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美男と野獣

森へ入ってはいけないと言われていた。
森には怖い魔女が住んでいて、捕まると魔女の棲家にある大鍋に入れられて毒薬の材料にされてしまうと。
けれど今自分の目の前にいるのは魔女ではなく、全身毛むくじゃらの化け物だった。
村一番の大男など遥かに凌ぐ大きな体、口元には牙が覗き、鋭い爪も見える。
まるで山狗か狼のような姿なのにそれでも化け物だと思ったのは、それが両の脚二本で立っていたからだ。
人間のように立つ獣なんて、絵本でしか読んだことがない。まさか本当に居るなんて。
(きっと、僕のことなんか一口で食べてしまうんだ)
逃げ出そうにも右足は痛みを増すばかりで言う事をきいてくれそうにない。
走る以前に、腰が抜けて立ち上がることもできない。
荒い呼吸で肩を上下させながら、化け物がこちらへ一歩踏み出してくる。
僕は反射的に朝のお祈りのときのように両手を組んで、眼を閉じた。
(神様、神様、神様……!!)

と、ざわざわと木々が揺れる音がしたかと思うと、強い風が吹いた…ような気がした。
しかしそれは一瞬だけで、すぐに辺りはしんと静まり返る。
僕はしばらく目を瞑っていたが、いつまで経っても身体に化け物の爪や牙がかかる気配がない。
もしや風に驚いて、どこかへ行ってしまったのだろうか。
(………?)
恐る恐る目を開ける。
化け物はまだそこにいた。けれど、僕の方を向いてはいなかった。
先ほどの場所に立ったままこちらに背中を向けて、何か、別のものに注意を向けているようだった。
それが何なのか見ようにも、僕のいる場所からは化け物の大きな体に遮られてよくわからない。
ただ、別の誰かがそこにいる気配はした。人の気配。
……もしかして、村の誰かが助けにきてくれた?
僕は身体を少し移動させて、化け物の向こう側を見ようと試みた。
けれど、這うときに肘が枯れ枝を折ってしまい、乾いた音を立ててしまう。
音に反応したのか、化け物が――なぜかぎくりと肩を揺らして――身体ごとこちらを振り返る。
視界が開けた。
(あっ)

そこには、魔女が立っていた。

黒ずくめのローブを着ていて、手には変わった形の杖を持っている。
魔女だというから絵本で読んだお婆さんの姿を想像していたのに、それよりも
ずっとずっと若くで、とても綺麗な人だった。まだ若い魔女なのだろうか。
若い魔女が少し首を傾げてこちらを見る。フードから真っ直ぐな黒髪が零れ落ちた。
助けてもらえるかもしれない。
「あ、あのっ……!」
その人に声をかけようとした矢先、化け物が魔女と僕の間にまた割って入って、魔女の姿はまた見えなくなってしまう。
化け物は……また僕に背中を向けていた。心なしか両腕を広げている。――まるで、僕を庇うように。
僕は訳が分からずに、ぽかんとその毛だらけの背中を見上げた。
草を踏む音が静かに近付いてきて、止まる。
「どけ」
聞こえてきたのが男の人の声で、僕は驚いた。
「私に気付かれずに済むとでも思ったのか、馬鹿が。この森は私の城だぞ?」
その人は当然のように、化け物に向かって喋りかけている。
そして化け物の方もそれに対して暴れたり襲い掛かろうとする雰囲気は無い。
「それはあの村の子供だろう。西の入り口から入ったようだな。これは立派な盟約違反だ」
どけ、と言う声がもう一度聞こえて、化け物の身体がゆっくりと脇へ退く。
そして僕の前に進み出てきた魔女――男だから魔法使いだろうか?――は近くで見ても
やっぱりとても綺麗な人だった。
その人は、立ったまま僕を見下ろしてきた。
「おい子供。森へ入ってはならないと、親に教わらなかったか」
決して大きな声を出しているわけではないのにその声音は威圧的で、僕の身体は竦み上がる。
まるで教会にある聖母様の像のように綺麗な顔なのに、浮かんでいる表情は酷く冷たい。
なぜか、この人の方が化け物よりももっともっと怖いもののような気がした。
「森には怖いものが居て住処に勝手に入ると殺される、そう教えてはもらわなかったのか?」
その言葉に僕ははっとなる。
魔女に捕まって毒薬の材料にされる、というのはどこか遠い世界の話のように頭のどこかで思っていた。
しかし今「殺される」という直接的な言葉で、絵空事は現実に引き寄せられた。
全身が震えだす。
後退りする僕を見て、男は端正な顔に笑みを浮かべた。
「そうか、言いつけを守らなかったのか。悪い子だな」
言いながら杖をくるりと回して、杖の頭を僕の方へ向ける。
周囲の木々がざわざわと騒ぎ始めた。
得体の知れない恐怖が襲ってくる。何か途轍もなく怖いものがくる、そんな予感がした。
許しを乞おうとしても声がうまく出せない。
(神様……!)
目の前が真っ暗になった。と同時に身体が地面から浮かび上がる感覚。
これが魔女の魔法なのだろうか。僕はこのまま死んでしまうのだろうか。
そんなことが思い浮かんで……けれど、僕の意識は数瞬後もそのままだった。
身体のどこも――森に入ったときに転んで挫いた足以外は――痛くない。
「……。聞き分けの無い奴だ」
魔女の人の低い声が耳に入ってきて、僕はゆっくり首を動かして辺りを見回した。
そして気付く。
僕は、あの毛むくじゃらの化け物に抱きかかえられていた。
顔のすぐ傍に鋭い爪が見えたが、それは僕の身体に食い込んだりはしていない。
寧ろ爪が触れないように、手首から先が反らされている。
「お前はいつまで経っても甘い」
こちらを……いや化け物の方だけを見て、魔女の人が溜め息をつく。
「子供だからと目こぼししたところで、何の得もないというのに。無事に森の外へ出したとしても
 感謝などされず、お前が余計に恐れられるようになるだけだと何故わからない。本当にお前は馬鹿だな」
厳しい口調だったが、さっき感じたような冷たさは無い。
ただ、表情はとても苦々しいもので、まだどこか怖さを感じる。

僕はこれからどうなるのだろう。
殺されるのだろうか、助かるのだろうか。村へ帰れるのか、もう森の外へ出られないのか。
頭のすぐ上から荒い呼吸音が聞こえてくる。
僕は恐る恐る、化け物の顔を見上げた。