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全部嘘


 先生がこの家を私に残した、というのは、行き場のない僕をあわれんでくださったんでしょうな。
 先生は、とうとう血のつながるお身内のないままに終わってしまいましたから、こんな、継ぐものもいない、辺鄙な場所で買い手もつかない古家など惜しまなかったのでしょう。ほかに行きどころのない僕にとっては実にありがたいことでしたが、まあ先生にとっては処分の手間が省けて、僕に恩も着せられる、一石二鳥の策といったところだったのではないかと思うのです。
 ですから僕はこうして、先生なきあともせっせとこうして最低限の手をいれている。最低限の義理立てですな。
 綺麗ですか。へぇ、行き届いてますか。
 まあまあ、ありがとう存じます。
 先生が聞いたら笑いなさるでしょうな。あの方、自分では縦のものを横にもしない人でしたが、僕にはたいそう小うるさくものを言いましたから。今もほら、あの松の摘み方が多いの少ないのと、声が聞こえるようです。

 先生の書いたものは読みません。
 いえ、書いたのは僕とあなたおっしゃいたいのでしょうが、あれは言われるままに書くだけで中身なぞこれっぽっちも頭に入りません。
 まあ頭が悪いんでしょうな。もともと弟子でも書生でもない、ただの飯炊き、使い雇いです。
 先生の奥様が入られる前から、僕は本当なら通いの仕事を、無理を言ってここの家の離れに住まわしてもらってましたから。扱いが軽いのです。
 親の顔も覚えてないような育ちです。尋常小学校も何日とも行ってない。
 ですから先生は僕を遠慮なくこき使いなさった。
 あれも無茶な人でしてな、平仮名しか書けないような僕に聞き書きをさせるというから驚いた。使えぬ使えぬといいながらまあ、辛抱強く言い聞かせられました。わからぬ漢字は紙に書いて見せて。本末転倒ですな。
 お陰で僕には勉強になりました。いっぱしの口も聞けるようになった。変わった方でした、時間ばかりかかるようなやり方をして、ずいぶん版元様にはお叱りを受けたようです。
 見かねて奥様が代わってくださいましたけど、奥様が菩提に入られてからは僕が、ええ、やっぱり叱られながら書きました。
 そういうのですから、先生のお作の部分部分は、あんまり出来が良くないんじゃないですか。
 はあ、そんなのがあるんですか、はは、それは確かに奥様がいらっしゃらなかった頃のものですな。からかいなさっちゃいけません。僕じゃなく先生が偉いんでしょう。
 奥様は実にお優しい方でした。綺麗で、よく気のつく方で、ころころと笑う声がお可愛らしくて。
 先生が僕にいろいろと言いつけるものだから、気の毒がってくださいまして。
 先生にはトンジャクありませんでしたが、僕に所帯をもたせようと世話してくださったり。
 いつまでも納屋住みじゃあってんで長屋を探してくださったり。
 それがあなた、決まりかけると先生が邪魔をする。別に見つけた代わりの飯炊きに難癖つけたり、僕に四つ目垣を作らせるようなやっかいな庭仕事を言いつけて宿替えを日延べさせたり。あげくに先方に勝手に断りをいれちゃってね、文士様の考えることはわかりません。そんなこんなで僕はずっとこの家の小屋住みです。しょうかたなしにお仕えして、とうとうこんだけの日数が経ったような次第でございますよ。まあそうですな、奥様がいらっしゃらなくなった後は僕一人が先生のお側におりました。
 奥様が亡くなったのはいつの年でしたかね。あの大風のひどかった年じゃなかったですかな。あんなに早くに儚くおなりで、あの時分の先生のお嘆きは昨日のことのように思い出されます。
 佳人薄命とはよくいったものです。お子さまも授からなかったから、先生はそれからずっとおひとりでここの家から一歩も出ませんでした。
 僕ですか。僕はもちろんこちらの離れで寝起きしてました。それゃあなた変わりませんよ、奥様がいなくなったからって使用人の分というものはわきまえおりました。あちらが先生の家、こちらが僕の領分。同じ屋根に寝起きすれば僕の仕事は楽でしょうが……それじゃ申し訳ない。
 先生の家を掃除して飯を炊いて、魔術の呪文のように先生の口から湧いて出る御本の中身を紙に写し取って、茶を汲んで、夜になったら床をのべる。判で押したような生活が長く続きました。何が楽しいんだか、僕なんか話し相手にもなりゃしないのに、顔を合わせるほかの者もない中で、毎日毎日。
 いやあ、知りません。通う女も囲う女もいたんだかいないんだか。奥様がいらっしゃらなきゃなんにも悪いことじゃなかったでしょうが、あの方、朴念人でいらっしゃったから。なんにも考えずに好きなもんを好きだ好きだと、善悪の区別もつけずに玩具にするような、人の気持ちのよくおわかりにならないようなところがおありでしたな。
 ……おいでになったのかもしれません、奥様がご存命の頃から。であれば奥様はさぞやご苦労を、なさったことでしょうな、お気づきであれば。
 先生を悪く言うつもりはありません。僕は気づきませんでした。なんにもわかりません。
 ここにいると母屋の気配はわかりませんから。
 あちらからもわからない。ここで何があっても聴こえない。大声で呼ばれることなんかないもんだから、それで良かったのです。用がある時分には出向くのです。先生から用があるときは……いや、そんなものはありゃしませんでした。
 あなたは……ずいぶん酔狂でいらっしゃいますな。もっとと言われましても、僕のようなもんの話がなんの役に立ちますか。
 先生の御本の記念にこの家屋敷を残す、それは結構なお話だと思います。ありがたいことです。今さら行くところもない僕ですから、ここの手入れをさせてもらってそのまま死んでいいというお話は本当にありがたい。名義ですか? そんなもの、ここは先生のうちですから、先生がどうなさったか知りませんが、難しいことはとんとわかりません。まあ私になってるから、そうですね、皆様しかたなくそうしてくださるのでしょう。せいぜい早くくたばって言いようにしてもらう方がよろしいようです。
 でもそうですね、そうまで仰っていただけるなら、ひとつだけお願いを申し上げてもよろしいですか。図々しい爺の勝手なお願いです。でも、ぜひとも聞いてもらいたい。

 母屋はどうぞ残してください。あれは先生が長じて五十年、ずっとお住まいになった大事な家なのです。先生のものはみんな、なにひとつ捨てずに残してあります。そういうのが御研究にのお役に立つのでしょう? 僕には先生の本はさっぱりわかりゃしませんし、賢い頭から出た考えからというわけでもありませんでしたが、まあとにかくあちらは先生が御本を書いてたときのままにしてあります。奥様の鏡台も箪笥もそのまんまだ、手なんかつけません。どうかなんでもご覧になってください。先生のものは全部あそこに揃ってる。そうしないとね、怒られる気がするってだけです、僕も気が小さいものだから。
 ですけどね、僕が死んだら、こっちの汚い納屋なんぞは取り壊してください。お目汚しですから。こっちはね、同じ年数だけこの僕が住み散らかしたってだけの小屋です。物置として置いておいた物は今は全部母屋に移しました。全部奥様のもとへお返ししました。大したものは最初っからありませんでしたしな。ここにあるのは今はもうこの爺のがらくたばかり。
 ねぇ、お手数お掛けしますが、こればかりはてめえで始末つけるわけにゃいかない。火をつけるにも母屋まで焼けちゃ、ことだ。今日あなたが来てくださったのは何かのご縁だと、そう思っていただけませんか。どうか、頼まれてやってください。
 先生はこの納屋と関係ないのです。こんなむさ苦しいところに来るようなことは一度もありませんでした。ええ、先生は一度も来ませんでした。そりゃ中を覗いたことぐらいはあったかもしれませんけど、ですからね、ここは無価値です。先生にはなんにも関係ありゃしません。どうぞ遠慮なく御処分ください。先生のことは、ここにはなにもないのです。
 見苦しい。こんなものが残るのは。
 僕は死んでから恥など晒したくはないんです。先生の飯炊きというだけの僕です、先生とは関係ない、何も。

 ──長くお話ししましたな。
 くれぐれもお願いしますよ。
 どうか、また御用の際はいつでもお声掛け下さい。暇な爺です。毎日掃除だけして生かさせていただく老いぼれの身です。
 先生もまったく酔狂なことでした。僕なんぞのために。こんな爺のために。
 僕なぞはね、どうしようもないものですよ。無駄飯ぐらいの大嘘つきですよ。ええ……ああ、僕は今嘘つきといいましたか。いえいえ、あなたに話したはなしは本当、全部本当ですとも。
 あなた、ご研究で先生のこと聞いて歩いてるわけでしょう、もし僕が嘘を言ってたらどうしようと、そういう顔ですかな。ははあ。
 ご安心なさい、僕の話は本当です、それが証拠に、先生のお作となんも違うことは言ってない。随筆もずいぶんありましたから、おわかりでしょう? ね、僕は先生の雑文だってちゃあんと覚えてますからね。大丈夫です、天地天明、神誓って本当のことですとも。
 ああ、嘘つきは地獄へ堕ちます。僕は極楽で先生と奥様に二目お目見えするのを楽しみにしているんですから。あの、お優しい奥様と仲むつまじい先生のお姿をもう一度みたい見たいと思って、お迎えを待ってる爺でございますよ。嘘など……

 ねえ、あなた、僕が言うのが全部嘘なら、僕は地獄へ下ってえんま様に舌を抜かれるのです。
 実に、実に申し訳もないことでした。