※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

舞台はスラム

コンコン、と扉が叩かれる。
どうぞ、と答えるよりも早く、薄い扉は来訪者によって開かれた。
スーツ姿で、片手に大きな紙袋を抱えたまま部屋へするりと入ると、もう片方の空いた手で扉を閉める。

「大丈夫か?」
「ええ、今日はかなり調子がいいですよ」

固いベッドの上に身を起こした部屋の住人は、儚げな笑みで答える。

「いつもすみません、リヒト」
「気にするなと言っているだろう、チサト。お前はこの街に必要な人間なんだ、早く体を治すことだけを考えろ」

紙袋を脇に置いて、ベッドへ腰掛けると、中から林檎を取り出した。サイドテーブルのナイフを使って手早く皮を剥き、それを無理矢理口へねじ込む。
慌てて咀嚼して、チサトはベッドから足を下ろした。
咎める様なリヒトの視線を躱し、ゆっくりと立ち上がると窓を開ける。
煤けた灰色の空が、すぐに視界を埋めた。

「教会は…どうなりました?」
「ウチの人間を何人かつけてある。心配するな」
「子供たちは?」
「アジトをひとつ、提供しておいた。ほとぼりが冷めれば、お前と共に教会に戻れるさ」

カチ、と音がしてリヒトが煙草に火をつける。
気を遣ってか、部屋の真反対で長身の体を丸めるように、小さな窓の側でそれを吸い始めた。
そんな姿を見て、チサトが小さく笑う。

「それにしても、驚きました」
「あ?」
「いきなり、あんな風に実力行使でくるとは思わなかったので」
「ふん、相変わらず甘いことだな」

紫煙を窓の外へ吐き出して、リヒトは言った。

「あの教会は、いまや街のシンボルだ。多少危ない橋を渡ることになったとしても、自分の勢力に引き入れたくなるのさ。
…俺たちみたいにな」
「それは、でも」
「チサト、周りを信用するな。お前は自分の守りたいものを守れ」

その口調は、ずいぶん自虐的ではあった。
リヒトの横顔をじっと見つめていたチサトは、やがて視線を落としてつぶやいた。

「けれど、リヒト。あなたはわたしを助けてくれた」
「ガキの時の話だろう」
「いいえ、昔も、もちろん今も」
「チサト…」
「あの教会で、皆で暮らしていたころから…あなたはわたしを、助けてくれていた」

すっと顔を上げると静かに、チサトはリヒトへ一歩だけ近づく。

「リヒト…あなたは」
「言うな、何も。俺は…もう、戻れない」

ため息混じりの言葉に、チサトは再び窓の元へと戻った。

「これから、どうするんですか?」
「俺は俺の仕事にもどるだけだ」
「…また、会えますか?」
ごちゃごちゃした街並みを背に、真剣な瞳で問うチサトに、リヒトが思わず息を飲む。

「…お前と俺は、本来相入れないはずだ」
「そう、ですね。ですが、わたしは表で、あなたは裏で。いる場所は違えど、ここを大切に思っているのは同じでしょう?」
「ああ、何故だろうな。生きていくにも苦労するような薄汚い街だっていうのに」
「あなたの前にも、わたしの前にも、同じように思った人がいたからでしょうね」

そうか、とつぶやいて、リヒトは煙草を灰皿に押し当てる。
そして、ふらりと扉へ向かうと、真剣なチサトの瞳から逃げるように部屋から出た。

「また、会えますよね」
「さあな」

部屋を出る直前、再度投げられた言葉に濁した返事をして扉を閉める。
階段を下り、外へ出ると、リヒトは電線だらけの狭い空を見上げた。

煤けた灰色の空が、やけに眩しく感じる。
瞼の裏に浮かぶチサトの顔を振り切る様に、リヒトはまた煙草に火をつけた。