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ヤケ酒


何かあるかもしれない、と思った。

「直也さ、飲みに行こうぜ。ヤケ酒だよ、ヤケ酒。もう飲むしかねーだろ」

同期の達樹は大学時代からの友人だったが、やたらに正義感に溢れているせいで、今も昔も周囲と衝突することが多い。
それでも学生時代はそれが良い方に作用し、雨降って地固まる式でむしろ人気者の部類だった。
けれど――上司との衝突の末に、左遷されそうだと、彼は珍しく弱った顔で呟いて。そしてその直後の、空元気のような笑顔の誘いだった。
いいよ、と僕は言った。
そして、何かあるかもしれない、と思った。
その時、冷蔵庫の中に、趣味で買い求めた上質の日本酒があるのを思い出したのも。
いい店を知っているからと、僕の住むアパートに程近い居酒屋へ連れて行ったのも。
多分、その予感のせいだった。

「美味いなあ、これ。酒が進む」
「でしょ。どれを食べても美味しいし。お酒もいいよ、ここ。丁度、達樹に勧めようと思ってたんだ」
「そう言われると、ヤケで流し込みとかできねえじゃん」
酒で顔を赤くして、達樹がけたけたと笑う。そうすると精悍な顔つきが、不意に子供に戻ったようになる。
そんな顔を、僕は何度も見てきた。
「別にさ、無理しないで。愚痴吐いてもいいんだよ」
「……ありがとな、ほんと。持つべきものは直也だわ」
「友じゃないの」
「んー……」
酔いの回った目を蕩かせて、また笑う。酒に酔った人間の顔なんて、普通はそう綺麗な物じゃない。
なのに達樹をが妙に綺麗に見えて、心臓が鳴るのは、多分僕の目に特別なフィルターがかかっているからだろう。
そう気付いたのは、もう随分前の事だった。
食が進んで、空のグラスがまた幾つか増えた頃、僕はそれとなく達樹に話しかける。
「この後、うちに来ない。近いし、いい日本酒があるんだけど」
「いいな、それ。まだ飲めるし」
「……言っておいてなんだけど、大丈夫?」
真っ赤な顔で、余裕、と嘯く。その癖もたれかかってくる彼を引き摺るようにして、アパートに帰った。
そして、何かあればいい、と思った。望むだけの自分に、呆れた。
僕が用意を整えた盆を座卓に運んだ時には、達樹は既に座布団の上で潰れていた。
やはり居酒屋で飲みすぎたか、と僕は少しだけ落胆する。
それでも、ワイシャツの背に触れて少し揺すると、微かに反応があった。
「やっぱり、寝る? 布団貸すよ」
「……悪い」
起き上がってこちらを向こうとした彼が、不意に姿勢を崩した。
僕に倒れこんできた身体を、慌てて両腕で抱きとめる。
アルコールの匂いが途端に近くなって、けれどそれよりも、近い距離に酷く動揺した。
それを押し殺せるまで黙っていると、その間に、達樹は僕の肩に頭を擦る。
「なあ、直也。俺……」
「……ん?」
短く聞き返すことしか出来なかった。
達樹の顔が間近にあって、その唇が僕の耳元に近づいて。
「俺、な」
耳朶に、何かを迷うような吐息がかかって。
そして。

そして――聴こえてきたのは、安らかな寝息だった。


また今夜も、何も、無かった。
「いいよ。一人で飲んでやるから」
僕は寝かせた達樹を見ながら、猪口に注いだ酒を口に運ぶ。確かに美味しいはずなのに、不思議と味は感じられなかった。
この思いをどうにかするまでは、全ての酒が自棄酒になってしまう。
「……だから取って置いたのになあ」
またあと一歩が、踏み込めないまま。
僕は酒を惜しまず、酔いの中に憂さを晴らす事を選んだ。