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夜桜

夜を迎えた桜の庭にふらりと顔を出しても、縁側で手酌する家主は表情を変えることさえしなかった。
勝手に俺は隣に腰を下ろし、家主は徳利と空いた杯を寄こす。それが挨拶の代わりとなった。
そのまま互いに一人酒を続けるようにただ黙々と酒を注いでいたが、
先に一本呑り終えたので、俺の方から口を開くことにした。
「盛りは過ぎた。風も出ている。おそらく桜は今晩で散ってしまうのだろう」
「そうかもな。わざわざ人の家の庭にまで押しかけて呑もうとする酔客も随分と減った。
 あとは、もうおまえぐらいのものだ」
もっともおまえは季節を問わず押しかけてくるがな、と淡々とした調子で家主はぼやく。
その物言いの底にあるくすぐったくなるような親しみは、おそらく俺だけが感じとれるものだ。
近所ではこの家の桜は評判で、満開の頃には昼夜問わず花見目当ての客がやってくる。
しかし、少しずつ花が若葉に変わるにつれそうした輩も減り、
葉桜が目立つようになったここのところは再び人が立ち入らないようになっていた。
その若葉が夜に融けてしまうと、一つ一つの小さな花が闇の中からほの白く浮かびあがってくる。
恐ろしさすら感じさせるほどの美しさは、日中には決して見せない桜の夜の貌だった。
「一本もらうぞ」
まだ中身が残っている徳利を引っ掴んで一本の桜の木の下に歩み寄る。
そしてその根元へと中身を全てひっくり返した。
酒で出来た小さな水溜りの上に花びらが数枚滑り落ちる。
「何をする。もったいない」
「こいつにあんまり生白い顔をされると黄泉から覗かれているようでいい気はしない。
 見てみろ。すこしは酔って赤らんだように見えはしないか」
吐いた溜息の深さから慮るに、得心しなかったらしい。
「もう手遅れかもしれんが、あまり酔って無粋な真似をするんじゃないぞ」
「そう野暮なことを言わんでくれ。俺は、お前と呑んでいるときが一番酔えるんだ」
笑いながら家主の首筋に鼻先を擦り付ける。
嗅ぎ取った酒精の匂いにすら酔いが深まるような気がして、頭がくらくらする。
そうしてじゃれついた俺に笑い声をこぼす程度には、こいつの体にも酔いがまわっている。
全てが夢のようだ。夢のように、心地よい。
桜は、今晩で散ってしまうだろう。
この春宵を忘れないように、この光景を忘れないように、
家主に体を預けながら暖かな夜の空気と共に酒を腹へと流し入れた。