※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

夜桜

人文学部棟と教育学部棟を結ぶ道の両脇には桜が植えられていて、北国の遅い
春に合わせて四月半ばに満開を迎える。
道の途中に作られた小さな広場の横にはひときわ大きなソメイヨシノ
があって、その広場がN大文化人類学ゼミの花見の定位置だ。
20年前、俺が文化人類学ゼミに入った頃にはもう、そこが定位置と言われていて、
俺が、院生になり、オーバードクターから助手になり助教授になって、退官した教授
の後釜として文化人類学ゼミを担当するようになった今までも、ずっと伝統を守って
ここで花見をやっているのだ。
近所のスーパーの惣菜やら乾き物やらのつまみと、俺が資金を出して
銘柄指定で買ってこさせた俺好みの地酒5升と、水落の父親から今年も
送られてきた緑川純米吟醸と、軽い酒が好きなゼミ生達のための大量の
ビールやらなにやらを広場の半分を占めるブルーシートの上に広げて、
花見は始まった。

普段の人通りは多くは無いが公共の通路でやっている文化人類学ゼミの花見には、
参加者の顔見知りの飛び入りは歓迎というルールがある。おかげで、「美味い酒が
ただで飲める」とちゃっかり毎年参加する者もいたりするのだ。
「今年もやってるな、及川君」
声をかけてきたのは毎年参加組の工学部の只見教授だ。
「今年もやってます。さ、どうぞ、教授」
俺は自分の隣にスペースを開けて言った。
教授は、小脇に抱えていたマイ座布団を敷いてブルーシートに席を確保した。
ゼミ生がプラコップを差し出し「何にしますか?」と聞くと、教授はちらと俺の横に
まだ封を切られずに置かれている緑川を見た。
「まだ開けてないのか。じゃあ、適当な日本酒を。純米大吟がいいなあ」
「教授、それ、適当じゃないです」
俺出資の純米大吟醸を注がれて、教授は俺に向かって軽くコップを上げてから、
酒を口に含み、ずるずると音を立てて空気と酒とを口の中で混ぜてから嚥下し、
鼻から息を吐いて香りを確認する。
「うむ。美味いな」
ただの飲み会でも、つい、その銘柄の最初の一杯を利き酒の飲み方で飲んでしまう、
俺と同じ癖の教授に、思わず笑ってしまう。

周囲が暗くなる頃には、飛び入りのゼミ生の顔見知りで花見の参加者は膨れ上がり、
ブルーシートのスペースが足りなくなってきた。
念のために用意していた新聞紙を広げていると、後ろから声を掛けられた。
「今年も盛況だな」
水落の声だった。
振り向くと、ジーンズにコーデュロイのジャケットの水落が立っていた。
「よく来たな。教授、水落、来ましたよ」
「おうおう、よく来た水落。これで緑川が飲めるぞ!」
「相変わらずですね、教授」
水落が呆れたように苦笑した。
教授の隣に水落を座らせ、俺は水落の隣に腰を下ろした。
「今年も親父さんからもらったぞ。お母さんも親父さんも元気だそうだ」
緑川の封を切りプラコップに注ぎ、俺はそのコップを水落の前に置いた。
「私にもよこせ」と一気に前の酒を飲み干して開けたプラコップを俺に突き出す教授に、
はいはいと俺は緑川を注いだ。
自分のコップにも緑川を注ぎ、俺達は軽くコップを掲げて乾杯をした。
三人で、ずるずると酒を利いて飲み下す。舌に広がるまろやかながらも複雑な味と、
鼻を抜けるさわやかで華やかな香。
「く~~、美味いなあ~~~!」
コップを持ったまま、水落が心底嬉しそうに言う。
「美味いよなあ」
「うむ。美味いな」
教授が言った。

ゼミ生達はすっかり出来上がり、なにやら賑やかに笑いあっている。
水落は賑やかな宴会を黙って楽しそうに観察しながら、ちびりちびりとコップに
注がれた一杯を飲んでいった。
俺は、今年もそんな水落の嬉しそうな横顔を眺めながら、やっぱりちびりちびりと
酒を飲んでいく。
教授は俺から奪い取った緑川の瓶を手酌で傾けながら、ぐびぐびと飲んでいく。
やがて、コップが空になると、水落はそれをブルーシートの上に置くと立ち上がった。
「ああ、美味かった。ごちそうさま。またな」
「またな」
うっすらかかる靄の中、街灯にソフトフォーカスがかかったように照らされたわっさりと
重そうな満開の桜並木の間を歩いていく水落の背中を俺は見送った。
「いったか?」
教授が言う。
「はい。今年も美味そうに飲んでいきましたよ」
水落が置いたコップを俺は見下ろした。
コップの中には、最初に私が注いだ酒が、そのままあった。

俺の同級生の水落が、飛び入り参加した文化人類学ゼミの花見の帰りに飲酒運転の
トラックに突っ込まれて死んで今年で20年。
当時、水落の入っていたゼミの助教授だった只見先生はすでに教授に、3年生だった
俺は準教授になっていた。
でも、水落はあの夜と同じ格好、同じ笑顔のままだった。
「飲酒運転が原因で死んだのに毎年酒を飲みに化けて出て来るんだから。根っからの
酒好きってのは、水落のことを言うんでしょうね」
「その水落君に毎年一杯注いでやるために大学に居残りたいと、ついに準教授にまで
なった君もずいぶん物好きだと思うがね」
只見教授はそう言うと水落の残していった酒を持上げ、俺に差し出した。
俺は、その酒を一口含み、その味に思わず「うへえ」と声を上げてしまった。
教授が空コップを突き出すので、水落のコップから少量を分けてやる。
その少量を味見すると、只見教授は眉をしかめた。
「毎年のことながら、同じ酒がこのわずかな時間にこんなにも味が変わるのは驚異だな」
「水落が、美味しいところを飲んでいってしまった残りだから不味いんですよ、きっと。
本当に、嬉しそうに、美味そうに飲んでましたよ」
「うむ。幽霊などという非科学的なものは私には見えないし、信じたくは無いのだが...水落
君が嬉しそうにしていたと聞くと、私もそうあって欲しい気分になってしまうのだよなあ」
味も香もすっかり飛んでしまっている酒は、不味いけれど、水落が来てくれた証でもある。
教授が口直しに新しい緑川をコップに注ぐのを見ながら、俺は水落の残した一杯を
夜桜を眺めながらゆっくりと味わった。