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一人称「僕」×「私」


大丈夫です。安心して下さい。何があろうと僕はあなたの側から離れませんから。
男は口もとを綻ばせた。私の右手を両手で握り、親指のはらで慈しむようにそっと撫でる。
このまま何も言わなければ、足を折って恭しく手の甲にキスもしかねない雰囲気だった。慌てた私はその手を振り払い距離をとって男を睨んだ。
「睨まないで下さい。あなたを困らせるつもりはないんです」
確かに、この男に困らされたことはなかった。それどころか私がこの男を困らせていたくらいだ。

「おい、お前、俺の側にいろ。命令しやすいからな」
男とは高校からの付き合いだった。友人としてではない。この男はいじめの対象だった。
背だけは昔から高かったが、骨と皮しかない軟弱な身体をしていて、おまけに話すことも苦手だった男は、あの頃やんちゃだった私にとって恰好の餌食だった。
いじるのは楽しかったし、男は私の命令に文句も言わず従っていた。

この関係が変わり始めたのは高校を卒業してからだった。
独り暮らしを始めた私の隣の部屋にこの男が引っ越してきた。偶然だと思った。男が通う大学もここから近かったし、家賃も安くてお得だったから。
男は晩ごはんを作りに私の部屋に来るようになった。インスタントだと身体を壊してしまいます。ちゃんと栄養を摂らないと駄目です。最初は鬱陶しいと思ったいたが、男の作る料理は美味しかったし、たまに掃除や洗濯をしてくれるので黙っていた。

ある時、女に告白されて付き合うことになった。当然、家に連れ込むこともあると考えた私は男にもう来なくていいと伝えた。私の命令には絶対に従う男だ。あっさり承諾した。
彼女とは一週間も経たずに別れることになった。他に好きな人ができたのだという。そこまで未練もなかったが、その日は男の部屋へ押し掛け愚痴を聞いてもらった。「自分から告白してきたくせに」と酒を煽る私に「見る目がない女だったんですよ」と男は笑い私のほほを撫でた。
気づけば私は、男に愚痴を聞いてもらうのが当たり前になっていた。会社のこと、彼女のこと、なんでも話すようになっていた。男はそのたびに目を細めて聞いていた。
彼女との仲を邪魔していたのはこの男だと知ったのは昨日のことだった。別れた彼女が、この男に紹介された男と付き合うようになったと話したからだ。意味が分からなかった。どうして彼女と私が付き合っていることを知っているのに他の男を紹介したのか。
私は一晩考え、今日、男の部屋に押し掛けた。どうしてそんなことをしたのか。尋ねると男は言った。
「あなたにあんな女は勿体ないです。側に居られても目障りだ。それとも他の男に簡単に股を開く女が好みでしたか?」
私を茶化しているわけでは無さそうだった。目が本気だった。背筋がぞっとした。
「僕をいじめていた時のあなたは最高だった。勉強も運動もできたあなたはクラスの王様で、僕の憧れだった。僕に命令するときの背徳感と愉悦感にひたるあなたの顔は美しかった。それが見られるだけで僕は幸せだった」
「何を……言っている?」
「あなたに相応しくない人間があなたと一生を過ごすなんて堪えられないと言っているんです。僕だってほら、あなたに相応しくなるために変わったでしょう」
そう言って手を広げる男の身体は、昔と違って筋肉のついた男らしい身体に変貌している。
だが、それだけのことを言っているのではないのだろう。いいところの会社に勤め、家事もでき、人付き合いも出来るようになっている。たしかに劇的ビフォーアフターだ。
「分かった。お前が変わったのは認める。彼女のことも、まあ、そこまで思い入れがあった訳じゃないから、いい。だが、これからも邪魔をするというなら話は別だ。このままだと私は一生一人だ」
感情的になって声を震わせると、男は言った。大丈夫。僕が側に居ると。

「さあ、そんなに警戒しないで、いつものように晩ごはんを食べましょう」
男は困ったように眉を下げ、とっていた距離を縮めてきた。
「ち、近づくな」
「怯えていますね。あの頃のあなたとは大違いです」
「だったら、もういいだろう。憧れだった私はもういない。部屋に帰る」
「なら、僕も行きます」
「どうしてお前が……お、お前、まさかとは思うが、男が好きなのか」
「え」
男は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。ぱちぱちと瞬きをしている。どれくらい時間がたったのか。男は憑き物が落ちたかのように満面の笑みを見せた。
「あぁ、なるほど。僕は、あなたのことが好きだったのか。ふふ、謎がとけました。だから、あなたをたぶらかす女たちが憎らしかったのですね」
男は私のもとへ走ってくると、がばっと被さるように抱きついてきた。
「ぐっ、おい、離せ」
「ふふ、好きです。今まで気づかなかったのが恥ずかしいくらいですね。あなたが好きだ。大好きです。どうしてこんな簡単なことに気づかなかったんでしょう。ああ、駄目です。ちょう好きです。どうしましょう」
「なっ、何を言って、ばか、それは勘違いだ。お、俺はお前なんか好きじゃねえぞ!」
「ふふ、昔の口調に戻ってますよ。好きです。可愛い。好きです。懐かしいです。好きです」
「あー、もう、黙れ!」
男の口を塞ぐと、その手をべろりと舐められた。ぞっとする。食われるのかと錯覚した。食物連鎖のピラミッドが逆さを向いているようだった。
「好きです。好き。好きすぎて黙れません。あなたが好きです。自覚すると、こんなに溢れだしてくるものなんですね。面白いです。好きです。あなたも、覚悟してください」
男は私の腰に手を回し、力を込めた。昔とは違う腕の太さ。もがいても逃げられない。
「好きです。キスしたいです。好きです。体を繋ぎたいです。好きです。好きだ。あなたの心をくれ」
「やめろ」
暑くもないのに、嫌な汗が垂れてくる。呪文のような言葉を聞きながら、私は目を閉じた。

思い返すのは、初めて声をかけたときのこと。
(おい、お前、俺のそばにいろ。命令しやすいからな)