きつね

真っ赤な鳥居を潜り抜けたその瞬間、きつねは嬉しく嬉しくて思わず笑ってしまいました。
生まれてから今まで何度挑戦してもべしんと無常にはたかれる、その境をようやく彼は越えたのです。心の底から暖かいような走り回りたいような気持ちがあふれ出て、きつねはおもわずくふんと笑ってしまいました。そして舌を噛みました。きつねが笑ったのは今が初めてなんですからしょうがありません。人間も動物も神様も初めてのことをする時にはちょっと失敗するものです。
きつねはちょっとじんじんする舌を冷やそうとべろりと顎から出しながらそれでもくるんと一回転しました。葉っぱはいりません。きつねはきつねですから小道具に頼らなくてもそのぐらいはできるのです。
ぼふん、と古典的な音と煙がきつねを包みました。その煙を見ながらあー俺所詮アナログ世代よね、ときつねは思います。彼は案外人間の世界に精通していました。
やがて現れたのは二十代前半の男性にきつねのもこもこした金色の耳とふかふかした立派な尻尾をつけた、微妙に漫画でよく見るような人物でした。きつねはすぐに自分の失敗に気がつきましたがなんというか、結構一杯一杯でした。きつねはきつねなので変身するのに葉っぱは使いません。使いませんが、生まれてこの方『ここは通さんでごわす』みたいな壁のこちら側で生きてきて、なんだよ修行しても意味ねえじゃん! それじゃあ、さー(↑)ぼろー(↓)みたいな逆ギレで修行をサボっていたきつねには耳と尻尾を隠すほどの力はついていませんでした。
きつねはあわあわし、何回か失敗とリトライを繰り返し、最終的に開き直りました。大丈夫! きっとこのままで行ってもああ電波な人だわ、で済むに違いない!
きつねは本当に日本の文化について精通していました。
「あ、あー……。やあ初めまして君ってどこから来たの? ええマジで俺もなんだよじゃあ山の向こうの赤い鳥居のお稲荷さんを知ってるかい?」
人の口の形になれるために繰り返したのはあの子に会った時に言おうとしている言葉でした。
あの子、と思い出してきつねは思わず俯きました。先ほどまでピンと立っていた耳も尻尾も今は力をなくしてしょんぼりと項垂れています。
あの子は、きつねの記憶に間違いないなら十年前からいつもここに来ていた子でした。最初は小さい人間だと思っていました。きつねはそれが子供という人の形であることをその日初めて知りました。
子供は、毎年ここに来ていました。赤い鳥居を抜けて、きつねの眠る場所の一歩手前で足を止め、いつも笑って頭を上げて「こんにちは、お邪魔します」と言いました。
きつねはその子が大好きでした。その子が男の子でなかったら神隠すくらいに好きでした。その子が受験だといえば学問の神様に頭を下げ、宝くじを買ったと言えば運の神様のところに酒を持っていくくらい好きでした。
幸いあれと、きつねは願っていました。幸いあれ、彼の行く道に光あれと。
けれどその子は先月別れを告げました。大学に行くからここにはもう滅多に帰ってこられないんだと言って、日本酒と草団子を置いていきました。おまえここはあぶらげだろうがよ! と思いながら草団子をかじったきつねは泣いて、舌を噛みました。だってきつねは生まれて初めて泣いたのです。
じんじんする舌をだらりと下げて考えて、きつねはついに思いつきました。
あの子の幸いを自分の手で生み出すのだと。傍にいて、ああけれどきっときつねだと引き離されてしまうから人に化けて、大学生のふりをして、そして彼の傍で幸福を。思った瞬間にきつねは走り出し、そして真っ赤な鳥居を抜けました。
けれどきつねは知りません。ここからあの子のいる東京までは車で四時間半かかります。
けれどきつねは知っています。誰だって初めてのときはちょっと失敗するものです。


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最終更新:2009年04月04日 14:10