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夜桜

「桜の樹の下には、屍体が埋まっている」
「――君は梶井基次郎が好きだったか、」

四月とはいえ、夜は冷えていた。強い夜風が頬を撫で、外套が靡く。
地面に敷き詰められた桜の絨毯が、
自ら闇に呑まれるように、漆黒の境界に溶けていった。

「いや――妻がね、好きだったんだよ。美学がある、と云ってね」
今日は彼の妻の一周忌だった。彼女の輪郭を辿るかのように、彼は目を細めた。
「早いものだな。……彼女はね、君と映画に行くのが好きだったんだよ。
蘊蓄が聞けるといってね、喜んでいた。妬けるから、黙っていたけど」

「少しは、落ち着いたか」
 私は口早に云った。
「ああ、お陰様でね。君にも随分世話になった」
眠りという一時の安息にも身を委ねることができなかった彼の深酒に付き合うのは、私の役目だった。
 泡沫の酔いの中にいる間、彼はよく笑いよく話し、そして、それが醒めると鬱ぎこんでいた。
 十日に一度はあった真夜中の訪問は、今では間隔を広げつつある。

「本当にね、感謝しているんだ。――学生の頃は、君とこんなに長くあるとは思っていなかった。
満開の桜の下でドストエフスキーを読み耽る様な奴だからな、君は。確か、此処だったろう」

覚えていたのか。

「桜とドストエフスキーは、合うのかい」
柔らかな陽射しのもと、学生帽の影に隠された彼の表情は読み取れなかった。
「このコントラストが好いんだ」
そう云った自分はあの時、どんな顔をしていただろうか。


夜桜が、まるで昔日の亡霊のように闇に浮く。この桜のある母校へ誘ったのは彼だった。
「君は、変わらないな」
ふいに彼が云った。
ひとつ息を吸って、私は嘯く。
「変わったさ。俺も、お前も」

違う、変わることができなかったのだ、逃れることができなかったのだ。
この愚かしいエゴイズム、肥大し続ける妄執、劣情、そのすべてから。

お前は知りもしないだろう、
お前に恋人を紹介される度に、この桜の下に埋葬した私の屍体を。

お前は知りもしないだろう、
彼女が逝ったと知らせを受けた時、私の口元が悦びのかたちに歪んだことを。

お前は知りもしないだろう、
彼女と映画に行く度に、食事に呼ばれる度に、お前の相談を受ける度に、
お前が幸せだ、とつぶやくその度に埋葬し続けてきた私の屍体を。

(ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている!)
いくつもの私の屍体は腐敗し、ぬらぬらと澱んだ血を地中に吸わせている。
迷路のような根はそれを一滴残らず絡めとる。
(何があんな花弁を作り、何があんな蕊を作っているのか、毛根の吸いあげる水晶のような液が、
静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ――)

彼の手が肩に触れた。
己の屍体を、狂い咲く桜を、その幻を見ていた私は、驚いて彼のほうを向く。

「行こうか」
変わらない笑みだった。
そうだった。この桜の下で出逢った時、お前は同じ顔をしていた。
晴れやかな笑顔ではない、少し寂しさをたたえたその、顔。

――ああ。
埋葬したはずの屍体が息を吹き返そうとしている今、彼に触れられた肩だけが熱いのだ。