※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

夢精

「兄貴兄貴兄貴っ!? ねえ、兄貴ってば!!」
ドタドタと盛大な足音を立てて、一段抜かしに階段を駆け下りてくる我が弟に、俺は小さく吐息した。
「うるさい、黙れ。そして階段は静かに下りろ」
「だ、だってだってだって!!」
そう口にする弟の頬が、いつもと違い林檎のように赤く染まっている。
おまけに目元には、薄っすらと涙まで滲みかけているようだ。
何なんだこいつはと思っていれば、眼前の弟は蚊の鳴くような声でこちらに縋ってぽそりと告げた。
「お、俺、おもらししちゃったみたい……」
「…………は?」
あまりに予想外なその言葉にあっけに取られ、手にしていた新聞を思わず床へ取り落とす。
口をぽかんと開けたまま何も言えずにいる俺に、弟はなおも小声で続けた。
「どうしよう、母さん達昼には帰ってきちゃうよね? ……それまでに、布団乾く? 乾くかな!?」
漸く立ち直ったこちらが「無理だろ」とにべもなく返せば、弟の瞳へ見る間に新たな涙が溜まっていく。
羞恥心やらショックやらでいっぱいいっぱいになっているらしいその表情が、妙に可愛らしい。
男の端くれとして、そんな顔をされたらいやでももっと苛めてみたいなぁと思ってしまうではないか。

……いや、普通は実の弟に対してそんな感情を抱かないものなのかもしれないが、そこはまあ置いておいて。

今にも声を上げて泣き出しそうな弟の眼前に頭を寄せて、いかにも呆れ果てたといった風を装って告げる。
「おまえさぁ、自分が何歳だか分かってるの? 普通、その年じゃもうそんなことしないだろ」
「だ、だって……」
まだ声変わりもろくにしていない甲高い声に、ひっくひっくと咽喉をしゃくりあげる音が混じりだした。

情けなさそうに顔を俯かせ、おろおろと目を泳がせる弟に、冷酷な口ぶりで突き放すような言葉を重ねてやる。
「ま、俺はそんな汚いもの触りたくないし、自分一人で何とかしろよな」
それだけ言うと、床から拾った新聞を再び広げ始めながら、こっそりと横目で弟の顔を盗み見る。
ふるふると肩を大きく震わせている姿に、「泣くな、これ」と思った次の瞬間、予想通り大きな嗚咽が漏れた。
えっくえっくと号泣する弟を見て、抑えきれない笑声が浮かんでくるのを感じる。
背中を這い上がってくるぞくぞくとした感覚に笑みを噛み締めると、仕方ないなと言いたげな顔で弟に腕を伸ばした。
頬に垂れおちた涙の筋を指先で優しく拭ってやると、最上級の温和な笑みで告げる。
「ほら、洗濯手伝ってやるからもう泣くな」
「あに、き……? いいの?」
「隣でびーびー泣かれたら、うるさくてかなわないからな。……今回だけだぞ?」
寝癖で乱れた前髪をぐしゃぐしゃと撫で上げながらそう言ってやれば、途端に陽が差したように弟の顔がぱっと明るくなった。
そのままこちらへ抱きついてくる弟に、「ああやっぱり可愛いやつめ」などと思いくつくつと咽喉の奥で笑う。
「まったく、どうせ寝る前に冷たいものでも飲んだんだろ」
「違うよ、俺、そんなことしてないもん!」
さっきまで泣きべそだったというのにいきなり強気になった口調に苦笑しながら、「じゃあ何してたんだ」と尋ねる。
その問いに、何故か先ほど以上に顔を赤くした弟から返ってきた答えは、しかし俺の予想を超えていた。
「ベッドで兄貴のこと、考えてて……。それで、寝て起きたら……、その、してて」
もじもじと身体を揺らしてそう告げる弟を前に、思いがけず声を失った。

もしかして、俺たち兄弟は揃ってどこかおかしいのだろうか。そう思わないではないが、あまり気にしないことにしよう。
……そうだ、今はとにかく、布団の洗濯だ。
それにしてもまずい。このまま二度寝でもしたら、俺のベッドのほうにまで被害が及びそうだ……。