が見える。真っ青な顔をして、ハンカチを目元に
当てる二十後半のスーツ姿の男。にいさん、と声を掛けても、何故か返答がない。
 その前に。今俺は、声を出していただろうか? 声どころか、自分の手足の置き場所すら、分からない。

 俺は、どうしてここにいる?

 そこは見慣れた町の風景。なのになんの実感も沸かない。
 俺は道の真ん中にいた。壊れた大型ダンプが縁石に乗り上げ、静かに沈黙していた。白黒に塗り分けられ
た車に、赤いランプの点滅が、朝の風景を彩っている。
 ふと足元を見下ろす。そこには足などなく……俺が転がっていた。俺だったモノが。奇妙にねじくれた体
を晒して、雨上がりの濡れたアスファルトに血の色を広げ。大型ダンプに突っ込んだままの二輪車は、
もはやその形を留めていない。

 ああ、俺は。死んだのだ、と、そこでようやく自覚する。
 まるで映画のスクリーンを見るように、どこか遠い場所から、兄の嗚咽が聞こえた気がした。


「……さて、自分の置かれた状況は分かったようだな」
 気が付けば俺は暗闇の中にいた。ぽつんと立ち尽くす俺の前には大きな門がある。材質もよく分からないそれ
は、しかし威厳と歴史を感じさせながら、壁のように立ちはだかっていた。
 これを潜れば、俺の一生は終わる。そして門の先に繋がる場所を……その人は俺に指し示すのだろう。
 よく通る声に振り返れば、そこには漆黒の時代がかった衣装を纏う人物がいた。年齢は若くも年老いても見え、
端正な顔に浮かぶのは厳格たる審判者の眼差し。ぽつりと俺は返す。
「俺、死んだんですね」
 玉座、というのだろうか。精緻な彫刻のなされた豪華な椅子に座る人は、小さく頷いた。
「そうだ。そして此処は魂を判じ送り出す場所。お前の行き先は決まっている。後は扉を開ければいい」
 扉。俺の背後にそびえるあの巨大な門。その先に何があるのかは分からない。けれど。
「俺、何だかちっともいい生き方できなかった。最後にはたった一人の肉親まで泣かせて。……俺、どうして」
 短かったんだろう。二十年そこらの、俺の人生。ちっぽけだけど優しい記憶、悲しい記憶。出会った人々の
笑顔や涙が頭の中を過っていく。


「どうしてもっと、ちゃんと生きられなかったのかなぁ……」
 死んだ後でも、涙は熱いらしい。ぼろぼろとみっともなく零れる涙を俺は乱暴に拳で拭う。あれから兄さんは
どうしているんだろう。葬儀なんて、金、掛かるよな。折角もう心配させずに済むと思ったのに。
 新卒採用で浮かれていた。俺の家は事故で両親を亡くしていて、兄は中学卒業からこっち、働きづめ。せめて
俺だけは大学に行かせようと、無理ばかりしていた。でもその実直な性格を慕われてか、勤め先では良いポスト
を貰っていて。そんな兄に応えるべく、俺も四年間、働きたい気持ちを抑えて大学を真面目に通った。
『ケン、遠回りでもその方がきっと役に立つよ。俺が保障する』
 兄の言葉はずっしりと現実を背負って、俺の心に響いたから。
 たった二人きりだけど、暖かい家庭を作ってくれた兄。その兄に報いる時がきたのだ。優良企業の採用の電話
が鳴り響いた時、我が事のように喜んで涙した兄の顔が忘れられない。ようやく兄の手を掛けさせる事がなくなる
と、そう思った矢先……。
 その日は、大学のゼミ仲間達との打ち上げだった。目出度くも採用が決まった奴らに、通知がまだの奴らはぼやき
ながらも盛大に送り出してくれて。祝いの席で軽く一杯が二杯にも三杯にもなり……。
 気が付いた時には、相当の酒量だったと思う。慣れた運転だとたかをくくって、仲間の声も振り切っての乗車。
愛車のナナハンで帰宅途中、対向車線に大型ダンプの姿が……。
 ようやく繋がった記憶。どこまで俺は救いがないのか。


「それでも、お前は人を愛し、その愛に応えてきた。愛とは至上の徳であり、人の生きる希望だ。決して無駄な
生ではなかっただろう……それはお前の心を知れば分かる」
 いつのまに立ち上がったのだろう。審判者は俺の様子を伺っていたようで、俺がひとしきり泣いた頃に、静かに
語るとその柔らかな衣で俺の顔を拭う。不思議と、初めに抱いた恐れを今は感じず、その穏やかな威厳に包まれる
事で心を穏やかにすることが出来た。
「努力すること、役立とうと思う事。それを実践すべく現実に立ち向かう勇気。どれも欠けていなかった……なら
ば、後悔ではなく、如何にして己の旅立ちを理解されるのか受け入れる勇気を持て」
 そうか。俺もまた、兄に支えられたように、誰かの支えになる事が出来たのだろう。なら、愛された事に感謝
してこそ、後悔などしてはいけない。
「そう……ですね。最後がまた事故だなんて、兄さんに嫌な事思い出させたけど……」
 それでも、確かに今までの思い出が、無駄になった訳ではない。兄の努力だって、きっと報われるのだ。
「愛を知る者よ。魂の旅路にて迷いなきよう。一片の悔いの無い人生など、誰にも成し得ないのだ」
 不思議とその声は心に染み通り、俺はその人の顔を見上げて、笑った。俺の理解を喜ぶように、穏やかな笑みを
浮かべる審判者の顔はなぜか、兄にも通じるような気がして。
「旅立つがいい。己の業を知ったお前ならば、迷わずに道を進めるだろう」
 その言葉は、別れを意味していた。ただ俺は門を潜る時、その言葉を抱いて旅立つ事こそが長い旅に向かう標と
なる事を確信していた。そしてそれを送り出す彼が、この真っ暗な世界で誰かの訪れをあの玉座でじっと待ち続け
ているだろうことも。
 そう思ったら、なんだか……なんだか名残惜しくて。素足に感じる土の感触。俺はつま先立って彼のその潔癖
そうな顔に、そっと唇を近づけていた。思ったより柔らかな質感。ほんの少し驚いたような身じろぎをして、
しかし彼は、その口付けを受け入れたのだ。


 それは惰性なんかじゃない。寂しそうな彼の境遇を哀れんだ訳でも、長い旅へ出る前の餞という訳でもない。
ただ、言葉だけでなく彼に繋がる為の手段が欲しかった。優しく寂しい彼のその暖かさをもっと感じたくて。
彼と別れるまでの時間を少しだけでも、引き延ばしたくて。
 ぬけがらの俺が、魂に刻み込む為にその体を抱く。確かな質感で応えるその暖かくもストイックな姿。それは
彼の魂の体現のようで。大して遊んだ記憶もない俺のぎこちない愛撫など、彼に果たして通じるのか、どうか。
もはや一杯一杯の俺の頭には言葉などなく、ただがむしゃらに彼に向かうだけだ。
 押し倒したくせに、戸惑う俺の頭を撫でる彼の優しい手は、技巧など必要はないのだと教えてくれた。
 抱きしめて抱きしめ返して、それだけで人はなぜ幸せになれるのだろう。
 黒い衣の上に広がるのは同じく黒い絹のような髪で。対照的な滑らかな白い肌を、修験者のように無駄な肉を
削ぎ落とされた体のラインを、覚えるように口付ける。仄かに灯る跡は、彼が俺を覚えていてくれればいいと、
そんな小さな俺の希望の証のようだ。
 馬鹿みたいな行為を、受け入れるあなたの名を何故俺は知らないのだろう。この暗い世界で、じっと魂の訪れ
を待っている優しい彼を呼ぶ術が無い。それを知る術も、無いのだ。


 至福の時はそう長くはなかったに違いない。柔らかく真っ直ぐに落ちる髪に口付けして、俺は彼の体を離れ。
 裸のまま、歩き出した。纏っていた服はおそらく迷いだったのだろう。身軽になった俺は扉へと向かう。
重いかと思っていた扉は、手を掛けただけですんなりと開く。背中に感じる彼の視線を受けて、俺は一歩を踏み
出した。

「行ってきます」

 またここへたどり着くなら、その時は彼の名を呼べたらいい。優しい審判者への餞は、再会への約束だった。