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君に笑っていてほしい。

 お下げの間に覗く、白いうなじに目が惹かれた。

 あにさんが、なんや先から妙に落ちつかん様子で。最近何かあったん?
 首をかしげた少女に、僕はただ笑顔を返した。
「ああ、またそれやわ」ほんまに、そうやって笑って済ますんはこすい。そう言いながらも、鮮やかな笑声を残して、彼女は稽古事へと出かけて行った。
 うなじに僅かほつれた黒髪が瞳に残る。彼女の背が、玄関先から町へと降る道先へと去ってなお見るのをやめられず、木戸の前に立ち竦んだ。
 少女の消えた道の先、夏色も薄れた緑葉が靄がかる。
「──入らんのか」
 やおら掛けられた低声にも、視線も向けずに「うん」と頷き、頷いてから漸う背方を振り返った。
 大柄の身を、戸口に合わせて屈ませた男の瞳と視線が絡む。ひとつ息を吸い、それから吐いて、僕は顔を綻ばせた。
「綺麗になってきたな。ほんまに」
「なんじゃ、藪から棒に」
 片眉を緩と上げた彼の、硬い双眸が僅かに揺らいでこちらを外れる。
 僕はまた笑い、戸口を塞ぐ彼の肩を軽く押した。
「大事な妹なんは、ようわかっとる。──盗らへんから、安心しィ」
「……何言うてんねん。そんなやない」 
「違うなら、こっち向いてちゃんと話しィ」
 わざとからかう様に言うと、彼はむっつりと押し黙ったまま顔を逸らした。細くたおやかな見目の少女とは似ても似つかないようでいて、その硬く角張った横顔は、しかしどこか彼女の拗ねた顔を連想させる。
「──兄妹やな。やっぱ、似とるわ」
 言えば虚を衝かれた風に戻った瞳に、僕はやんわり口端を吊った。
 指先を、彼の厚めの唇に伸ばす。
 彼は少し身じろいで、しかし硬い表情は崩さない。刹那その双眸を見詰め、今度は僕が先に視線を外した。
「そのひん曲がった口。……ああ、でも、あの子がおまんに似とるんかな」
 やんわりと唇の形を辿る僕の手首を、不意と太い指先が握りこんだ。
「──」
 逸らした目蓋の上にでも、硬い、しかし何より切実な瞳の揺らぎが見えた気がした。
 彼がいつも向けくる視線の強さ。硬い墨色に潜んだ喰らい付くような渇望を、僕はよくよく知っている。
「わしは、ッ──「──僕はこの町を出る。もう知っとるやろ」
 掠れた低声に、ややと高い声を無理やり被せる。
 掴まれた手首を、ぐっと彼の胸元の方に押すと、躊躇ったように手離された。
 唇を薄らわななかせる男の、骨ばった顔立ちを敢えてとっくりと眺めて、僕はにっこりと笑顔を浮かべた。
「のう、親友の門出やで。笑ってくれへんのか」
 親友、と呟いた男に頷きながら、僕は密やかに手首を自分で軽く握った。
 見た目よりも熱い体温が、肌から離れた気がしない。
「おまんには、頑張れよって、笑って見送って欲しいんじゃ。あかんか?」
 おまんは、笑った顔が一番あの子によう似とる。
 彼を打ち倒す言葉は、笑顔の内側へと緩りと飲み込む。
 脳裏を占めるのはあの子の笑顔だ。──手首から、彼の温度が離れない。

 手首の内側の肌に爪を埋める。
「おまんには、笑っていて欲しいんや」
 引き攣った顔が、どこか泣き出しそうな笑みを浮かべていくのを、狡い僕はただ張り付いた笑顔で見詰めていた。