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卒業する先輩×入学してくる後輩


僕の荷物はまだ届いてないようで、まずは一つクリアと胸をなで下ろした。
この春から大学に入る僕の初めての独り暮らし。引っ越し荷物を積んだトラックよりも早くついて待っておくのだと親に言い含められていた。
新生活の舞台となるアパートは古くて狭い学生用の安い物件。実家が遠方の僕は電話とネットだけでここを決めたから、僕の部屋である二〇四号室を見るのは初めてだ。
期待とともに階段をあがると、なぜかドアは開け放たれていて、覗き込むと雑然とした荷造り、場所をずらした家具、バタバタと動き回る知らない人。
聞いてない、前の住民がまだいるなんて。これ、引っ越し途中ってことじゃないか!
部屋の表示を見直すとやっぱり二〇四号。どうしたらいいのかわからず立ちつくしていると、中から背の高い眼鏡の男がゴミ袋片手に顔を出した。
余裕なく、
「ごめん、新しい人でしょ、ごめんごめん、あの、すぐこっちのトラック来るはずだから。聞いてたんだけど、ちょっと遅くなっちゃって、ごめんね、ちゃんと間に合わせるから。それまでどっかで待っててくれると助かる……」
まくしたてながらたたきに置いたゴミ袋がひっくりかえって中身が落ちる。それをあわてて拾いながら、
「あ、ああ、えっと、君、何時だっけ」
トラック到着は今から二時間後の予定だった。
「うん、大丈夫、僕のほうは荷物これだけだから、えっと、新入生だよね」
「はい」
「どこ行ったらいいかなんてまだわかんないよね。そこの道、ちょっと行ったところに『かおり』っていう喫茶店があるけど、そことかどう?」
「はぁ……」
喫茶店なんか一人で入ったことがない。そういう提案をするというだけで、この頼りなそうな人が急に大人に見えた。ためらってると、僕のとまどいがわかったみたいで、
「ああ……それもちょっとか」
ふっと笑われた。全然馬鹿にしたふうじゃないその表情が急にすごく先輩らしくて、なんだか優しい人だなと思う。大学生の先輩後輩ってこんな感じなのか。
「んー、そうだなぁ」
優しそうな人は考え込んだ。
「もしよかったら、空いたところに座ってる? ここ、もう君の部屋なんだし」
ちょっとほこりっぽいけど、よければ、と僕を差し招く。
「ワンルームでバタバタやってるんじゃ落ち着かないと思うけど。君、ゲームとか本とか、なんか暇つぶししててよ、荷物出して掃除して、すぐだから。ほんと、悪いねぇ」
言ってる間にちょうどトラックのバック音が階下にひびく。おそらくこの人のほうの業者が到着したんだ。
「ああ、来た来た、じゃ、待っててね」
「……悪いね、本当にありがとう。君がいてくれて助かったよ」
「そんな、僕こそ、ありがとうございました」
僕のものが運び込まれた二〇四号室は、今は完全に僕の部屋だった。そこで、一緒にコンビニで買った弁当を食べている前の住人であるこの人と僕。
この人が自分の荷物を運び出している間に、一時間早く僕のトラックがやってきた。そこでトラブル発生、料金は親が先に支払っていたはずなのにまだもらってないなどと言い出す運送屋のこわいおじさん。何も言えない僕。
『ああ、すみません、お待たせしてます……あれ、どうしたの』
ひと言入れに来ただけのこの人が、泣きそうな僕に気づいて口を挟んでくれた。
『行き違いみたいですから、もう一回会社とこの子の親御さんに確認しましょう。ね、君、大丈夫だから』
自分の引っ越しそっちのけで不満顔の業者相手にてきぱきと指示を出して、会社のミスだったのを見つけてくれたのだ。
中断していたこの人の荷出しを僕は手伝った。そしたら僕の荷入れを今度はこの人が手伝ってくれて、おまけに両方の業者に『遅くなったから』と飲み物まで用意してくれて、全部終わった今、僕にまでお弁当なんかおごってくれて。もうお世話になりっぱなしで顔もあげられないけど、
(なんか、本当にいい人だな、最初に思ったとおり)
激動の初日に僕はぼうっとしてしまって、なすがままに甘えてしまっている。
「しかし懐かしいな、一年生か。いいよ、大学生って。四年間なんでもできるし、一生の友達や目標が見つかったり、人生が決まったりね。僕は六年間もやっちゃって今年やっと卒業だけどね。とうとうこの学生アパートともさよならかと思うと感無量だな」
六年って留年? 真面目そうなのに意外な気がする。
「先輩……なんですね、もう卒業なんですね」
せっかくこの町ではじめて知り合った人だというのに、これっきり。
「卒論が長引いてね、こんな遅い時期まで居座っちゃった。君は頑張るんだぞ、提出物はしっかり期限を守ること。ああ、学部はどこ?」
「理学部です」
「あら、僕の後輩だな……さて、ごちそうさま。今日は本当にありがとう」
ゴミをまとめて立ち上がった。僕は名残惜しくて、でもどうしたらいいのかよくわからない。
「あの、僕知り合いもまだ全然いなくて、大学のことも全然わからなくて、先輩が初めての知り合いなんです、もしよかったら」
勇気をふりしぼったら、やんわりと、
「僕は去りゆく身だからねぇ。まあ、いいんじゃないかな、僕は」
これは拒絶なんだろうか。
「君はすぐ入学式で、そしたら友達もできるし、サークルにもし入ったら先輩なんかいやというぐらいできる。アルバイトとか、彼女とか、もちろん勉強もね、毎日忙しくて大変になるよ」
僕は今、釘をさされてる。この人をなんていい人なんだろうって思ってるのを、気の迷いなんだよって言われてる。
僕がもっと大人だったら察することもできたんだろう。きっと彼はこう言いたかったに違いない、今、彼に感じている親しさは、新しい環境に不安を感じている子供の勘違いだと。これから出会うたくさんの人の中で、決して特別な出会いじゃないってこと。──ひょっとしたら、たった一回のことで懐かれるめんどくささもあったかもしれない。
「でも、あの、じゃあちょっとの間でいいんです、電話が無理ならメールだけでも、先輩。入学式までの間は僕ひとりなんで、いろいろ教えてください」
実際のところ、僕は子供だった。あきれかえるほどの図々しさ。その時は必死で気づきもしなかった。
彼は苦笑したんだと思う。仕方ないなぁ、いいのかなぁ、いやよくないなぁ、と首の後ろを撫でる。
「今だけだよ、心細いのは。……うん、まあね、その気持ちはわかるんだけど」
まるで親が見守るような優しい目で見られて、年齢とか、経験のへだたりを強く思わされた。僕が十八才ならこの人は……いくつだろう、少なくとも六は年上。
「今からいくらでも素敵な出会いがあるから、大丈夫」
本当に? 大学ってそうなのか? こんなにも執着したくなるような出会いが、そんなにも数多くある場なのか?
長い指がひらひらと別れを告げる。
「僕のことなんかすぐどうでもよくなるよ」
後からわかった。この時すでに恋に落ちていた。強烈な一目惚れ。
相手が同性ということもあって初恋に気づくまでに長い時間がかかって、ようやく慌てたときには僕には何の手段もなかった。あの人の言うとおりたくさんの友人も先輩も知り合いもできたけど、毎日苦しくて、切なくて。
なんだ、やっぱり特別だったんじゃないか。
歯噛みする思いでもっと食い下がらなかった自分を悔いて、結局なにも教えてくれなかった人を恨んだ。
「……だって、なんか君輝いてたんだもん、目がキラキラしててね、僕のことまっすぐ見てね、もう学生でもない僕じゃ友達としても不相応だと思ってねぇ……まあ僕も、先生になるんだ、学生じゃないんだってちょっと気負ってたんだろうね」
僕が三年生になったある日、教育学部になんかに所属してたこの人を見つけたときの驚き。
生物関連の研究室で助手兼論文執筆していた彼を、名前も教えられなかった僕は二年あまりも見つけることができなかったんだった。引っ越しも、学生専用アパートを出ただけで同じ市内だったというのに、それも全然わからなかった。六年間といえば修士の年数じゃないか。
いろいろあきれかえった僕に、それでもまだ若さゆえの馬鹿馬鹿しい情熱が残ってたことに感謝してほしい。
僕が輝いてたって?それってあなたからも好意を感じてくれてたって事じゃないのか。
「俺、最初から運命の出会いだって思ってましたから、先輩」
「ごめんごめん、そうだね……本当にそうだったね」
勝手知ったる元の部屋に今では入り浸りの先輩が笑った。
僕はもう子供じゃないし、先輩も今では全然大人に見えない。