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主審とピッチャー


その夏、私は恋をした。
青く高い空を背負って、グラウンドの土色を踏みしめて、彼は王様のように堂々と不適に笑う。
九回の裏、二死満塁。ドラマにしても出来すぎている舞台の上で、エースはそれでも真っ直ぐに前を向いていた。
まだあどけない日焼けした頬を汗が伝う。帽子のひさしの影の中で、挫けきらぬ目が弓を引き絞るように眇められる。
その視線に射すくめられ、観客の歓声が瞬間遠のく。十八.四四メートルを隔てて、その瞳に絡めとられた気がした。
否、錯覚だ。その目が見ているのは私ではない。
しなやかな腕が振られ、矢のような速球が放たれる。僅かに外れた。感情を排して告げた声に、彼が唇を噛む。
彼の視線が私に向けられることはない。その獰猛な眼差しは、相対する打者と、捕手の指だけを熱く見つめている。
私は黒子だ。この舞台を最も間近で見ていながら、しかし今この瞬間、彼の世界にだけは存在していない者だ。
これまでに幾度となく繰り返された数多の試合と同じ、至極当然で無情な事実に、腹の底が焦がれる思いがした。
爪先でマウンドの土を均し、捕手のサインに彼は力強く頷いてみせる。一つ大きく息を吐いて、大きく腕を振った。
渾身の直球はうつくしい軌道を描き、けれどミットに届くことはなかった。冷ややかな金属音が響いて、弾丸の如く白球が飛ぶ。
ボールの行方を追って振り向いた彼はしばし立ち尽くし、やがてふつりと糸が切れたように膝を折り、崩れ落ちる。
歓喜の輪の傍らで、誇り高い背番号はじっとうずくまって顔を伏せたまま、彼の夏が終わる音を聞いていた。
やがて仲間たちの手に支えられ、涙に濡れた顔を気丈に上げた彼は最後まで真っ直ぐな礼をして、潔く私に背を向ける。
今までと何も変わらない夏が過ぎていく。出番を終えた役者は去り、また次の主役たちが舞台に上がる。
ただそれだけのことに胸を痛めることも、そんな権利すらもないのだと、醜く自分に言い聞かせる私だけを取り残して。
凄惨なまでに青い空の下で、私は生まれて初めて、舞台の外にいるしかない黒子としての己を哀れんだ。
その夏、私は恋をした。決して叶うはずのない、ただ一夏の、一瞬の恋だった。